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保守記事.391-7 想定外の対応

2011-04-11 13:14:38 | 記事保守

「高台へ避難中に津波」=被害状況で保護者説明会-児童74人死亡・不明の大川小

  東日本大震災の大津波で全校児童108人のうち74人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校の校長らが9日夜、同市内の別の小学校で、被災当 時の状況に関する保護者説明会を開催した。市教委によると、児童の多くは教職員らとともに学校から高台へ避難中に津波に巻き込まれたという。
 保護者からは「助かる方法は他になかったのか」などと学校側の対応を批判する発言が相次いだといい、当初の予定時間を上回る1時間半に及んだ。
 説明会は、保護者から「当時の状況を知りたい」との要望が相次いだことを受け開かれた。報道陣には非公開で行われ、保護者ら97人が出席した。
 市教委によると、冒頭に黙とうした後、今野慶正教育長代行が「安全であるはずの学校で多くの尊い命が失われたことに、心よりお悔やみ申し上げる」とあいさつ。その後、大川小の柏葉照幸校長や、現場にいた教職員で唯一生還した40代の男性教諭が当時の状況を説明した。
  3月11日の大地震発生直後、同校教諭は児童に校庭への避難を指示し、誘導点呼を行った。その後、迎えに来た保護者に児童を引き渡している途中、津波の危 険があると判断。地域住民と教頭らが相談の上、高台となっている新北上大橋傍らの三角地帯に避難することを決めた。津波は三角地帯への移動中に児童や教職員を襲った。
 学校のすぐ裏に山があるが、地震による倒木の危険があったため、避難場所に適さないと判断されたという。
 保護者の一人は終了後、「納得のいく説明ではなかった」と肩を落とした。
 市教委は今後、児童らからの聞き取りも行った上で、改めて詳細について記者会見するとしている。(2011/04/09-22:01)

 

石巻・大川小の悲劇、被災時の詳細明らかに
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多くの児童が北上川(上)を逆流した津波に襲われて亡くなった大川小(9日午前、宮城県石巻市で)=冨田大介撮影
 東日本大震災で全校児童108人のうち7割が死亡・行方不明となった宮城県石巻市立大川小で、被災時の状況が目撃者の証言などから明らかになった。

 児童は集団で高台へ避難する途中、すぐそばを流れる北上川からあふれた津波にのみ込まれた。当時の様子が知りたいという保護者の要望に応えて学校側は9日夜、説明の場を設ける。

          ◇河口から4キロ◇

 大川小は東北最大の大河、北上川右岸の釜谷地区にあり、太平洋に北上川が注ぐ追波湾の河口から4キロ上流に位置する。同県教委によると大川小の児童は 56人が死亡、18人が行方不明。また教諭については当時、校内にいた11人のうち9人が死亡、1人が行方不明になった。校長は震災当時、外出して不在 だった。

 保護者や住民らの証言では、児童は11日午後2時46分の地震直後、教諭らの誘導で校舎から校庭へ移動した。ヘルメット姿や上履きのままの子もいた。保護者の迎えの車が5、6台来ており、「早く帰りたい」と、泣きながら母親にしがみつく子もいた。

 同49分、大津波警報が出た。教諭らは校庭で対応を検討。校舎は割れたガラスが散乱し、余震で倒壊する恐れもあった。学校南側の裏山は急斜面で足場が悪 い。そうした状況から、約200メートル西側にある新北上大橋のたもとを目指すことになった。そこは周囲の堤防より小高くなっていた。市の防災マニュアル は、津波対策を「高台に上る」とだけ記しており、具体的な避難場所の選択は各校に委ねられていた。

          ◇想定外◇ 

 午後3時10分過ぎ、現場に居合わせた男性(70)は、児童らが列を作って校庭から歩き出すのを目撃した。「教諭に先導され、おびえた様子で目の前を通り過ぎた」

 その直後だった。「ゴーッ」とすさまじい音がした。男性は児童らとは逆方向に走り出した。堤防を乗り越えて北上川からあふれ出した巨大な波が、学校を含む地区全体に襲いかかった。住民や男性の証言を総合すると、津波は児童の列を前方からのみ込んでいったという。列の後方にいた教諭と数人の児童は向きを変えて男性と同様に裏山を駆け上がるなどし、一部は助かった。

 宮城県沖で二つの断層が連動した地震が発生した場合を想定した津波浸水予測によると、河口付近の高さ5~10メートルに対し、小学校周辺は1メートル未満。だが、今回の津波は2階建ての同校校舎の屋根まで乗り越え、裏山のふもとから約10メートルも駆け上がった。また児童らが避難しようとした新北上大橋 のたもとでも、電柱や街灯がなぎ倒されるなど津波の被害を受けた。

 「ここまで来るとは誰も思わなかった」。同地区の住民は口をそろえる。同市河北総合支所によると、防災無線の避難呼びかけは一度きり。同支所によると、 釜谷地区全体での死者・行方不明者は住民の約4割の189人。津波を見ようと堤防に行ってさらわれたり、自宅にとどまり犠牲になった人も多かったという。

          ◇保護者の思い◇

 県教委によると地震と津波で死亡した同県の小学生は127人で、4割以上が大川小の児童だ。8日には行方不明児童の1人とみられる遺体が見つかった。学 校の周辺は今も我が子の手がかりを追い求める親の姿が絶えない。「当時の状況を知りたい」という保護者らの思いは切実だ。

 3年生の孫を亡くした男性(61)は遺体発見まで3週間を要した。「せめて何年生が、どの方角に逃げたのかだけでも知りたい。捜索にもある程度の目星が必要。みんな早く見つけてやりたい一心なんです」と語る。

 関係者から避難状況を聞き取った同市教委は「想像を絶する大津波だった。学校の判断は致し方なかったと思う」とする。市教委によると、校長が9日夜、生還した教諭から状況を聞き取った結果を保護者に伝えるという。(佐々木栄、羽尻拓史、石坂麻子)

108人中残った34児童登校生きてたんだぁ

被災後初の登校日で抱き合って再会を喜ぶ児童たち(撮影・下田雄一)
被災後初の登校日で抱き合って再会を喜ぶ児童たち(撮影・下田雄一)

 震災から半月以上たっても、厳しい現実でさまよい続ける人たちがいる。11日の東日本大震災の津波被害に遭い、全校児童108人のうち約7割が死亡か、行方不明となっている宮城県石巻市立大川小学校が29日、地震後初めてとなる登校日を設け、全校集会を開いた。生存者は34人で、うち28人が、同校から10キロ離れた石巻市立飯野川第一小学校に登校。多くの学友を失った悲しみに直面した。

 大川小の子供たちは、あまりに寂しすぎる現実を、真正面から受け止めることはできなかったのかもしれない。お互いの安否も不明のままに迎えた登校 日。「おーっ、生きてたんだぁ」。「良かったぁ」。親や知人に連れられ登校した28人は、いつも通りの笑顔とはしゃいだ声で、級友との再会を喜んだ。女子 同士は抱き合い、男子は校庭で駆けっこやブランコで遊んだ。

 全校児童108人中、生存者はわずか34人。死者56人、行方不明者18人となった。児童を迎えたのも柏葉照幸校長(57)ただ1人。13人の教 職員も、生き残れたのは3人だけ。やりたくてもできない卒業式と修了式の代わりの登校日は、全員での黙とうと、柏葉校長の話だけだった。同校長は「6年生 21人で、今日来られたのは3人。生徒さんを亡くされた保護者のお気持ちなども考えると、今すぐの卒業式は無理でした」。金庫に保管していた卒業証書が流 されたことだけが、無期延期の理由ではなかった。

 大川小の周辺には、逃げ場などなかった。北上川と丘陵に挟まれた堤防沿いだが、河口からは約3キロも上流。津波の危険は感じにくい土地だった。震災直後に家族が迎えに来た児童以外は、町の避難場所が大川小だったために、全員で校庭に避難した。津波警報に別の避難場所も模索したが、隣の杉山は急勾配 で登れない。堤防を突き破ってきた津波に、一瞬で校舎の屋根までのみこまれた。

 大川小は土砂に埋もれ、周辺一帯は、今でも湖のように約4平方キロメートルが水没したまま。子どもたちが行方不明のままのお母さん5人は「毎日捜しに来ています」と疲れ切った顔で話す。西村清彦さん(73)は「小2の孫みつきを火葬してきた。孫の持ち物が何かあるかと思って来てみた」と、ランドセ ルや文具などが集められた遺留品置き場を「悔しい、悔しい」と泣きながら捜していた。

 柏葉校長は「子どもたちが幾分明るくて安心した。でも、久々に友達に会えたからでしょう。心には重いものがのしかかっている。我々周囲の者で、乗 り越えさせないといけない」。来月からの新年度は、飯野川第一小を間借りさせてもらう予定。教育委員会と相談して、カウンセラーを招きたいという。「生き残った皆で、笑顔いっぱいの学校をまたつくろう」と説くと、児童たちは悲しい顔をしても、泣かなかった。【瀬津真也】

 

「死にものぐるいで上に行け」津波被害の大川小 「あの日」教員は叫んだ
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一面のがれきと泥の中に残った大川小学校の門柱。女性が花を手向けた=宮城県石巻市(矢島康弘撮影)(写真:産経新聞)
 海抜ほぼ0メートルにその学校はあった。北上川のほとりに立つ宮城県石巻市立大川小学校は、全校児童108人のうち、津波で74人が死亡・行方不明と なった。学校にいて生還した教員は教務主任の男性1人。石巻市教育委員会が聞き取りを行ったこの教諭や関係者の証言から当時の状況が明らかになりつつあ る。あの日、何があったのか。“その時”を検証する。(桜井紀雄、荒船清太)

【写真】映像がとらえた大川小周辺を襲った津波

 ≪列の前から波来た≫

 5時間目を終えたとき、大きな揺れが襲った。子供たちは机の下にもぐり、校庭への避難が指示された。

 泣き出す子供もいたが、女性教諭らが付き添った。学校前に自宅があり、同校に通う2人の孫を亡くした阿部文子さん(59)は「校庭に子供たちが整列しているのが見えた。ヘルメットをかぶっている子もいた」。

 校庭には、離れた地域の児童を送るためのスクールバスが止まっていた。「今、校庭に並んだ子供の点呼を取っているところで、学校の指示待ちです」。男性 運転手(63)は運営会社に無線で連絡した。これが最後の通信。男性運転手も津波で死亡した。会社側は「詰め込めば児童全員を乗せられただろう」としてい る。市教委は「津波の際、どこに避難するか特に決められていなかった」という。

 男性教諭は校舎内を確認しに向かった。ガラスが散らばり、児童が入れる状況ではなかった。校庭に戻ると、子供たちは他の教員に誘導され、裏山脇の細い農 道を列を組んで歩き出していた。坂道を行くと校庭より7~8メートル高い新北上大橋のたもとに出る。教諭は列の最後尾についた。

 「ドンという地鳴りがあり、何がなんだか分からないうちに列の前から波が来た。逃げなきゃと思った」。教諭はその瞬間をこう証言したという。波は河口とは逆方向の橋のたもと側から児童の列の先頭めがけて襲いかかった。

 気づくと、裏山を登ろうとする児童が見えた。生い茂る杉で周囲は暗いが、ゴーという音で足元まで水が迫っているのが分かった。

 「上に行け。上へ。死にものぐるいで上に行け!」と叫んでいた。追いつくと3年の男児だった。くぼ地で震えながら身を寄せ合ったが、お互いずぶぬれ。「このままでは寒くて危ない」と男児の手を引き、山を越えた。車のライトが見えた。助けられた。

 ≪農道以外選択肢は≫

 被害を免れた大半は津波が来る前に車で親が連れ帰った子供だった。しかし、他の児童とともに農道を歩きながら助かった5年の男児も2人いる。

 「山の中で『おーい』と捜していると、弱々しい声で『おーい』と聞こえた。髪までぬれた男の子2人が斜面に横たわっていた」。裏山の反対側から駆け付けた石巻市河北総合支所の佐藤幸徳さん(51)は振り返る。

 「歩けるか」と声を掛けると、2人は「大丈夫です」と答えた。開けた場所まで行き、他の避難者たちとたき火をして一夜を過ごした。2人は「誰かに大声で『山に逃げろ』と言われた」と説明したが、言葉は少なく、ずっとうつむいていたという。

 行方不明の子供の捜索中、作業着姿の男性(44)が泥まみれの赤いランドセルを抱き、突っ伏してむせび泣いた。「見つかったんだ!」。不明の小1の長女(7)のもの。つぶれ、茶色く変色したノートが残されていた。

 小4の次男(10)も亡くした男性は強い思いを抱き、学校跡に通い続ける。「あの日、本当に何があったのか、知りたい」

 震災当時、学校を不在にして助かった柏葉照幸校長(57)も捜索を続ける。男性は裏山を指して柏葉校長に疑問をぶつけた。「ここに登れば助かったんじゃないですか」。男性によると、柏葉校長は「そうですね。現場にいたらそうしたかもしれません」と答えたという。

 市教委は「想定外の津波だった。山が崩れる危険がある中、農道を行く以外に方法があったかは分からない」としている。

保守記事.391-6 それどころじゃない!

2011-04-11 13:00:05 | 記事保守

浦安市「災害復旧中、統一選できない」 県選管と対立中

 東日本大震災で被災した千葉県浦安市が「災害復旧の最中で適正な選挙ができない」と主張して統一地方選の延期を訴え、日程通りの実施を求める千葉県選挙管理委員会と対立。投開票にかかわる事務を止めており、選挙の実施が危ぶまれている。

 県議選浦安市選挙区(定数2)の告示を4月1日に控え、県議選や市議選のポスター掲示場は設置されず野積み状態。28日に予定されていた有権者約12万7600人分の投票所入場整理券の発送もされていない。

 浦安市では市の4分の3を占める埋め立て地域で液状化が起き、29日現在でも約4千世帯で水道が断水し、約9千世帯で下水道が使えない。地盤が沈下して 多くの家屋が傾き、市外に避難した住民もいる。松崎秀樹市長は「安全な投・開票所が確保できず、有権者も冷静な投票行動を取れる状態にない」と主張。統一 地方選を延期する臨時特例法の対象とし、最低2カ月は延期するよう総務省や県選管に求めた。しかし県選管は「ライフラインの復旧は進みつつあり、投票所の 代替や統合で対応できる」と判断。総務省は、浦安市を延期の対象としなかった。

 これに対し市は「市民不在で統一選?」の見出しで広報号外を発行し「市内31カ所の投票所のうち19カ所が使用困難。職員の配置も十分できない」と主 張。投票所入場整理券の発送などをしていない。このまま告示した場合、立候補の届け出を県選管が受け付け、候補者が選挙運動をすることは可能だ。しかし市 選管が公職選挙法上の受託事務である投票や開票事務をしないと、当選者が決められない。

 県選管は、県や無投票の市町村から浦安市に応援の職員を派遣する考えだが「協力はできるが、事務の代行はできない」との立場。「浦安市選管に協力をお願いするしかない」と話している。(小沢香)

 

政策訴えるより御用聞き 液状化深刻な浦安の県議選

 東京都に隣接する千葉県浦安市は液状化現象に見舞われた。4月1日告示の県議選の浦安市選挙区は定数2に3人が立候補する見通しだが、市は選挙の延期を 訴え、日程通りの実施を求めている県選挙管理委員会と対立している。立候補予定者たちも震災の対応に迫られ、いつも通りの活動ができない。

 いまだに上下水道が使えない今川地区。公園にはカーテン式の仮設トイレが並び、地中から噴き出した土砂が舞う。民家の庭先で防災服姿の民主現職が男性に 「トイレ袋は足りてますか」と尋ねると、「トイレも困るけど、この傾いた家、だれに見てもらえばいいのか」との答えが返ってきた。

 この現職はもっぱら自転車で「御用聞き」に回っている。震災前、介護支援の充実などを掲げたパンフを6万部刷ったが、配っていない。政策を訴えるより「御用聞きの方が感謝される」という。

 自民現職には「あと1日分しかガソリンがない」という地元バス会社、住民の苦情に立ち往生する自治会長などから、次々に相談事が持ち込まれた。道路、護岸、上下水道、学校を点検して約700枚の現場写真を撮り、県や市の職員とともに通行止めや簡易補修の作業も手伝う。

 無所属の新顔は小学1年生の双子を育てる母親だ。「一市民として思いつくことをひたすらしています」。自宅マンションは3日間断水したが、翌日はボラン ティアセンターに行き、小学校の給水の手伝いをした。その後は、休園した保育園に代わって友人の子どもたちを家庭で預かった。不眠不休で働く市の災害対策 本部には豚汁や焼き鳥などを差し入れた。(小沢香)

 

 4月1日告示の千葉県議選をめぐり、東日本大震災で被害を受けた浦安市の選挙区で、候補者が立候補を届け出るものの、有権者が投票ができないという前代 未聞の事態になる可能性が出てきた。松崎秀樹市長らが「液状化被害で選挙ができない」と市職員による選挙事務を拒否しているためだ。県選挙管理委員会は市 側を説得する構えだが、打開策は見えていない。

 同県議選は45選挙区で実施。浦安市選挙区(定数2)では民主、自民、無所属の計3人が立候補の意向を表明している。

 震災では市内で上下水道が損壊。現在も一部地区は断水が続く。松崎市長は「液状化被害は投票所である体育館にも及び、有権者の安全が確保できない」と、県選管や総務省に選挙延期を求めていたが、予定通りの実施が決まった。

 反発する市側は「市の施設を投票所に使わない」「市職員に選挙事務をさせない」と対抗。投票入場券発送や選挙掲示板設置の準備もしていない。

 このまま告示なら、候補者は県選管への立候補届け出はできるが、翌2日からの期日前投票が浦安選挙区だけできない。当然、当日の投票もなく選挙無効となりそうだ。県選管は再選挙や補欠選挙も想定しているという。

保守記事.391-5 許されざるもの

2011-04-11 12:57:29 | 記事保守

 福島第1原発(福島県大熊町、双葉町)から20キロ圏内に避難指示が出されてから約3週間。避難生活が長期化する中、「ひと目わが家を見たい」「大切な ものを取ってきたい」と、危険を承知で一時帰宅する人が相次いでいる。そこで目にする光景は、変わり果てたふるさとの姿だった。
 第1原発10キロ圏内の富岡町。左官をしていた男性(47)は、夜中に友人の車で避難先の同県郡山市から自宅へ向かった。体がすっぽり隠れる雨がっぱに ゴム手袋、マスク2枚を重ねて着けた。途中で警察官2人から「どちらへ」と尋ねられ、30キロ圏外の村の名前を挙げて「家畜に餌をやりに」と答えて切り抜 けた。
 町にたどり着くと、人の気配はなく、牛や犬が徘徊(はいかい)していた。「真っ暗で怖かった。みんな、死んじゃうから放したんだね」とぽつり。自宅から は健康保険証や息子の写真を持ち帰った。「放射線は目に見えないから怖い。でも、大切なものは全て家に置いてきた。できればもう一度戻りたい」と話す。
 一方、郡山市に避難している自営業の男性(48)は、第1原発20キロ圏に入る葛尾村の自宅に3回、荷物を取りに戻った。「外に人が歩いている姿はな かった。店は閉まっていて、自動販売機は壊されていた」と振り返る。男性は自宅から戻るたびに被ばく状況調査(スクリーニング)を受けている。それでも 「たまには家の様子を見たい」とつぶやいた。
 こうした動きに対し、福島県は20キロ圏内への一時帰宅の自粛を呼び掛けている。放射能で汚染された可能性のある物品を持ち出すことで、さらなる汚染の広がりが懸念されるためだ。県は国に対し、立ち入りを強制的に制限できる警戒区域の設定も要請している。 

 

 


保守記事.391-4 気づいていたもの

2011-04-11 12:53:05 | 記事保守

手作り避難所、70人救った 10年かけ岩山に 東松島

 「津波なんてここまで来るわけがない」。そう言われながら、約10年がかりで岩山に避難所を造った男性がいる。700人以上が死亡した宮城県東松島市で、この場所が約70人の命を救った。

 東松島市の野蒜(のびる)地区。立ち並ぶ高さ30メートルほどの岩山の一つに階段が彫られ、登り口に「災害避難所(津波)」と書かれた看板があった。お 年寄りでも上れるように段差は低く、手すりもある。平らになった頂上には、8畳の小屋とあずま屋、海を見渡せる展望台が立てられていた。

 近くに住む土地の所有者、佐藤善文さん(77)が10年ほど前から、退職金をつぎ込んで1人で造った。「避難場所は家からすぐの場所になくちゃってね」。住民には「佐藤山」と呼ばれていた。

 地震があった11日、佐藤さんが4人の家族と犬を連れて登ると、すでに40人ほどがここに避難していた。津波は「ブォー」と膨れ上がって押し寄せ、立ち木や家屋がなぎ倒される音がバリバリと響いた。

 いったん波が引いたあと、「第2波には耐えられない」とさらに人がやってきた。「線路の辺りで波に巻き込まれた」という傷だらけの男性など4人も流れ着 き、避難した「佐藤山」の人々が棒を差し出して引っ張り上げた。避難者は70人ほどになり、お年寄りやけが人は小屋でストーブをたき、男性陣はあずま屋で たき火をして夜を明かした。

 夜が明けると、1960年のチリ地震による津波でも床上浸水だった周辺は、流失した家屋やがれきで埋め尽くされていた。避難した遠山秀一さん(59)は「『ここには大きな津波は来ないよ』と佐藤さんの作業を半ば笑って見ていたけど、先見の明があった」と感謝する。

 一方、周辺では指定避難場所も津波に襲われ、多くの人が犠牲になった。佐藤さんはこれまで「大きな津波は、建物ではダメ。高台に逃げるのが鉄則」と市に訴えたこともあったが、「佐藤山」は指定されなかった。

 佐藤さんは「老後の道楽も兼ねて造った避難所で一人でも多く助かってよかった」と喜ぶ一方、「もっと多くの人に『ここに逃げて』と伝えられていれば」と悔しさもにじませる。

 「佐藤山」には、もともとあった山桜のほか、しだれ桜や数々の山野草が植えられている。津波に襲われた登り口付近の梅の木は、地震後に白い花を満開にさせた。「早く平和な日常が戻るように」。佐藤さんは、様変わりした野蒜地区を見てそう祈っている。(木下こゆる)

 

市議の「遺言」、非常通路が児童救う 津波被害の小学校

写真:児童らが避難した後、津波で押し寄せたがれきに覆われた越喜来(おきらい)小学校の非常通路(中央)。右の児童たちも、この通路から高台に逃れて助かった=28日、岩手県大船渡市三陸町越喜来、仙波理撮影拡大児童らが避難した後、津波で押し寄せたがれきに覆われた越喜来(おきらい)小学校の非常通路(中央)。右の児童たちも、この通路から高台に逃れて助かった=28日、岩手県大船渡市三陸町越喜来、仙波理撮影

写真:平田武さん=親族提供平田武さん=親族提供

写真:津波避難用の非常通路が取り付けられていた場所(写真中央)には、流されたがれきが山積みになっていた=岩手県大船渡市三陸町越喜来、其山写す拡大津波避難用の非常通路が取り付けられていた場所(写真中央)には、流されたがれきが山積みになっていた=岩手県大船渡市三陸町越喜来、其山写す

図:越喜来小学校の非常通路拡大越喜来小学校の非常通路

 岩手県大船渡市の海沿いの小学校に、津波から逃れる時間を短縮する非常通路をつけるよう提案し続けていた市議がいた。昨年12月、念願の通路ができた。市議は東日本大震災の9日前に病気で亡くなったが、津波にのまれた小学校の児童は、通路を通って避難し、助かった。

 海から約200メートルのところにある越喜来(おきらい)小学校。3階建ての校舎は津波に襲われ、無残な姿をさらしている。校舎の道路側は、高さ約5 メートルのがけ。従来の避難経路は、いったん1階から校舎外に出て、約70メートルの坂を駆け上がってがけの上に行き、さらに高台の三陸鉄道南リアス線三 陸駅に向かうことになっていた。

 「津波が来たとき一番危ないのは越喜来小学校ではないかと思うの。残った人に遺言みたいに頼んでいきたい。通路を一つ、橋かけてもらえばいい」。2008年3月の市議会の議事録に、地元の平田武市議(当時65)が非常通路の設置を求める発言が記録されている。

 親族によると、平田さんは数年前から「津波が来た時に子供が1階に下りていたら間に合わない。2階から直接道に出た方が早い」と話すようになったという。

 平田さんの強い要望をうけたかたちで、昨年12月、約400万円の予算で校舎2階とがけの上の道路をつなぐ津波避難用の非常通路が設置された。予算がついた時、平田さんは「やっとできるようになった」と喜び、工事を急ぐよう市に働きかけていた。

 11日の地震直後、計71人の児童は非常通路からがけの上に出て、ただちに高台に向かうことができた。その後に押し寄せた津波で、長さ約10メートル、 幅約1.5メートルの非常通路は壊され、がれきに覆いつくされた。遠藤耕生副校長(49)は「地震発生から津波が来るまではあっという間だった。非常通路 のおかげで児童たちの避難時間が大幅に短縮された」と話す。

 市教育委員会の山口清人次長は「こんな規模の津波が来ることは想定しておらず、本当に造っておいてよかった。平田さんは子供のことを大事に考える人でした」と話した。

 非常通路から避難した児童の中には、平田さんの3人の孫もいた。平田さんの長男、大輔さん(38)は「人の役に立った最後の仕事に父も満足していると思う。小学3年の息子にも、大きくなったら話してやりたい」と語った。(其山史晃)

 

明治の教訓、15m堤防・水門が村守る…岩手

 津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸の中で、岩手県北部にある普代(ふだい)村を高さ15メートルを超える防潮堤と水門が守った。

 村内での死者数はゼロ(3日現在)。計画時に「高すぎる」と批判を浴びたが、当時の村長が「15メートル以上」と譲らなかった。

 「これがなかったら、みんなの命もなかった」。太田名部(おおたなべ)漁港で飲食店を営む太田定治さん(63)は高さ15・5メートル、全長155メートルの太田名部防潮堤を見上げながら話した。

 津波が襲った先月11日、店にいた太田さんは防潮堤に駆け上った。ほどなく巨大な波が港のすべてをのみ込んだが、防潮堤が食い止めてくれた。堤の上には太田さんら港内で働く約100人が避難したが、足もとがぬれることもなかった。

 村は、昆布やワカメの養殖が主な産業の漁村で、人口約3000人は県内の自治体で最も少ない。海に近く狭あいな普代、太田名部両地区に約1500 人が暮らし、残る村人は高台で生活している。普代地区でも高さ15・5メートル、全長205メートルの普代水門が津波をはね返した。

 防潮堤は1967年に県が5800万円をかけ、水門も84年にやはり35億円を投じて完成した。既に一部が完成し60年にチリ地震津波を防ぎ、「万里の長城」と呼ばれた同県宮古市田老(たろう)地区の防潮堤(高さ10メートル)を大きく上回る計画は当初、批判を浴びた。

 村は1896年の明治三陸津波と1933年の昭和三陸津波で計439人の犠牲者を出した。当時の和村幸得村長(故人)が「15メートル以上」を主張した。「明治に15メートルの波が来た」という言い伝えが、村長の頭から離れなかったのだという。

 今回の津波で、宮古市田老地区は防潮堤が波にのまれ、数百人の死者・不明者を出した。岩手県全体で死者・行方不明者は8000人を超えた。

 普代村も防潮堤の外にある6か所の漁港は壊滅状態となり、船の様子を見に行った男性1人が行方不明になっている。深渡宏村長(70)は「先人の津波防災にかける熱意が村民を救った。まず村の完全復旧を急ぎ、沿岸に救いの手を伸ばす」と語った。

(2011年4月3日22時05分  読売新聞)


保守記事.391-3 心無いもの

2011-04-11 12:48:58 | 記事保守

東日本大震災:「見物人」増で車両規制 宮城・亘理町、独自の通行証発行

 ガソリン供給や道路事情の改善で東日本大震災の被災地への交通アクセスが改善されるにつれ、被災地への“見物人”が増え始めている。行方不明者の 捜索やがれき撤去の妨げになるケースもあり、宮城県亘理町は被害が大きい地域に入る車両を規制することを決め、町長が発行する通行許可証を5日から被災者 に配り始めた。

 県南部の亘理町は震災で死者238人、行方不明54人の被害(4日現在)を受けた。町災害対策本部によると、津波で住宅が流されたり、海岸から離 れた場所に漁船が漂着するなど無残な姿の被災地に県外ナンバーの車で乗りつけ、騒ぎながら写真を撮ったりする人が最近になって徐々に目立つようになった。

 先週末には、がれきをよけてようやく1車線分が確保された道路に、こうした車が数珠つなぎになる光景も見られたという。中には県外から駆け付けた 被災者の親類などが交じっている可能性もあるが、防犯ボランティアが身元や目的を尋ねると言葉を濁して立ち去る人が多いという。

 町内では自衛隊や他県からの消防応援など計300人以上が行方不明者を捜索しているが、災害対策本部によると「捜索しようとしても、撤去したがれきを運ぶダンプカーが渋滞に巻き込まれてしまう。3分で行ける仮処分場まで30分かかることもある」という。

 そこで独自の通行証3000枚を急きょ作成。避難所などで配布したうえで、被災地に通じる道の主要ポイントでチェックすることにした。

 担当者は「手間は増えるが、一刻も早く一人でも多くのご遺体を見つけ、復興につなげるために理解してほしい」と話す。【丹野恒一】

 


保守記事.391-2 希望の光

2011-04-11 12:36:02 | 記事保守

「町は戻ってますか」タイムカプセルに 岩手の小学校

町を襲った震災の記憶を残そうと、岩手県山田町立大沢小学校6年の29人が「20歳の自分へのメッセージ」を書き、31日、校内にタイムカプセルを埋めた。「明るい町に戻っていますか」「みんな元気ですか」。メッセージには、復興の願いが込められている。

 毎年の行事だが、今年は震災のために、食品保存用の容器で代用した。

 大川海渡(かいと)君(12)と海成(かいせい)君(12)の双子の兄弟は津波で家を失った。高台にある学校から津波を見た海成君は「真っ黒い波に家が どんどんのまれていって、最後は砂煙で何にも見えなくなった。怖かった」。津波に流されたとみられる祖母の行方は分かっていない。

 児童会で新聞作りを担当する海成君は、家が津波にのまれる様子を描き、「忘れてはいけないこの瞬間」というタイトルを付けて当時の様子を記録した。

 2人の父親はカキの養殖やメカジキ漁などをする漁師だ。海渡君は「海はとても怖いけど大切。町が前みたいに明るくなって、20歳のときには漁師になってお父さんと一緒に船に乗っていたい」と話した。

 担任の佐藤はるみ教諭(51)は、教室に掲げていた学級目標「おそれず挑戦! 奇跡を起こせ」を書いた紙をカプセルに入れた。「ひどい状況だけれど前向きになるしかない。この子たちは大丈夫」(京谷奈帆子)


保守記事.391 希望の光

2011-04-11 12:22:33 | 記事保守

防災の教え、命救った 釜石「津波てんでんこ」生かす 小中学生、高台へ一目散

 東日本大震災で1200人を超す死者と行方不明者を出した岩手県釜石市では、3千人近い小中学生のほとんどが無事に避難した。背景には、古くから 津波に苦しめられてきた三陸地方の言い伝え「津波てんでんこ」(自分の責任で早く高台に逃げろの意味)に基づいた防災教育がある。想定外の大津波が押し寄 せる中、防災の教えが子供たちの命を救った。(報道本部 枝川敏実、写真も)

 釜石市北部の大槌湾を望む釜石東中学校(生徒数222人)は、同湾に流れ出る鵜住居(うのすまい)川から数十メートルしか離れていない。11日午後の地震発生時は、各教室で下校前のホームルームが行われていた。

 立っていられないほどの横揺れが生徒たちを襲った。1階にいた3年生の栗沢正太君(15)は避難口を確保しようと、とっさに窓を開け、机の下へ。揺れが一段落すると、担任教師が「逃げろ」と叫び、栗沢君が校庭に出ると、2、3階にいた1、2年生も非常階段を下りてきた。

 校庭に出た生徒たちは教師の指示を待たず、高台に向かって走りだした。途中、同校に隣接した鵜住居小学校(児童数361人)の児童も合流。小学生の手を引く中学生の姿も目立ったという。

 子供たちは普段の防災訓練で使っている高台に集まろうとしたが、だれかが「まだ危ない」と言いだし、さらに高い場所にある老人施設まで移動。学校から1キロも走っていた。

 教師たちが点呼を取ったところ、登校していた両校の児童生徒計562人全員の無事が確認できた。その5分後、両校の校舎は津波にのみ込まれた。

 津波は地震発生後、いつ来るか分からない。教師の指示が遅れると、逃げ遅れることになる。釜石市内の小中学校は指示されなくても「とにかく早く、自分の判断でできるだけ高いところ」に逃げるよう指導してきた。

 釜石市は昭和三陸地震(1933年=昭和8年)やチリ地震(60年)などの津波で大きな被害を受けた。市内の各小中学校は津波を経験した高齢者の講演会 などを開いたり、当時の映像を見せたりして津波の恐ろしさを教えてきた。釜石東中の場合、平均して週1時間を防災教育に充て、年3回避難訓練を行ってい る。

 市教委などによると、今回の震災で、釜石市内の小中学生2923人のうち、死者と行方不明者は5人。ほとんどが学校を休んでいた子供で、学校からの避難がほぼうまくいったことを裏付ける。

 一方、釜石港沖には2009年、マグニチュード(M)8・5の地震を想定し、高さ約6メートル、全長約1・6キロの防波堤が建設された。耐震性を増すなど最新の技術が駆使されたが、10メートル以上とされる今回の津波であっけなく破壊された。

 船や家を失い、避難所に身を寄せる漁業者からは「防波堤があるから、(津波対策は)万全だと思っていた」との声が多く聞かれた。釜石市の幹部は「津波対 策は防波堤の建設などのハード面と、津波の恐ろしさを啓発するなどのソフト面があるが、今回の震災でソフト面の大切さを痛感した」と話している。 〈津波 てんでんこ〉 岩手県大船渡市の津波災害史研究家山下文男さん(87)が、幼少時に父母が語っていた言葉を講演で紹介したことなどがきっかけで広がったと される。「てんでんこ」は「てんでんばらばらに」の意。もともとは自分だけでも高台に逃げろという考え方を示すが、現在の三陸地方では自分の命は自分の責 任で守れという教訓として使われている。

研究成果 広域首都圏防災研究センター【速報:釜石が繋いだ未来への希望-子ども犠牲者ゼロまでの軌跡-

 東北地方太平洋沖地震に伴う津波による釜石市内の子どもの被害状況は以下の通りです。 釜石市の小学生1,927人、中学生999人(H23.3.1時点)のうち、津波襲来時時において学校の管理下にあった児童・生徒については、適切な対応 行動をとることによって、一人の犠牲者もだすことなく、大津波から生き残ることができました。また、市内の幼稚園児、保育園児においても、犠牲者はゼロで した。釜石市はこれまでの継続的な津波防災教育のより、地域の将来の担い手であり、地域の財産である“子どもたちの命”を守ることに成功しました!

 一方、津波襲来時において学校管理下でなかった児童・生徒については、残念ながら4名が犠牲となり、2名が行方不明となっています(H23.3.18時点)