宗教とは、宇宙を示す教えである。!
私も、物心ついたときは、なにかしら大きな存在があるはずだと、不確かな感覚を抱いていたように想う。しかし、勉学を進める内に、次第に近代合理主義に傾き、唯物的思考を占めていった。それが、科学的近代人のセンスであるかのように思いこんでいた。
『我想う。故に我あり。』の我とは何か。そんなことを考える以前に、我は存在し、存在していることが当たり前で、深く思いを致すことはなかっ
た。取り立てて、宗教なぞという概念も抱いた記憶はない。敢えて云うならば、先祖と葬式は祭るモノ。神様は氏神様。教義などはない。
そんな中にも、聖書は心地よい読み物。格言集、座右の銘。奇跡は昔の話。祝詞は音楽。お経は、意味不明ながらも耳障りではなかった。しかし、人前では宗教と政治は御法度にして、道理を拝借、講釈の補強にしか使ったことはなかった。
おそらく、極めて平均的な日本人の宗教意識ではなかろうかと想う。
ただ、時にこの広い宇宙、そして複雑なる人間関係、それを統べる法則がなくては、どうも居心地が悪い。そういう意識はあった。想えば、それが原点で宗教というモノに取り組み始めることとなる。
所詮は、抹香臭いのはまっぴらごめん、教条主義(ドグマ)もいや、偽善はもっときらい。と言うわけであるから、畢竟、法則としての観点で、いろいろ取り組んだ。
宗教という字は、ウ冠に示すと書いてある。ウ冠は宇宙という意味である。示すはしめす。つまり、宇宙の法則をしめす教えであると納得して、その解釈にはめっぽう気に入った。
爾来、いろいろ遍歴する中に、宗教は様々あって、その宇宙もピンからキリまであることを知った。云ってみれば、天動説と地動説が混在している。
そして、不思議なことに、その宗教に与する仲間内では、まるで批判精神が欠如しているのである。無論、私がいまさら、天道説の宗教にホイホイ従うわけがな
い。結局、あっちこっち、(失礼ないい方だが)尻を捲りながら考えた。ピンはいいのであるが、キリの多いことこの上ない。何故かくも宗教に、キリの宗教が
多く、人を迷わしているのであろうか。
普通、モノの評価には、人間そう大きな差というモノがないにもかかわらず、宗教となると無批判に追随してドツボにはまってしまうのか。そう
か、これは教えと称する詐欺である。人間の欲望につけ込み、教えをいいことに洗脳を目的としていると気づいたのである。栄養剤と称し、アヘンを売っている
ようなモノである。
もう一度、云わせて頂く。ピンはいいのである。しかし、数は至極少ない。そして、その類の宗教は、入り口は狭く、甘言はない。理と知が重んぜら
れる。そして、情に於いてこまやかで、無理がない。奇跡が表面に出ない。意思において完全に自由である。内省的であり、謙虚である。上下がなく同志的であ
る。一貫しており、ブレがない。阿(おもね)る(=へつらうこと)ことがなく、峻厳である。他力でなく、自己責任を軸にしている。なにより、個性を重ん
じ、没我を禁ずる。それであって、統一されている。即ち、大我において普遍性に富んでいる。慈悲であり、愛である。
それ以外は、ほとんどの場合、カルトであり、邪教である。そして、その目的は、人間の支配であり、奴隷化である。よほど注意しなければならない。それらは、サタン(悪魔)の仕業と考えても、殆ど良かろうと想う。