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保守記事.391-2-3 希望の光

2011-04-15 16:26:13 | 記事保守

大津波で妻と息子を失った市職員 「負けないで」と被災者に呼びかけ

2011.3.18 22:02 (1/2ページ)
地震発生時刻に合わせ、妻子の冥福を祈る市職員の西城卓哉さん。右下は、西城さんが決意を記した張り紙=18日、宮城県名取市役所

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地震発生時刻に合わせ、妻子の冥福を祈る市職員の西城卓哉さん。右下は、西城さんが決意を記した張り紙=18日、宮城県名取市役所

 「苦しいけど 負けないで! 名取市職員 S」。東日本大震災で大津波が押し寄せた宮城県 名取市の市役所玄関ガラスにこんなメッセージが書かれた紙が張り付けてある。書いたのは名取市職員、西城卓哉さん(30)。津波で最愛の妻、由里子さん (28)が行方不明になり、8カ月の長男、直人くんを失った。自分と同じくかけがえのない家族を失った人たちは多い。それでも精いっぱい生きてほしい-。 そんな思いを込めたという。

 3月11日。激しい揺れを感じた西城さんはすぐに、職場から由里子さんの携帯電話を鳴らした。一瞬つながった が声を聴けず、途切れた。すぐに市役所は地震で大混乱、職員としてさまざまな対応に追われ、気が付くと12日未明になっていた。ようやく自宅マンションへ 戻ると、エレベーターは止まり、泥に足をとられた。部屋に入ると、2人の姿はなかった。近くの由里子さんの実家へ向かった。

 毛布、食料、 紙おむつ…。寒さと飢えをしのげるよう紙袋に目一杯詰め込んで、必死に歩いた。「あとは、2人を見つけるだけ」。しかし、周辺に原形をとどめる家はほどん どなく、がれきの山だ。ひょっとしたら、がれきの下敷きになっているかも知れない…。由里子さんの実家を目指しながら、一晩中捜した。しかし、実家も建物 はなくなっていた。

 翌日夜、由里子さんの母親とようやく出会えた。自衛隊のヘリコプターに救出されたのだという。憔悴しきった義母は「2人とも流された。どこにも姿がないの…」という。絶望的な気持ちになったが、わずかな望みを信じ捜索を続けた。

 しかし、直人くんとみられる遺体が安置所にあると聞き、15日夜、身元を確認した。「肌着も服もよだれかけも、妻が好んで着せる組み合わせだった」。安置所で死亡届を出すと居合わせた同僚職員が泣き崩れた。

  職場の後輩だった由里子さんと出会ったのは3年前。「誠実で信頼できる人」と一目で直感し、6月14日の由里子さんの誕生日にプロポーズした。昨年7月に は直人くんが生まれた。幸せだった。デジタルカメラには、3人で迎えた最初のクリスマスの写真が保存してある。今年2月に撮影した1枚は3人で写った最後 の写真。眺めていると、さまざまな思い出があふれてくる。

 それでも西城さんはメッセージを書いて、市役所玄関ガラスに貼り付けた。

 『最愛の妻と生まれたばかりの一人息子を大津波で失いました。

 いつまでも二人にとって誇れる夫、父親であり続けられるよう精一杯生きます。

 被災されたみなさん。

 苦しいけど

  負けないで!

   名取市職員 S』

 地震発生からちょうど1週間の18日午後2時46分、西城さんの職場でも黙祷を告げるサイレンが鳴り響いた。(吉田智香)

 

被災者へ「負けないで」 妻子失った市職員がメッセージ

 「被災されたみなさん、苦しいけど負けないで 職員S」。東日本大震災で被災した宮城県名取市役所に張り出されたメッセージが、人々を励ましている。書 いたのは市職員の西城卓哉さん(30)。津波で7カ月の一人息子の直人ちゃんを亡くし、妻由里子さん(27)は今も行方がわからない。「2人にとって誇れる夫、父親であり続けたい」と自分を奮い立たせて仕事を続けている。

 3月11日午後2時46分。市役所庁舎の自分の机にいた卓哉さんは、揺れを感じるとすぐに由里子さんの携帯に電話をかけた。呼び出し音がして一瞬、通じ たと思ったが、1秒も経たずに「ツーツーツー」と切れた。激しい揺れの中で何度もかけ直した。携帯の画面には「発信できません」の表示。不安だったが「直人を守ってくれているはず」と自分に言い聞かせた。

 卓哉さんが所属する保険年金課は、災害時には被災者の受け入れ態勢作りをすることになっていた。すぐに、避難所の食料調達の仕事が回ってきた。作業中に傷がつかないよう、結婚指輪を外してスーツの胸ポケットにそっとしまった。

 仕事を終えて、名取市内の自宅マンションに帰ったのは12日午前2時ごろ。海岸から約3キロ離れていたが、あたりは水と泥でぐちゃぐちゃだった。ドアを 開けて「由里子」と呼んだが、2人はいなかった。「どこかで寒い思いをしているはず」と、毛布や食べ物、オムツなどをいっぱい積んで車を走らせた。一晩中、近くの避難所を回り、駐車場に由里子さんの銀色の車を捜した。

 早朝、自宅から約3.5キロの由里子さんの実家を目指した。直人ちゃんを連れてよく遊びに行っていた。途中から道路ががれきと泥で寸断されていた。車を降り、がれきをつたって歩いた。海岸から約1キロの2階建ての実家は、なくなっていた。

写真:西城卓哉さんのメッセージ。今は市役所内の安否確認の掲示板にある=宮城県の名取市役所拡大西城卓哉さんのメッセージ。今は市役所内の安否確認の掲示板にある=宮城県の名取市役所

写真:西城卓哉さん(左)と由里子さん、直人ちゃん。昨年10月20日、卓哉さんの誕生日に外食した店で撮影した=卓哉さん提供拡大西城卓哉さん(左)と由里子さん、直人ちゃん。昨年10月20日、卓哉さんの誕生日に外食した店で撮影した=卓哉さん提供

写真:宮城県名取市役所に張られた西城卓哉さんのメッセージ。安否確認を求める他の張り紙と一緒にある=3月17日、小玉重隆撮影拡大宮城県名取市役所に張られた西城卓哉さんのメッセージ。安否確認を求める他の張り紙と一緒にある=3月17日、小玉重隆撮影

 13日、避難所で由里子さんの母に会えた。由里子さんは、直人ちゃんを抱いたまま実家で津波にのまれたと聞いた。

 15日、卓哉さんの父と妹が、避難所で仕事をする卓哉さんを訪ねて来て「安置所に直人に似た遺体がある」と教えてくれた。仕事を終え、市役所近くの安置所へ向かった。大きな棺がいくつも並ぶ中、小さなピンク色の棺。ふたをあけた。直人ちゃんがいた。眠っているようだった。紫色の肌着は泥で茶色になってい た。寄り添って、頭とほっぺをなで続けた。

 16日も、市役所は身内や友人の安否を確認しようとする人であふれていた。由里子さんも行方不明のまま。卓哉さんは1日に何度も何度も、避難所と犠牲者の名簿を目で追った。

 同じように名簿を探しても相手を見つけられず、がっかりする人を何人も見た。「つらい思いをわかる人間が、ここにいます」と伝えたかった。「自分に何ができるだろう」と自問した。被災者にメッセージを書こうと思い立った。

 17日、いつもより早く職場に着いた。机の引き出しにしまってある、家族3人の写真を取り出した。

 由里子さんと出会ったのは3年前。いつも笑顔で話す、明るい職場の後輩だ。一目ぼれし、その年の6月14日、由里子さんの誕生日にプロポーズした。由里 子さんの実家で飼うラブラドルレトリバーを連れて海岸をよく散歩した。昨年7月に直人ちゃんが生まれた。カメラを向けると、いつもにこにこ笑っていた。何千枚も写真を撮った――。

 思い出を胸に、ペンを手にした。一文字ずつ、丁寧に書いたが、線がゆがんだ。「負けないで」と書き上げた。

 「あの文章を書かれた方ですか……。実はうちもなんです」。数日後、家族を亡くした人たちが卓哉さんに声をかけてきた。無事に過ごせているかどうか、お 互いのことを話した。卓哉さんは「何か困ったことがあれば、相談し合いましょう」と約束した。「苦しいのは自分だけじゃない。一人一人の支えになりたい」 と願う。

 「妻と息子が生まれ育ったこの町を、またみんなが笑って暮らせるようにしたい」。職場の机の引き出しには、いつものように3人の写真が入っている。(滝沢卓)

     ◇

〈西城卓哉さんのメッセージ全文〉

 最愛の妻と生まれたばかりの一人息子を大津波で失いました。

 いつまでも二人にとって誇れる夫・父親であり続けられるよう精一杯生きます。

 被災されたみなさん、

 苦しいけど

 負けないで!

    名取市職員 S

 

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