どうでもいいです、の話

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保守記事.131-16 再生させる気はあるのか?

2011-04-15 17:14:46 | 記事保守

都知事・小泉チルドレン…夕張市長選に弁士続々

 財政破綻以来、2度目となる夕張市長選(17日告示、24日投開票)に立候補を予定している一部陣営を応援するため、石原慎太郎東京都知事や、かつての“小泉チルドレン”の女性国会議員らが、夕張市入りすることになった。

 一方、外部からの応援は一切受けずに選挙戦に臨む陣営もおり、有権者の判断にどう影響するかが注目される。

 元都職員鈴木直道氏(30)の陣営の応援には、先日4選を果たしたばかりの石原知事が告示後の20日、夕張市入りする。石原氏が同市に入るのは、 財政破綻以来初めてとなる。石原氏は午後2時からの街頭演説、午後3時から市内の「はまなす会館」で行う総決起集会に参加予定という。陣営では「『東京と 夕張をつなぐ』と訴えている我々には、大きな勢いになる。ムードを盛り上げていきたい」と歓迎する。2月に夕張市を訪れ、鈴木氏の応援を行っている猪瀬直 樹副知事も、選挙戦終盤に夕張を訪れる見込みだ。

 前衆院議員飯島夕雁氏(46)の陣営には、告示前の15日に佐藤ゆかり、告示後の18日に片山さつきの両自民党参院議員が、それぞれ応援に訪れ る。陣営では「飯島の衆院議員時代の仲間である2人が、ぜひ応援したいと自ら名乗りを上げてくれた」と話す。21日には、武部勤・自民党元幹事長と親交が ある俳優の杉良太郎さんも夕張入りし、飯島氏とともに、市内の福祉施設などを回る予定だ。このほか、17日朝の第一声には橋本聖子参院議員らが出席。推薦 しているみんなの党や、公明党の国会議員も、期間中に夕張入りする予定といい、応援の総数は10人近くになる見通しだ。

 一方、外部から応援の有名人を呼ぶ予定が今のところないのは、農業羽柴秀吉氏(61)と、塩販売業笹谷達朗氏(52)の2陣営。

(2011年4月15日07時43分  読売新聞)

保守記事.391-3-2 何しに来たんだ?

2011-04-15 17:11:54 | 記事保守

炊き出しの後に反省会…酔って脱線した副町長

東日本大震災の被災者をご当地グルメで元気づけようと、岡山県が今月、福島県会津美里町の避難所に派遣した岡山県美咲町の形井(かたい)圓(まどか)副町長と町職員らが、炊き出しの後、地元ラーメン店で酒を飲み、女性店員に「お姉さん、こっちに来れば」「刺し身はないのか」などと、配慮を欠く言動をしていたことが分かった。

 関係者によると、美咲町の形井副町長と職員7人が5日夜、ラーメン店でビールや日本酒を飲んだ際、副町長が女性店員に 話し掛けた。副町長らは6日夜も県職員を含む十数人で、県チャーターのバスに乗って居酒屋に行き、1人飲み放題約4500円の「反省会」を行っていたとい う。

 形井副町長は「場を和ませるため、話し掛けた。居酒屋は食事のつもりだったが、被災地に近いことを考えると軽率だったかもしれない」と話してい る。しかし、参加者の一部からは「日々の食事に困っている被災者に申し訳ない。ボランティアの気持ちが台無しだ」との声が出ている。

(2011年4月15日10時30分  読売新聞)

保守記事.391-2-3 希望の光

2011-04-15 16:26:13 | 記事保守

大津波で妻と息子を失った市職員 「負けないで」と被災者に呼びかけ

2011.3.18 22:02 (1/2ページ)
地震発生時刻に合わせ、妻子の冥福を祈る市職員の西城卓哉さん。右下は、西城さんが決意を記した張り紙=18日、宮城県名取市役所

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地震発生時刻に合わせ、妻子の冥福を祈る市職員の西城卓哉さん。右下は、西城さんが決意を記した張り紙=18日、宮城県名取市役所

 「苦しいけど 負けないで! 名取市職員 S」。東日本大震災で大津波が押し寄せた宮城県 名取市の市役所玄関ガラスにこんなメッセージが書かれた紙が張り付けてある。書いたのは名取市職員、西城卓哉さん(30)。津波で最愛の妻、由里子さん (28)が行方不明になり、8カ月の長男、直人くんを失った。自分と同じくかけがえのない家族を失った人たちは多い。それでも精いっぱい生きてほしい-。 そんな思いを込めたという。

 3月11日。激しい揺れを感じた西城さんはすぐに、職場から由里子さんの携帯電話を鳴らした。一瞬つながった が声を聴けず、途切れた。すぐに市役所は地震で大混乱、職員としてさまざまな対応に追われ、気が付くと12日未明になっていた。ようやく自宅マンションへ 戻ると、エレベーターは止まり、泥に足をとられた。部屋に入ると、2人の姿はなかった。近くの由里子さんの実家へ向かった。

 毛布、食料、 紙おむつ…。寒さと飢えをしのげるよう紙袋に目一杯詰め込んで、必死に歩いた。「あとは、2人を見つけるだけ」。しかし、周辺に原形をとどめる家はほどん どなく、がれきの山だ。ひょっとしたら、がれきの下敷きになっているかも知れない…。由里子さんの実家を目指しながら、一晩中捜した。しかし、実家も建物 はなくなっていた。

 翌日夜、由里子さんの母親とようやく出会えた。自衛隊のヘリコプターに救出されたのだという。憔悴しきった義母は「2人とも流された。どこにも姿がないの…」という。絶望的な気持ちになったが、わずかな望みを信じ捜索を続けた。

 しかし、直人くんとみられる遺体が安置所にあると聞き、15日夜、身元を確認した。「肌着も服もよだれかけも、妻が好んで着せる組み合わせだった」。安置所で死亡届を出すと居合わせた同僚職員が泣き崩れた。

  職場の後輩だった由里子さんと出会ったのは3年前。「誠実で信頼できる人」と一目で直感し、6月14日の由里子さんの誕生日にプロポーズした。昨年7月に は直人くんが生まれた。幸せだった。デジタルカメラには、3人で迎えた最初のクリスマスの写真が保存してある。今年2月に撮影した1枚は3人で写った最後 の写真。眺めていると、さまざまな思い出があふれてくる。

 それでも西城さんはメッセージを書いて、市役所玄関ガラスに貼り付けた。

 『最愛の妻と生まれたばかりの一人息子を大津波で失いました。

 いつまでも二人にとって誇れる夫、父親であり続けられるよう精一杯生きます。

 被災されたみなさん。

 苦しいけど

  負けないで!

   名取市職員 S』

 地震発生からちょうど1週間の18日午後2時46分、西城さんの職場でも黙祷を告げるサイレンが鳴り響いた。(吉田智香)

 

被災者へ「負けないで」 妻子失った市職員がメッセージ

 「被災されたみなさん、苦しいけど負けないで 職員S」。東日本大震災で被災した宮城県名取市役所に張り出されたメッセージが、人々を励ましている。書 いたのは市職員の西城卓哉さん(30)。津波で7カ月の一人息子の直人ちゃんを亡くし、妻由里子さん(27)は今も行方がわからない。「2人にとって誇れる夫、父親であり続けたい」と自分を奮い立たせて仕事を続けている。

 3月11日午後2時46分。市役所庁舎の自分の机にいた卓哉さんは、揺れを感じるとすぐに由里子さんの携帯に電話をかけた。呼び出し音がして一瞬、通じ たと思ったが、1秒も経たずに「ツーツーツー」と切れた。激しい揺れの中で何度もかけ直した。携帯の画面には「発信できません」の表示。不安だったが「直人を守ってくれているはず」と自分に言い聞かせた。

 卓哉さんが所属する保険年金課は、災害時には被災者の受け入れ態勢作りをすることになっていた。すぐに、避難所の食料調達の仕事が回ってきた。作業中に傷がつかないよう、結婚指輪を外してスーツの胸ポケットにそっとしまった。

 仕事を終えて、名取市内の自宅マンションに帰ったのは12日午前2時ごろ。海岸から約3キロ離れていたが、あたりは水と泥でぐちゃぐちゃだった。ドアを 開けて「由里子」と呼んだが、2人はいなかった。「どこかで寒い思いをしているはず」と、毛布や食べ物、オムツなどをいっぱい積んで車を走らせた。一晩中、近くの避難所を回り、駐車場に由里子さんの銀色の車を捜した。

 早朝、自宅から約3.5キロの由里子さんの実家を目指した。直人ちゃんを連れてよく遊びに行っていた。途中から道路ががれきと泥で寸断されていた。車を降り、がれきをつたって歩いた。海岸から約1キロの2階建ての実家は、なくなっていた。

写真:西城卓哉さんのメッセージ。今は市役所内の安否確認の掲示板にある=宮城県の名取市役所拡大西城卓哉さんのメッセージ。今は市役所内の安否確認の掲示板にある=宮城県の名取市役所

写真:西城卓哉さん(左)と由里子さん、直人ちゃん。昨年10月20日、卓哉さんの誕生日に外食した店で撮影した=卓哉さん提供拡大西城卓哉さん(左)と由里子さん、直人ちゃん。昨年10月20日、卓哉さんの誕生日に外食した店で撮影した=卓哉さん提供

写真:宮城県名取市役所に張られた西城卓哉さんのメッセージ。安否確認を求める他の張り紙と一緒にある=3月17日、小玉重隆撮影拡大宮城県名取市役所に張られた西城卓哉さんのメッセージ。安否確認を求める他の張り紙と一緒にある=3月17日、小玉重隆撮影

 13日、避難所で由里子さんの母に会えた。由里子さんは、直人ちゃんを抱いたまま実家で津波にのまれたと聞いた。

 15日、卓哉さんの父と妹が、避難所で仕事をする卓哉さんを訪ねて来て「安置所に直人に似た遺体がある」と教えてくれた。仕事を終え、市役所近くの安置所へ向かった。大きな棺がいくつも並ぶ中、小さなピンク色の棺。ふたをあけた。直人ちゃんがいた。眠っているようだった。紫色の肌着は泥で茶色になってい た。寄り添って、頭とほっぺをなで続けた。

 16日も、市役所は身内や友人の安否を確認しようとする人であふれていた。由里子さんも行方不明のまま。卓哉さんは1日に何度も何度も、避難所と犠牲者の名簿を目で追った。

 同じように名簿を探しても相手を見つけられず、がっかりする人を何人も見た。「つらい思いをわかる人間が、ここにいます」と伝えたかった。「自分に何ができるだろう」と自問した。被災者にメッセージを書こうと思い立った。

 17日、いつもより早く職場に着いた。机の引き出しにしまってある、家族3人の写真を取り出した。

 由里子さんと出会ったのは3年前。いつも笑顔で話す、明るい職場の後輩だ。一目ぼれし、その年の6月14日、由里子さんの誕生日にプロポーズした。由里 子さんの実家で飼うラブラドルレトリバーを連れて海岸をよく散歩した。昨年7月に直人ちゃんが生まれた。カメラを向けると、いつもにこにこ笑っていた。何千枚も写真を撮った――。

 思い出を胸に、ペンを手にした。一文字ずつ、丁寧に書いたが、線がゆがんだ。「負けないで」と書き上げた。

 「あの文章を書かれた方ですか……。実はうちもなんです」。数日後、家族を亡くした人たちが卓哉さんに声をかけてきた。無事に過ごせているかどうか、お 互いのことを話した。卓哉さんは「何か困ったことがあれば、相談し合いましょう」と約束した。「苦しいのは自分だけじゃない。一人一人の支えになりたい」 と願う。

 「妻と息子が生まれ育ったこの町を、またみんなが笑って暮らせるようにしたい」。職場の机の引き出しには、いつものように3人の写真が入っている。(滝沢卓)

     ◇

〈西城卓哉さんのメッセージ全文〉

 最愛の妻と生まれたばかりの一人息子を大津波で失いました。

 いつまでも二人にとって誇れる夫・父親であり続けられるよう精一杯生きます。

 被災されたみなさん、

 苦しいけど

 負けないで!

    名取市職員 S

 

保守記事.391-2 希望の光

保守記事.391-2-2 希望の光


保守記事.391-2-2 希望の光

2011-04-15 11:49:34 | 記事保守

あきらめない、醤油店主の意地

復旧の先に見据えた希望

肩を落としていた老舗醤油店の店主は、被災地の“ご用聞き”を始めていた。8代目と9代目。二人三脚で避難所の要望を聞き、足りない物資を送り届ける。すべてを洗い流した大津波。だが、瓦礫の大地には新しい胎動が生まれつつある。

 「何だよ、これ。こんなのここになかったぞ」。10mを超える津波に襲われた岩手県陸前高田市。八木澤商店を経営する河野和義氏(66歳)は鉄骨がむき 出しになった構造物を見て唸った。河野氏は味噌や醤油を製造する八木澤商店の8代目。同店は創業1807年、204年の歴史を誇る老舗企業である。

 

八木澤商店8代目河野和義氏
瓦礫に埋まった工場跡地に立つ8代目、河野和義氏(写真:宮嶋 康彦)

 長男が新築した自宅周辺の光景は目の裏に焼きついている。だが、息子が建てた住居は跡形もなく、あるはずのない建物が目の前に転がっている。「倉庫かなあ。どっから流されてきたんだろうね。もうわけが分かんねえや」。

 陸前高田は三陸沿岸の中でもひときわ大きな被害を受けた。死者と行方不明者は2300人(3月31日時点)。町の大半が瓦礫と泥に覆われた。

 名勝の誉れ高い高田松原は松1本を残して全滅した。辺りには異臭が漂っている。巨木の枝に引っかかった自動車のシート、2階部分に全く別の家が重なった奇怪な建物ーー。容易に想像できない光景が広がっている。

 204年の歴史を誇る八木澤商店も、3階建ての工場を残してきれいさっぱりなくなった。瓦礫の中に、ほのかに漂うもろみの香り。加工場があったことを想起させるのはそれだけだ。

 

津波に流された八木澤商店のスギ樽
津波に流された八木澤商店のスギ樽。微生物を採取する予定だ(写真:宮嶋 康彦)

 

またご用聞きから始めよう

 東京出張で難を逃れた河野氏は一度はすべてをあきらめた。だが、1人の従業員が行方不明になったが、そのほかの従業員や家族は無事だった。避難訓練を繰り返し実施していたためだ。

 八木澤商店では行政指定の避難所ではなく、さらに高台に逃げる訓練を重ねていた。その日も長男の河野通洋氏(37歳)の指示の下、裏山を駆け上がった。どす黒い塊が蔵や工場を押し流したのはその直後だった。

 そして、生き残った人々は新たな活動を始めた。救援物資のご用聞き。避難所を回り、要望を聞き、足りない物を送り届けるという活動である。

 「不思議なもんで、避難所に物資を届けると、『どこどこには何々が足りない』という情報が入る。それで、必要な物資をその避難所に持っていく。その繰り返しですね」。物資の配送を取り仕切る9代目の通洋氏は言う。

 避難所の中には神社や個人宅など小規模な避難所が少なくない。避難所登録を出していない拠点もあり、震災当初は物資が届きにくい状況になっていた。地元密着の八木澤商店にとって、得意先の顔や名前は周知のこと。それで、ご用聞きを始めたというわけだ。

 

 陸前高田では今、「ヤマセン」という八木澤商店のロゴを掲げたトラックが被災地を走り回っている。すべての避難所をくまなくカバーできているわけではないが、ご用聞きが被災者に希望を与えているのは間違いない。

 行政は津波で大打撃を受けた。300人いた市役所職員のうち、70人が死亡か行方不明になっている。残された職員は家族の遺体確認もせずに不眠不休で対応に当たっており、当初は物資の配送にまで手が回る状態にはない。

 岩手県中小企業家同友会の地元支部に所属している9代目。市役所職員とは幾度となく陸前高田の未来を語り合った。その仲間を次々と失う現実を前に、物資の配送を心に決めた。

 幸いなことに、2台のトラックが無事だった。それに、同友会の地元支部長が経営する高田自動車学校にはガソリンを積んだ教習車がいくつもあった。そのガソリンをトラックに詰めて、支援物資を配送しようーー。そう決めたのは震災から5日後のことだ。

 

混乱の中、9代目社長誕生

 

9代目河野通洋氏店
支援物資の配送を取り仕切る9代目、河野通洋氏(写真:宮嶋 康彦)

 肝心の物資は8代目が手配した。

 陸前高田に戻った河野社長は携帯がつながる隣町の親戚宅に滞在、日本中の知人友人に電話をかけた。もちろん、全国に散らばる同友会の仲間も様々な物資を送り届けている。

 このご用聞きは過渡期の業務であり、避難所生活が安定すれば、役割を終える。“その後”に備えて、八木澤商店は本業の再建にも着手し始めた。

 当面は自社での醤油造りは不可能なため、被災を免れた親しい醤油屋のOEM(相手先ブランドによる生産)を受けて、八木澤ブランドで醤油や味噌を売る段 取りをつけた。再建に向けて銀行の支援も取りつけている。内定を出していた新入社員2人も予定通り採用。1人の従業員も解雇する気はない。

 街中に転がっているスギ樽から酵母菌や乳酸菌などの微生物を採取すべく、大学とも連携し始めた。かつての味を取り戻すためには長い年月がかかるだろうが、微生物があれば、八木澤の味を取り戻せる。それまでは、何としてでものれんと雇用を守るという。

 そして、その先には陸前高田の再興を見据えている。

 「俺がこの町のシャッターを全部開けてやるよ」。そう豪語していた同友会の仲間は津波に流された。夢を語り合った仲間の多くを失った。「死にすぎました」。9代目が視線を落とすように大勢の仲間が命を落とした。

 

避難所で暖を取る子供たち
避難所の小学校で暖を取る子供たち(写真:宮嶋 康彦)

 酸鼻を極めた陸前高田に残ろうと思う住民がどれだけいるのか、定かではない。震災前の状態を取り戻すことさえ難しいのかもしれない。それでも、9代目は周囲に呼びかけている。「俺たちの手で陸前高田を取り戻そう」と。

 「あいつは大したモンだよ。この混乱が収まったらせがれに社長を任せるよ」。そう語っていた和義氏の言葉通り、4月1日付で通洋氏が社長に昇格した。未曾有の危機が9代目の器を磨いたということだろう。

 この社長交代が象徴的だが、春に草木が芽吹くように、瓦礫に覆われた大地に小さな胎動がいくつも生まれている。人の営みは永遠に続く。生きている限り、街も店も蘇る。

日経ビジネス 2011年4月11日号16ページより

保守記事.391-2 希望の光