『終わりの日の預言』の周辺情報!!⑪
シムトラの よい知らせ!! Ⅱ
<神との出会い>
繰り返し言っておくが、投稿者は、主の民の一員ではない。たまたま、通りすがりのものである。クリスチャンでもない。聖書は座右の書ではあるが、ことさら研究に専心しているものでもない。真理を好むものである。従って、本連載ブログテーマは全く、『善意の第三者の紹介記事』にすぎない。(善意=事情を知らないこと:法律的用語解釈でご理解を)
いつぞや、コメントで、『あなたの導く神は....云々』とあったが、そのつもりはない。しかし、とらえ方は各様あるので、否認はするが、議論するつもりはない。それぞれが、情報としてとらえ、吟味することは悪いことではないと思う。
客観的にみて、すべてに教えの中には、戒と律がある。深く考えることはないと思う。『安息日』は戒である。戒とは、制限的戒めであるし、律とは推奨的戒めである。と考える。まあ、それはどの世界にもある。国には法律が、団体には噂守規定が、修行団体には修行規定がある。それくらいに考えている。
さりとて、何ともあざやかな聖書的変容であろうか。それが、この上なく、興味をそそられることなのである。幾世代も架けて、そうした戒律を培ってきたのなら分かりもする。そうではなく、ある日、突然に密教宗教団体にある事件をきっかけにおそった変容。これは奇跡に近い。否、奇跡そのものと言っても決しておかしくはない。あだや、おろそかに出来ない事件である。
そう思ったからこそ、転載を決意した。その考えは変わらない。
そして、転載し、読み進めているうちに、いよいよその真実性を確信するに至った。『一見、一読の価値がある。』と。それだけのことである。
どこまで転載を続けられるか分からないが、聖書に対する改変の事実も、この『終わりの日の預言』を通じて、明らかにされてくるのも一つの出来事である。そして、日本と高野山と密教と、四国88カ所の関わりとその意味、これからの出来事との関わりの謎を追うことも可能性が見える。楽しみにしている。
【転載開始】
<神との出会い>
平成9年2月頃、私は「聖所の祭礼にどうしても参加したい。」と夫に頼み込み、横浜から日帰りで初めて祭礼に参加しました。当時の聖所は、大阪府天王寺区国分町にありましたが、まだ『主の聖所』という名称ではありませんでした。<st1:msnctyst w:st="on" address="大阪府天王寺区国分町" addresslist="27:大阪府天王寺区国分町;"></st1:msnctyst>
私
は、祭礼の知らせを大祭司から頂いた時、「なんとしても行かなきゃ」と思いました。なんとしても行って、神に守られたかったのです。私はとても臆病なの
で、神に守られて安心したかったのです。何から守られたかったのか・・・それは言葉にするなら「神以外のものから」とでも言ったらいいでしょうか。私は、
理屈でなくここに行けば大丈夫と思ったのです。<o:p></o:p>
平成10年8月、主の聖所(幕屋)は大阪の天王寺区大道に移転しました。この聖所の移転に際して私は、これだけは絶対に取っておかねばならないと、大事に大事にしていたものを「幕屋造営」のために奉献しました。その大事にしていたものは私にとって「最後の砦」のようなものでした。
私は、ほとんど何のためらいもなく仏像(偶像)を捨て去ることができました。でも、目に見える偶像は捨て去っても、神以外のものにも依り頼んでいる私自身を捨て去ってはいなかったのです。自分ではまるでそのことに気付きませんでした。<o:p></o:p>
神
以外のものに対して「これだけは絶対手放せない」と思う自分自身に縛られ苦しい、ということがわかりませんでした。ただ私は、当時言葉でわかっていたわけ
ではありませんが、自分の願いを叶えたければ、その願いを叶えてくれる大元をきちんとしなければいけないと、なんとなく漠然とそう思っていました。<o:p></o:p>
私が「これだけは絶対になくせない」と思っていたものを取り去ってから、気が付くと神は、それまでずーっと私の心の中にしこりのようにあった願いを、叶えてくださっていました。<o:p></o:p>
私は、その願いを神に願い望みとして献げたことはありませんでした。でも神は、私が何を願い望んでいるか本当によくご存知でした。<o:p></o:p>
この時から数年が経ち、ようやく「神に願いを叶えていただきたければ、お願いばかりするのではなくて、神のことを最優先することなんだ」とわかりました。<o:p></o:p>
あの時、奉献していなかったら、私は未だに縛られ苦しんでいたことでしょう。
<願い望みを叶えてくださる神><o:p></o:p>
平成12年8月、「霊視商法詐欺事件」の無実の罪のために拘留されていた預言者が、神の御業によって帰還されました。<o:p></o:p>
そ
の年の夏、大祭司から「預言者を通して神が私たちの願い望みを聞いてくださり、御言葉をくださる。」ということを聞きました。私は「神が御言葉をくださる
なんて、そんなすごいことがあるんだ。」と、最初はよく訳もわからず、自分が思い悩んでいたことを願い望みに書いて、主の祭壇に献げました。そして、ドキ
ドキしながら、御言葉を待ちました。<o:p></o:p>
平成12年9月5日、主なる神は私に最初の御言葉をくださいました。<o:p></o:p>
「あ
なたたちの進めている旅はうまくいく。安心して行くがよい。主は、あなたたちのたどる旅路を見守っておられる。ためらわずに出発し『約束の地』に入るべき
だ。行けば、あなたたちは穏やかな民のところへ行けよう。神があなたたちの手にお渡しになったのだから、その地は大手を広げて待っている。そこは、この地
上の物が何一つ欠けることのない所だ。」<o:p></o:p>
「建
物の中に彫像と鋳像があるのを知っているか。彫像と鋳像を取り除きなさい。今、どうすべきか決めなさい。そして主の民にしなさい。そしてあなた自身は、一
個人の家の祭司であるより、主の民の一部族、氏族の祭司となりなさい。そしてあなたの主の聖所(神殿)を再建しなさい。旅を続け、神の家に立ち帰りなさ
い。道を正す人に、私は神の救いを示そう。固く立って、主があなたたちを救うのを見よ。恐れるな。おじけるな。その地の住民よ、聞け。あなたたちの神、主
に信頼せよ。そうすれば、あなたたちは確かに生かされる。またその預言者に信頼せよ。そうすれば勝利を得ることができる。主に信頼せよ、その慈しみはとこ
しえに。そうすれば、あなたたちを打つ者たちは互いに戦って自滅する。」<o:p></o:p>
「主なる神の聖所を再建し、聖所の祭壇に献げ物をしなさい。この時のためにこそ、あなたはわたしがつくったのではないか。聖所を再建するのは、あなたたちがあなたたちの救い主を迎えるためである。」<o:p></o:p>
私は、ただただ驚いたのと同時に、嬉しくて嬉しくて、もっともっともっともっと神に近づきたい!と思いました。でも、その御言葉の意味は、大祭司に解釈して頂いても何にもわかっていませんでした。<o:p></o:p>
御言葉の意味がよくわかっていなくても、どこかで、「御言葉は絶対だ」ということを感じていました。<o:p></o:p>
そして、それからというもの、神は私が一番求めていたものを、惜しみなく与え続けてくださいました。<o:p></o:p>
平成12年、神は私をレビ祭司に任命してくださいました。
<安息日><o:p></o:p>
私が初めて『安息日』のことを聞いたのは、平成11年頃でした。<o:p></o:p>
安息日は、金曜日の日没から、土曜日の日没までです。「安息日に、いかなる仕事もしてはいけない。荷を出し入れしてはいけない。物の売り買いをしてはいけない。」と聞いたとき、「今の時代にできない」と思いましたし、また『安息日』を守ることがそんなに重要なことと思えないでいました。そして、最初の頃は安息日とは程遠い、ほとんどいつもと変わらない生活をしていました。<o:p></o:p>
要するに、知恵を絞ってどうにか神の言われていることに従うのではなく、自分の都合を優先させていたのです。<o:p></o:p>
でも、いつからか「神の言われることにどんな意味があるのかわからないが、とにかく守ってみよう」と思い始め、まして、神の<前(みまえ)で誓約してからは、毎週それはそれは緊張して安息日を過ごしていました。<o:p></o:p>
ところが平成12年12月23日の安息日、私はいつもの習慣で、売りにきた野菜を買ってしまったのです。お金を払ってから「はっ」と気付き、私が真っ青になったことはいうまでもありません。<o:p></o:p>
私はすぐにそのことを神に告白し、神に贖罪を願いました。
その告白に対して、平成12年12月28日、神は次のように言われました。<o:p></o:p>
「まことに、主の民の聖なる方、わが主なる神はこう言われた。<o:p></o:p>
『お
前たちは立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。』と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。お前たちは
言った。『そうしてはいられない、安息日にもやることがある』と。それゆえ、お前たちは安息日にも忙しくしなければならない。また、『大急ぎでやらなけれ
ばならないことがある、忙しい』と言ったゆえに、あなたたちを追い立てるものはあなたたちを忙しくさせるであろう。一人の威嚇によって、あなたたちはもろ
ともに忙しくし、五人の威嚇によって、お前たちは急ぐ。<o:p></o:p>
主の言葉を聞け。<o:p></o:p>
主はこう言われる。あなたたちは、慎んで、安息日に荷を運ばないようにしなさい。家のどの門からも荷を運ばないようにしなさい。家のどの門からも荷を持ち
込んではならない。また、安息日に、荷をあなたたちの家から持ち出してはならない。どのような仕事もしてはならない。安息日を聖別しなさい。それをわたし
はあなたたちの先祖に命じたが、彼らは聞き従わず、耳を貸そうともしなかった。彼らはうなじを固くして、聞き従わず、諭しを受け入れようとしなかった。主
は言われる。もし、あなたたちがわたしに聞き従い、安息日に門から荷を持ち込まず、安息日を聖別し、その日には何の仕事もしないならば、わたしはあなたの
願いをかなえる。それゆえ、主は恵みを与えようとして、あなたたちを待ち、それゆえ、主は憐れみを与えようとして、立ち上がる。まことに、主は正義の神。
なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。まことに、『主の聖所』の民、あなたよ、もはや泣くことはない。主はあなたの呼ぶ声に答えて、必ず恵みを与
えられる。主がそれを聞いて、直ちに答えてくださる。わが主はあなたたちに、ぶどう酒と聖水を与えられた。あなたを導かれる方は、もはや隠れておられるこ
となく、あなたの目は常に、あなたを導かれる方を見る。あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け、右に行け、左に行
け』と。」<o:p></o:p>
その時の私は、「こんなことしてしまって、どれだけ神に怒られるだろう・・・」と、毎日毎日しょげかえっていました。でも、神のくださった御言葉はこんなにも慈しみに溢れたものだったのです。<o:p></o:p>
私が、この上ない喜びに包まれたのは言うまでもないことです。そして「神に聞き従おう」とあらためて思ったのも言うまでもないことです。また、私は臆病者なので、どうか神を信じ続けていくことができますようにと、主なる神に感謝と願い望みを献げました。<o:p></o:p>
平成13年1月3日、主なる神は私に言われました。<o:p></o:p>
「娘
よ、わたしはあなたの贖罪の言葉に耳を傾け、つぶやきを聞き分ける。わたしは、あなたの主、あなたの神、わたしはあなたが助けを求めて叫ぶ声を聞く。わた
しに向かって祈りなさい。娘よ、朝ごとに、わたしはあなたの声を聞く。朝ごとに、あなたはわたしの前に訴え出て、わたしを仰ぎ望みなさい。わたしは、決し
て逆らう者を喜ぶ神ではない。他の神々にひれ伏してはならない。他の神々にひれ伏す者はわたしのもとに宿ることを許されず、すべて憎まれる。わたしは彼ら
を滅ぼす。しかし、わたしはあなたを深く慈しみ、わたしの家に迎え入れる。あなたはわたしの家、聖なる宮に向かってひれ伏し、わたしを畏れ敬っているから
である。<o:p></o:p>
娘
よ、わたしは、恵みの御業のうちにあなたを導く。まっすぐにわたしの道を歩みなさい。あなたを陥れようとする者から、自らを守りなさい。彼らの口は、正し
い事を語らない。わたしは、彼らを悪に定め、そのたくらみのゆえに打ち倒す。彼らは背きに背きを重ねる反逆の者。彼らを追い落とす。わたしを避けどころと
する者は皆、喜び祝い、とこしえに喜び祝う。あなたがわが名を愛するならば、御旨のままわたしに守られる。」<o:p></o:p>
私は、神が私の心の内をわかっていてくださったこと、こんな私を「娘」と呼んでくださったこと、そして私を守り導くと言ってくださったことが嬉しくて嬉しくて嬉しくて、「私の精一杯で聞き従おう」と思っていました。<o:p></o:p>
平成13年1月7日、七人の任命者に対して御言葉がありました。<o:p></o:p>
「主
に感謝をささげて御名を呼べ。諸国の民に御業を示せ。主に向かって歌い、ほめ歌をうたい、驚くべき御業をことごとく歌え。『主の聖所』を誇りとせよ。主を
求める人よ、心に喜びを抱き、主を、主の御力を尋ね求め、常に御顔を求めよ。主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を、主の口から出る裁きを心に留めよ。
主の僕、アブラハムの子孫よ、ヤコブの子ら、主に選ばれた人々よ。主はわたしたちの神、主の裁きは全地に及ぶ。主はとこしえに契約を御心に留められる。千
代に及ぼすように命じられた御言葉を、アブラハムと結ばれた契約、主イエスに対する誓いを。主はそれを主の民に対する掟とし、主の民へのとこしえの契約と
して立て、宣言された。
『わたしはあなたに約束の地を、嗣業として継がせよう』と。その地で、彼らはまだ数少なく、寄留の民の小さな群れで、国から国へ、
ひとつの王国から他の民のもとへと移って行った。主は彼らを虐げることを誰にも許さず、彼らのことを、王たちに戒めて言われた。『わたしが油を注いだ人々
に触れるな、わたしの預言者たちに災いをもたらすな』と。
主はこの地に飢饉を呼び、パンの備えをことごとく絶やされるが、あらかじめ一人の人を遣わしてお
かれた。捕囚として売られた民の父。王は人を遣わして彼を解き放った。諸国を支配する王が彼を自由の身にした。彼は民を主の思いのままに戒め、長老たちに
知恵を授けた。主の民は敵の地に下り他の者の地に宿っていたが、主はご自分の民をそこから導き上り、彼らを大いに増やし、敵よりも強くされた。
主が王や敵
の心を変えられたので、彼らは主の民を憎み、主の僕たちを悪だくみをもって扱った。主は預言者を遣わし、大祭司を選んで遣わされた。彼らは人々に御言葉と
しるしを伝え、敵の地で奇跡を行い、御言葉に逆らわなかった。
主は闇を送って、その地を暗くされた。主が川の水を血に変えられたので、その川に住む者の命
は死んだ。主は重ねて預言者に語られた。『ゆるやかに流れるわたしの水を拒む者は、くずおれる。それゆえ、見よ、主は大河の激流を、彼らの上に襲いかから
せようとしている。激流はどの川床も満たし、至るところで堤防を越え、その地にみなぎり、首に達し、溢れ、押し流す。その広げた翼は、国土を覆い尽く
す。』
諸国の民よ、連合せよ、だがおののけ。遠い国々よ、共に耳を傾けよ。武装せよ、だがおののけ。武装せよ、だがおののけ。戦略を練るがよい、だが、挫
折する。決定するがよい、だが、実現することはない。神が彼らと共におられるのだから。」【続く】