飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

B教授の死ー寺田寅彦ーコイルガンの生みの親

2018-01-09 15:44:18 | 物語

B教授というのは
先日の記事にも登場したC.ビルケランド博士である・・・。
寺田寅彦は言わずと知れた物理学者であり随筆家だ
その二人は懇意であった?!
そして、
C.ビルケランド博士は日本が終の住処となった!

 

表題のコイルガン(電磁砲)の発明者でもある。

何故日本にまで旅するに至ったか?

本人以外知る由もないが、

この随想録には、

その手掛かりがある。

コイルガン(電磁砲)の発明と特許取得が、

その軍事利用が機縁となって、

どこかの国のスパイに追われる身辺となったのが理由だろう。

 

それも第一次世界大戦勃発直後、

百年も前の話である・・・。

そのコイルガン(電磁砲)がレールガンとして、

今やアメリカ海軍によって実用化されようとしている・・・。

ビルケランド博士は

ノルウェーの碩学の物理学者で、

オーロラの解明とその実演を為した人物で、

今で言えば量子の先端気鋭の物理学者とも言えるだろうが、

何度もノーベル賞にノミネートされながら、

日本で客死すると言う哀愁を感じる生涯であった様だ。

 

何故興味を感じたか?

勿論、

コイルガンの発明者であるという驚きもあるが、

荷電粒子の大家で、

オーロラの研究も凄いが、

バンアレン帯を予測した人物でもある。

そして、

先日の気候変動のメカニズムに、

この荷電粒子に依るエネルギーが関係している。

そう確信したからである。

 

今や、

気象操作、

人工地震のメカニズムにHAARPが存在するが、

まさに電磁エネルギーの環境工学である。

うまく使いこなせば、

台風やハリケーンなどの災害消滅にも寄与するが、

反対に、

人工的にそれらを創りだすことが出来る環境工学でもある。

 

太陽は莫大なエネルギーを

惑星に降り注いでいる。

いずれも粒子エネルギーとしてである。

光は同時に粒子だからである。

地球も電磁的エネルギーでバランスを保っている。

全ては電磁的エネルギー抜きには

生きていけない存在で、

天候もまさにその影響を直接の受けていると

考えられる。

 
【転載開始】ウィキペディアより
 
クリスチャン・ビルケランド

クリスチャン・ビルケランド(Kristian Birkeland、ビルケラン、バークランドとも表記される、1867年12月13日 - 1917年6月15日)はノルウェーの物理学者である。

オーロラが太陽からの荷電粒子の大気との反応であることを示し、実験室でオーロラを発生させた。発明家としても、さまざまな分野の特許を得た。世界的な名声を得て、7度ノーベル賞の候補となった。1994年発行のノルウェーの紙幣(200ノルウェー・クローネ札)に肖像が採用され、ノルウェーでは有名な科学者である。

オスロ(当時はChristiania)に生まれた。18歳で最初の科学論文を書くなどの才能を示した。30歳でオスロ大学の教授となったが、その興味は学問にとどまらなかった。1905年サミュエル・アイデと後に大企業となるノルスク・ハイドロの設立メンバーとなった。実用化されなかった発明の例として1900年に電磁力で砲弾を飛ばす電磁砲(コイルガン)の特許をえて、デモンストレーションを行ったが結果は実らなかった。放電による空中窒素の固定の実験もおこなった。

オーロラ研究の分野では1899年から1900年にノルウェーの高緯度地域の探検隊を組織し、地磁気の測定結果を得た。真空中の陰極線磁場の実験で、オーロラを実験室で再現した。1913年に宇宙空間が高速の電子イオンで満ちていることを予測した。

1917年、日本滞在中に東京上野精養軒ホテルで睡眠薬の量を誤って摂取し死去した。自殺したとも言われる。この事件を寺田寅彦は随筆『B教授の死』に書いた。【転載終了】

その碩学の物理学者が、

日本にたどり着き、

最期を終えたということは驚きである。

そして、

今もその影響を受けたと見られるレールガンが、

軍事技術のみならず、

宇宙技術にまで展開されている。

 

核兵器が脚光を浴びているが、

その先にあるのが電磁兵器である。

これから大いに注目浴びる人物だろうと確信している。

それが日本にたどり着き、

日本で最期を得た。

寺田寅彦が今に鮮明に語り(書き)起こしているのは、

何かの予兆を感ずる。

 

【転載開始】※青空文庫より

B教授の死

寺田寅彦

 さわやかな若葉時も過ぎて、日増しに黒んで行く青葉のこずえにうっとうしい微温の雨が降るような時候になると、十余年ほど前に東京のSホテルで客死したスカンジナビアの物理学者B教授のことを毎年一度ぐらいはきっと思い出す。しかし、なにぶんにももうだいぶ古いことであって、記憶が薄くなっている上に、何度となく思い出し思い出ししているうちには知らず知らずいろいろな空想が混入して、それがいつのまにか事実と完全に融(と)け合ってしまって、今ではもうどこまでが事実でどこからが空想だかという境目がわからない、つまり一種の小説のような、というよりもむしろ長い年月の間に幾度となく蒸し返された悪夢の記憶に等しいものになってしまった。これまでにもなんべんかこれに関する記録を書いておきたいと思い立ったことはあったが、いざとなるといつでも何かしら自分の筆を渋らせるあるものがあるような気がして、ついついいつもそれなりになってしまうのであった。しかし、また一方では、どうしても何かこれについて簡単にでも書いておかなければ自分の気がすまないというような心持ちもする。それで、多少でもまだ事実の記憶の消え残っている今のうちに、あらましのことだけをなるべくザハリッヒな覚え書きのような形で書き留めておくことにしようと思う。

 欧州大戦の終末に近いある年のたぶん五月初めごろであったかと思う。ある朝当時自分の勤めていたR大学の事務室にちょっとした用があってはいって見ると、そこに見慣れぬ年取った禿頭(とくとう)のわりに背の低い西洋人が立っていて、書記のS氏と話をしていた。S氏は自分にその人の名刺を見せて、このかたがP教室の図書室を見たいと言っておられるが、どうしましょうかというのである。その名刺を見ると、それはN国のK大学教授で空中窒素の固定や北光の研究者として有名な物理学者のB教授であった。同教授にはかつてその本国で会ったことがあるばかりでなく、その実験室で北光に関する有名な真空放電の実験を見せてもらったり、その上に私邸に呼ばれてお茶のごちそうになったりしたことがあったので、すぐに昔の顔を再認することができたが、教授のほうではどうもあまりはっきりした記憶はないらしかった。

 教授が今ここの図書室で見たいと言った本は、同教授の関係した北光観測のエキスペジションの報告書であったが、あいにくそれが当時のP教室になかったので、あてにして来たらしい教授はひどく失望したようであった。

 それはとにかく、自分らの教室にとっては誠に思いがけない遠来の珍客なので、自分は急いで教室主任のN教授やT老教授にもその来訪を知らせ引き合わせをしたのであったが、両先生ともにいずれも全然予期していなかったこの碩学(せきがく)の来訪に驚きもしまた喜ばれもされたのはもちろんである。しかしB教授はどういうものかなんとなしに元気がなく、また人に接するのをひどく大儀がるようなふうに見えた。

 それから二三日たって、箱根(はこね)のホテルからのB教授の手紙が来て、どこか東京でごく閑静な宿を世話してくれないかとのことであった。たしか、不眠症で困るからという理由であったかと思う。当時U公園にS軒付属のホテルがあったので、そこならば市中よりはいくらか閑静でいいだろうと思ってそのことを知らせてやったら、さっそく引き移って来て、幸いに存外気に入ったらしい様子であった。

 その後、時々P教室の自分の部屋(へや)をたずねて来て、当時自分の研究していた地磁気の急激な変化と、B教授の研究していた大気上層における荷電粒子の運動との関係についていろいろ話し合ったのであったが、何度も会っているうちに、B教授のどことなくひどく憂鬱(ゆううつ)な憔忰(しょうすい)した様子がいっそうはっきり目につきだした。からだは相当肥(ふと)っていたが、蒼白(そうはく)な顔色にちっとも生気がなくて、灰色のひとみの底になんとも言えない暗い影があるような気がした。

 あるひどい雨の日の昼ごろにたずねて来たときは薄絹にゴムを塗った蝉(せみ)の羽根のような雨外套(あまがいとう)を着ていたが、蒸し暑いと見えて広くはげ上がった額から玉のような汗の流れるのをハンケチで押しぬぐい押しぬぐい話をした。細かい灰色のまばらな髪が逆立っているのが湯げでも立っているように見えた。その時だけは顔色が美しい桜色をして目の光もなんとなく生き生きしているようであった。どういうものかそのときの顔がいつまでもはっきり自分の印象に残っている。

 一度S軒に呼ばれて昼飯をいっしょにごちそうになったときなども、なんであったか忘れたが学問には関係のないおどけた冗談を言ったりして珍しい笑顔(えがお)を見せたこともあった。

 ある日少しゆっくり話したいことがあるから来てくれと言って来たのでさっそく行ってみると、寝巻のまま寝台の上に横になっていた。少しからだのぐあいが悪いからベッドで話すことをゆるしてくれという。それから、きょうはどうもドイツ語や英語で話すのは大儀で苦しいからフランス語で話したいが聞いてくれるかという。自分はフランス語はいちばん不得手だがしかしごくゆっくり話してくれればだいたいの事だけはわかるつもりだと言ったら、それで結構だと言ってぽつぽつ話しだしたが、その話の内容は実に予想のほかのものであった。

 自分にわかっただけの要点はおおよそ次のようなものであったと思う。しかし、聞き違え、覚え違いがどれだけあるか、今となってはもうそれを確かめる道はなくなってしまったわけである。

 B教授は欧州大戦の刺激から得たヒントによってある軍事上に重要な発明をして、まずF国政府にその使用をすすめたが採用されないので次に某国に渡って同様な申し出をした。某国政府では詳しくその発明の内容を聞き取り、若干の実験までもした後に結局その採用は拒絶してしまった。しかしどういうものかそれ以来その某国のスパイらしいものがB教授の身辺に付きまつわるようになった、少なくもB教授にはそういうふうに感ぜられたそうである。その後教授が半ばはその研究の資料を得るために半ばはこの自分を追跡する暗影を振り落とすためにアフリカに渡ってヘルワンの観測所の屋上で深夜にただ一人黄道光の観測をしていた際など、思いもかけぬ砂漠(さばく)の暗やみから自分を狙撃(そげき)せんとするもののあることを感知したそうである。この夜の顛末(てんまつ)の物語はなんとなくアラビアンナイトを思い出させるような神秘的なロマンチックな詩に満ちたものであったが、惜しいことに細かいことを忘れてしまった。

「それから船便を求めてあてのない極東の旅を思い立ったが、乗り組んだ船の中にはもうちゃんと一人スパイらしいのが乗っていて、明け暮れに自分を監視しているように思われた。日本へ来ても箱根(はこね)までこの影のような男がつきまとって来たが、お前のおかげでここへ来てから、やっとその追跡からのがれたようである。しかしいつまでのがれられるかそれはわからない。」

「これだけの事を一度だれかに話したいと思っていたが、きょう君にそれを話してこれでやっと気が楽になった。」

 ゆっくりゆっくり一句一句切って話したので、これだけ話すのにたぶん一時間以上もかかったかと思う。話してしまってから、さもがっかりしたように枕(まくら)によりかかったまま目をねむって黙ってしまったので、長座は悪いだろうと思って遠慮してすぐに帰って来た。

 翌朝P教室へ出勤するとまもなくS軒から電話でB教授に事変が起こったからすぐ来てくれとの事である。急病でも起こったらしいような口ぶりなので、まず取りあえずN教授に話をして医科のM教授を同伴してもらう事を頼んでおいて急いでS軒に駆けつけた。

 ボーイがけさ部屋(へや)をいくらたたいても返事がないから合いかぎでドアを明けてはいってみると、もうすでに息が絶えているらしいので、急いで警察に知らせると同時に大学の自分のところへ電話をかけたということである。

 ベッドの上に掛け回したまっ白な寒冷紗(かんれいしゃ)の蚊帳(かや)の中にB教授の静かな寝顔が見えた。枕上(まくらがみ)の小卓の上に大型の扁平(へんぺい)なピストルが斜めに横たわり、そのわきの水飲みコップの、底にも器壁にも、白い粉薬らしいものがべとべとに着いているのが目についた。

 まもなく刑事と警察医らしい人たちが来て、はじめて蚊帳を取り払い、毛布を取りのけ寝巻の胸を開いてからだじゅうを調べた。調べながら刑事の一人が絶えず自分の顔をじろじろ見るのが気味悪く不愉快に感ぜられた。B教授の禿頭(とくとう)の頂上の皮膚に横にひと筋紫色をしてくぼんだ跡のあるのを発見した刑事が急に緊張した顔色をしたが、それは寝台の頭部にある真鍮(しんちゅう)の横わくが頭に触れていた跡だとわかった。

 刑事が小卓のコップのそばにあった紙袋を取り上げて調べているのをのぞいて見たら、袋紙には赤インキの下手(へた)な字で「ベロナール」と書いてあった。呼び出されたボーイの証言によると、昨夜この催眠薬を買って来いというので、一度買って帰ったが、もっとたくさん買って来いという、そんなに飲んだら悪いだろうと言ってみたが、これがないと、どうしても眠られない、飲まないと気が違いそうだからぜひにと嘆願するので、しかたなくもう一ぺん薬屋にわけを話して買って来たのだということであった。

 そのうちにN教授とM教授がやって来た。続いてN国領事のバロン何某と中年のスカンジナビア婦人が二人と駆けつけて来た。婦人たちがわりに気丈でぎょうさんらしく騒がないのに感心した。

 室の片すみのデスクの上に論文の草稿のようなものが積み上げてある。ここで毎日こうして次の論文の原稿を書いていたのかと思って、その一枚を取り上げてなんの気なしにながめていたら、N教授がそれに気づくと急いでやって来て自分の手からひったくるようにそれを取り上げてしまった、そうしてボーイを呼んでその原稿いっさいを紙包みにしてひもで縛らせ、それを領事に手渡しした。そうして、それを封印をして本国大学に送ってもらいたいというようなことを厳粛な口調で話していた。

 領事のほうからは、本国の家族から事後の処置に関する返電の来るまで遺骸(いがい)をどこかに保管してもらいたいという話があって、結局M教授の計らいでM大学の解剖学教室でそれを預かることになった。

 同教室に運ばれた遺骸に防腐の薬液を注射したのは、これも今は故人になったO教授であった。その手術の際にO教授が、露出された遺骸の胸に手のひらをあてて Noch warm ! と言って一同をふり向いたとき、領事といっしょにここまでついて来ていた婦人の一人の口からかすかなしかし非常に驚いたような嘆声がもれた。O教授はしかし「これはよくあるポストモルテムの現象ですよ」と言い捨てて、平気でそろそろ手術に取りかかった。

 葬式は一番町(いちばんちょう)のある教会で行なわれた。梅雨晴(つゆば)れのから風の強い日であって、番町へんいったいの木立ちの青葉が悩ましく揺れ騒いで白い葉裏をかえしていたのを覚えている。自分は教会の門前で柩車(きゅうしゃ)を出迎えた後霊柩に付き添って故人の勲章を捧持(ほうじ)するという役目を言いつかった。黒天鵞絨(くろびろうど)のクションのまん中に美しい小さな勲章をのせたのをひもで肩からつり下げそれを胸の前に両手でささげながら白日の下を門から会堂までわずかな距離を歩いた。冬向きにこしらえた一ちょうらのフロックがひどく暑苦しく思われたことを思い出すことができる。

 会堂内で葬式のプログラムの進行中に、突然堂の一隅(いちぐう)から鋭いソプラノの独唱の声が飛び出したので、こういう儀式に立ち会った経験をもたない自分はかなりびっくりした。あとで聞いたら、その独唱者は音楽学校の教師のP夫人で、故人と同じスカンジナビアの人だという縁故から特にこの日の挽歌(ばんか)を歌うために列席したのであったそうである。ただその声があまりに強く鋭く狭い会堂に響き渡って、われわれ日本人の頭にある葬式というものの概念に付随したしめやかな情調とはあまりにかけ離れたもののような気がしたのであった。

 遺骸(いがい)は町屋(まちや)の火葬場で火葬に付して、その翌朝T老教授とN教授と自分と三人で納骨に行った。炉から引き出された灰の中からはかない遺骨をてんでに拾いあつめては純白の陶器の壺(つぼ)に移した。並みはずれに大きな頭蓋骨(ずがいこつ)の中にはまだ燃え切らない脳髄が漆黒なアスファルトのような色をして縮み上がっていた。

 N教授は長い竹箸(たけばし)でその一片をつまみ上げ「この中にはずいぶんいろいろなえらいものがはいっていたんだなあ」と言いながら、静かにそれを骨壺(こつつぼ)の中に入れた。そのとき自分の眼前には忽然(こつぜん)として過ぎし日のK大学におけるB教授の実験室が現われるような気がした。

 大きな長方形の真空ガラス箱内の一方にB教授が「テレラ」と命名した球形の電磁石がつり下がっており、他の一方には陰極が插入(そうにゅう)されていて、そこから強力な陰極線が発射されると、その一道の電子の流れは球形磁石の磁場のためにその経路を彎曲(わんきょく)され、球の磁極に近い数点に集注してそこに螢光(けいこう)を発する。その実験装置のそばに僧侶(そうりょ)のような黒頭巾(くろずきん)をかぶったB教授が立って説明している。この放電のために特別に設計された高圧直流発電機の低いうなり声が隣室から聞こえて来る。

 そんな幻のような記憶が瞬間に頭をかすめて通ったが、現実のここの場面はスカンジナビアとは地球の反対側に近い日本の東京の郊外であると思うと妙な気がした。

 それからひと月もたって、B教授の形見だと言ってN国領事から自分の所へ送って来たのは大きな鋳銅製の虎(とら)の置き物であった。N教授の所へは同じ鋳物の象が来たそうである。たぶんみやげにでもするつもりでB教授が箱根(はこね)あたりの売店で買い込んであったものかと思われた。せっかくの形見ではあるがどうも自分の趣味に合わないので、押し入れの中にしまい込んだままに年を経た。大掃除(おおそうじ)のときなどに縁側に取り出されているこの銅の虎を見るたびに当時の記憶が繰り返される。大掃除の時季がちょうどこの思い出の時候に相当するのである。

 S軒のB教授の部屋(へや)の入り口の内側の柱に土佐(とさ)特産の尾長鶏(おながどり)の着色写真をあしらった柱暦のようなものが掛けてあった。それも宮(みや)の下(した)あたりで買ったものらしかったが、教授のなくなった日、室のボーイが自分にこの尾長鶏を指さしながら「このお客さんは、いつも、世の中にこのくらい悲惨なものはないと言っていましたよ」と意味ありげに繰り返して話していた。しかしなぜ尾長鶏がそんなに悲惨なものとB教授に思われたか、これが今日までもどうしても解けない不思議ななぞとして自分の胸にしまい込まれている。

 ボーイについて思い出したことがもう一つある。やはりこの事変の日に刑事たちが引き上げて行ったあとで、ボーイが二三人で教授のピストルを持ち出して室の前の庭におりた。そうして庭のすぐ横手の崖(がけ)一面に茂ったつつじの中へそのピストルの弾(たま)をぽんぽん打ち込んで、何かおもしろそうに話しながらげらげら笑っていた。つつじはもうすっかり散ったあとであったが、ほんの少しばかりところどころに茶褐色(ちゃかっしょく)に枯れちぢれた花弁のなごりがくっついていたことと、初夏の日ざしがボーイのまっ白な給仕服に照り輝き、それがなんとも言えないはかない空虚な絶望的なものの象徴のように感ぜられたことを思い出すのである。【転載終了】