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保守記事.391-11 失われたもの

2011-04-30 12:04:21 | 記事保守

東日本大震災:「顔が水より冷たく…」 被災児童が日記

全国から寄せられた激励メッセージへの返事を書く箱石佑太君(左手前)=岩手県山田町の町立大沢小で2011年4月4日、篠口純子撮影
全国から寄せられた激励メッセージへの返事を書く箱石佑太君(左手前)=岩手県山田町の町立大沢小で2011年4月4日、篠口純子撮影

 「お父さんが軽トラでもどっていった姿を見ました。津波にのみ込まれませんように。そう祈っていました」。巨大地震と大津波が東日本を襲ったあの 日、子供たちは何を見、その後をどう生きたのか。岩手県山田町の町立大沢小学校を3月に卒業した箱石佑太君(12)が毎日小学生新聞に寄せた体験日記には 震災と向き合う姿が率直につづられていた。

 ◇3月11日

 卒業式の歌の練習をしていました。とてもゆれの大きい地震が来ました。最初は単なる地震だと思っていました。大津波警報が出ても、どうせこないと 思っていました。来たとしても10センチメートル程度の津波だと思っていました。全然違いました。ぼくが見たのは、国道45号線を水とがれきが流れている ところです。お母さんとお父さんが津波が来る前に大沢小に来ているところは見ました。だけどその後、お父さんが軽トラでもどっていった姿を見ました。お父 さんのことが不安でした。車を運転しながら津波にのみ込まれませんように。そう祈っていました。

 ◇3月18日

 津波から1週間。お母さんは、もうこんなに日がたっているのに、まだお父さんが見えないとあきらめていました。じいやんは泣いて「家も頑張って建 てるし、おまえたちだってしっかり学校にいかせられるように頑張るから、お父さんがもしだめだとしても頑張るからな」と言っていました。

 ◇3月23日

 卒業式でした。「ありがとう」の歌を歌っている時、お父さんに「お父さん、お父さんのおかげで卒業できたよ。ありがとう」と頭の中で言いました。 そしたらなぜか、声がふるえて涙が少し出てきました。その夜、こんな夢を見ました。お母さんとお父さんが宮古のスーパーマーケットから帰ってきた夢でし た。

 ◇3月25日

 親せきの人の携帯に電話がかかってきました。内容は、お父さんらしき人が消防署の方で見つかったということでした。急いで行ってみると、口を開け て横たわっていたお父さんの姿でした。ねえちゃんは泣き叫び、お母さんは声も出ず、弟は親せきの人にくっついていました。顔をさわってみると、水より冷た くなっていました。

 ぼくは「何でもどったんだよ」と何度も何度も頭の中で言いました。「おれがくよくよしてどうすんだ」と自分に言いました。でも、言えば言うほど目 がうるんでくるばかりです。お父さんの身に付けていたチタン、東京で買った足のお守りや結婚指輪、携帯。そして驚いたのが時計が動いていたことです。お父 さんの息が絶えた時も、津波に飲み込まれている時も、ずっと。お父さんの時計は今はぼくのものになっている。ぼくがその時計をなくしたりすることは一生な いだろう。

 ◇3月26~27日

 見つかった時のお父さんの顔。まだ頭のどこかで見なきゃよかったと。でも見つかったおかげで火葬もできるし、お父さんをさわることができた。お父さんの体は水を飲んだのか胸がふくらんでいるだけだ。やっぱり見つかってよかった。

 ◇3月28日

 きょうは火葬の日。ぼくとねえちゃんとお母さんとけいじろうは、手紙を書いて、お父さんと一緒に入れてやりました。拝んでいる時ぼくは「箱石家は頑張って継ぐからまかせて」と言いました。お墓に骨を埋めるまで、ぼくに骨を持たせてくれました。骨をうめてホッとしました。

 ◇4月7日

 きょうは、ありがたいと心から言える日でした。お父さんとぼくたちの記事を見て、お父さんが東京マラソンを走った時の写真とお手紙を新聞の人が 持ってきてくれました。ぼくたち家族に贈る言葉や、さらにはぼくに贈る言葉の手紙もありました。やっぱりお父さんはすごい。今日は本当にありがたい日だ。

 *    *

 箱石君は25日、155人の仲間と一緒に町立山田中学校に入学した。日記は、大沢小の子供たちが復興に立ち向かう様子を紹介する「大沢からの報 告」として毎日小学生新聞に11日に掲載。「何回も読み、涙が止まりません。皆様が少しずつでも前に進める日がくることを願っております」(2人の子を持 つ東京都北区の女性)とのメールが届くなど大きな反響を呼んだ。「大沢からの報告」は同紙で随時掲載され、次回は5月11日の予定。

 

 

東日本大震災:2日前のプロポーズ 「はい」と言えず…

行方不明の恋人の帰りを待つ成沢公子さん=宮城県南三陸町の県志津川自然の家で2011年4月21日、垂水友里香撮影
行方不明の恋人の帰りを待つ成沢公子さん=宮城県南三陸町の県志津川自然の家で2011年4月21日、垂水友里香撮影

 東日本大震災で被災し、宮城県南三陸町の県志津川自然の家に避難している成沢公子さん(34)は、行方不明の自動車販売店勤務の男性(52)と再 会する日を待ち続けている。離婚歴がある二人。震災の2日前にプロポーズされ、新たな人生を歩もうと誓ったばかりだった。成沢さんは3人の子供を抱える が、病院事務の仕事も失った。「自分の半分がなくなってしまった感じ」。心の空洞が広がるのを止められない。【垂水友里香】

 成沢さんは3月9日、自宅で男性と会っていた。以前からの知り合いで、離婚後に付き合い始めて2年。お互い口に出さなくても次のステップを意識し ていた。この日、男性はいつもと変わらなかったが、帰ろうとした時、玄関で体を引き寄せられた。耳元で「老後は一緒にいようね。おれが守るから」と告げら れた。成沢さんの答えは「またそんな期待させるようなこと言って」。照れ隠しで真剣に答えなかった。顔を見て話した最後の会話だった。

 震災から約1カ月たっても成沢さんの自問自答は続く。「あの日『はい』と言えなかった。言っていたら何か変わっていたかな」

 つらくなると携帯電話のメール画面に目がいく。地震直後の11日午後2時50分の受信メールは「地震大丈夫?」と成沢さんを心配する内容だった。 「大丈夫じゃない。怖い」と返信すると、自宅にいる両親の様子を見てくると伝えてきた。その後も「大津波警報が出たから、海に近づかないで」と送信してき た。午後3時57分に「両親は大丈夫?」と尋ねて以来、返信はない。

 助かった男性の両親によると、男性は自宅に立ち寄った後、会社に戻ったという。今月中旬、男性の乗用車が会社から約100メートル離れた川の縁でつぶれた状態で見つかった。行方不明者届を出したが手掛かりはない。

 成沢さんは「うそ。絶対(私を)置いていくはずがない」と自分に言い聞かせる。両親に男性の存在を打ち明け、互いの子供たちと一緒に暮らそうと決断した。その直後だけに「自分の中の半分がなくなってしまった感覚」が膨らんでいく。

 病院も被災し、失業した。「子供がいるからしっかりしなきゃ」と奮い立たせても落ち込むことを繰り返す。気持ちが沈むと、男性が「おれが守る」と言った声がよみがえる。そして少しだけ顔を上げられる。「ある日『連絡取れなくてごめんね』と会いに来るって信じられるの」