あきらめない、醤油店主の意地
復旧の先に見据えた希望
肩を落としていた老舗醤油店の店主は、被災地の“ご用聞き”を始めていた。8代目と9代目。二人三脚で避難所の要望を聞き、足りない物資を送り届ける。すべてを洗い流した大津波。だが、瓦礫の大地には新しい胎動が生まれつつある。
「何だよ、これ。こんなのここになかったぞ」。10mを超える津波に襲われた岩手県陸前高田市。八木澤商店を経営する河野和義氏(66歳)は鉄骨がむき 出しになった構造物を見て唸った。河野氏は味噌や醤油を製造する八木澤商店の8代目。同店は創業1807年、204年の歴史を誇る老舗企業である。
長男が新築した自宅周辺の光景は目の裏に焼きついている。だが、息子が建てた住居は跡形もなく、あるはずのない建物が目の前に転がっている。「倉庫かなあ。どっから流されてきたんだろうね。もうわけが分かんねえや」。
陸前高田は三陸沿岸の中でもひときわ大きな被害を受けた。死者と行方不明者は2300人(3月31日時点)。町の大半が瓦礫と泥に覆われた。
名勝の誉れ高い高田松原は松1本を残して全滅した。辺りには異臭が漂っている。巨木の枝に引っかかった自動車のシート、2階部分に全く別の家が重なった奇怪な建物ーー。容易に想像できない光景が広がっている。
204年の歴史を誇る八木澤商店も、3階建ての工場を残してきれいさっぱりなくなった。瓦礫の中に、ほのかに漂うもろみの香り。加工場があったことを想起させるのはそれだけだ。
またご用聞きから始めよう
東京出張で難を逃れた河野氏は一度はすべてをあきらめた。だが、1人の従業員が行方不明になったが、そのほかの従業員や家族は無事だった。避難訓練を繰り返し実施していたためだ。
八木澤商店では行政指定の避難所ではなく、さらに高台に逃げる訓練を重ねていた。その日も長男の河野通洋氏(37歳)の指示の下、裏山を駆け上がった。どす黒い塊が蔵や工場を押し流したのはその直後だった。
そして、生き残った人々は新たな活動を始めた。救援物資のご用聞き。避難所を回り、要望を聞き、足りない物を送り届けるという活動である。
「不思議なもんで、避難所に物資を届けると、『どこどこには何々が足りない』という情報が入る。それで、必要な物資をその避難所に持っていく。その繰り返しですね」。物資の配送を取り仕切る9代目の通洋氏は言う。
避難所の中には神社や個人宅など小規模な避難所が少なくない。避難所登録を出していない拠点もあり、震災当初は物資が届きにくい状況になっていた。地元密着の八木澤商店にとって、得意先の顔や名前は周知のこと。それで、ご用聞きを始めたというわけだ。
陸前高田では今、「ヤマセン」という八木澤商店のロゴを掲げたトラックが被災地を走り回っている。すべての避難所をくまなくカバーできているわけではないが、ご用聞きが被災者に希望を与えているのは間違いない。
行政は津波で大打撃を受けた。300人いた市役所職員のうち、70人が死亡か行方不明になっている。残された職員は家族の遺体確認もせずに不眠不休で対応に当たっており、当初は物資の配送にまで手が回る状態にはない。
岩手県中小企業家同友会の地元支部に所属している9代目。市役所職員とは幾度となく陸前高田の未来を語り合った。その仲間を次々と失う現実を前に、物資の配送を心に決めた。
幸いなことに、2台のトラックが無事だった。それに、同友会の地元支部長が経営する高田自動車学校にはガソリンを積んだ教習車がいくつもあった。そのガソリンをトラックに詰めて、支援物資を配送しようーー。そう決めたのは震災から5日後のことだ。
混乱の中、9代目社長誕生
肝心の物資は8代目が手配した。
陸前高田に戻った河野社長は携帯がつながる隣町の親戚宅に滞在、日本中の知人友人に電話をかけた。もちろん、全国に散らばる同友会の仲間も様々な物資を送り届けている。
このご用聞きは過渡期の業務であり、避難所生活が安定すれば、役割を終える。“その後”に備えて、八木澤商店は本業の再建にも着手し始めた。
当面は自社での醤油造りは不可能なため、被災を免れた親しい醤油屋のOEM(相手先ブランドによる生産)を受けて、八木澤ブランドで醤油や味噌を売る段 取りをつけた。再建に向けて銀行の支援も取りつけている。内定を出していた新入社員2人も予定通り採用。1人の従業員も解雇する気はない。
街中に転がっているスギ樽から酵母菌や乳酸菌などの微生物を採取すべく、大学とも連携し始めた。かつての味を取り戻すためには長い年月がかかるだろうが、微生物があれば、八木澤の味を取り戻せる。それまでは、何としてでものれんと雇用を守るという。
そして、その先には陸前高田の再興を見据えている。
「俺がこの町のシャッターを全部開けてやるよ」。そう豪語していた同友会の仲間は津波に流された。夢を語り合った仲間の多くを失った。「死にすぎました」。9代目が視線を落とすように大勢の仲間が命を落とした。
酸鼻を極めた陸前高田に残ろうと思う住民がどれだけいるのか、定かではない。震災前の状態を取り戻すことさえ難しいのかもしれない。それでも、9代目は周囲に呼びかけている。「俺たちの手で陸前高田を取り戻そう」と。
「あいつは大したモンだよ。この混乱が収まったらせがれに社長を任せるよ」。そう語っていた和義氏の言葉通り、4月1日付で通洋氏が社長に昇格した。未曾有の危機が9代目の器を磨いたということだろう。
この社長交代が象徴的だが、春に草木が芽吹くように、瓦礫に覆われた大地に小さな胎動がいくつも生まれている。人の営みは永遠に続く。生きている限り、街も店も蘇る。
日経ビジネス 2011年4月11日号16ページより
鉄筋コンクリートのビルの6階以上の場所へ御避難下さい。この事は自己責任で各自が行って下さい。しかし最終的な東海、東南海大地震の発生期間は今年の5月末日迄とさせて頂いております。尚、この記事に付いては100%の確定ではありませんので御承知置き下さい。 聖母マリア様
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