帰還
帰る道すがら、頼光は姫たちを諭(さと)した。
「京へ帰ったら、酒呑童子のことは話してはなりませぬ。まして酒呑童子を賛美することなどはもっての他ですぞ。酒呑童子はやはり鬼だったのです。酒呑童子を褒めることは貴女たちの父母を悲しませることにしかなりませぬ。あなたたちはこれから花も実もある人生なのですから。およろしいかな」
姫たちが敬愛する酒呑童子は、もうこの世にいない。帰るところは父母のところしかない。しかし姫たちは、酒呑童子のことは一生忘れないで心に秘めていくであろう。ふと、頼光は、池田中納言の娘を見やった。
姫は、酒呑童子のことを想(おも)って泣きはらし、目が腫れぼったくなっていた。それにしても、堀河中納言の姫のことはどう説明しようか頼光は窮した。酒呑童子の子まで身ごもって自刃したわけだが、本当のことを言っても、堀川中納言の姫は生き返ってこない。両親に話しても嘆くばかりであろう。頼光はそう考えて、公時の方を見た。公時が、堀川中納言の姫の髪を、懐紙におさめているのを見ていたからだった。
《公時がうまく説明してくれよう》
公時も、頼光に頼まれるまでもなく、そのつもりであった。それくらいのことは、むしろ自分からやりたいと思っていた。何かわからないが、一種の罪滅ぼしになるような気がしたのである。
大江山の麓の下村(しもむら)までくると、丹波の国司、大宮の大臣(おとど)という者が出迎えた。
大宮の大臣は、頼光たちが京へ帰って廟堂に、今の丹波の国司が酒呑童子のなすがままにさせていたと報告されると困ると思った。国司としての責任を問われないように、点数かせぎに、できるだけの接待を頼光たちにしようとした。
頼光たちは、飲食物を充分補給し、再び出発した。
京に近い『老い坂』まできたところで、廟堂からの使者が来た。
「どうかお待ちください。酒呑童子の首実検 をしたら、首をこの老い坂で葬れとの道長様の仰せでございます」
頼光はいささか憤慨した面持ちで、
「いかなる故(ゆえ)じゃ」
「はい、京に穢れを持ち込むことはならぬとかで・・・・・」
「これは酒呑童子の首なるぞ。敵方とはいえ、首領であった。丁重に葬らなければならないのではないか」
これは嘘である。頼光は酒呑童子の首を丁重に葬る気などさらさらない。
酒呑童子の首を持って行くことで手柄を印象づけたかっただけの話である。
「もう朝議で決定しましたので・・・・・」
「もうよい、わかった」
道長だけの一存ではなく、正式に朝議で決定したのであれば、これ以上、抗(あらが)うことは却って頼光に不利になる。命令に従って埋葬することにした。
酒呑童子の首を埋葬したところは、現在では『老いの坂の首塚』と呼ばれている。
池田中納言の娘は父母に会うとさすがに、泣きながら「母上様」と叫んで母親の胸の中に飛び込んでいった。池田中納言は頼光の手をとって、これ以上ないと思われるほど有り難がった。
京へ戻った翌日、頼光と保昌は、帝に報告をするために謁見することとなった。四天王は身分上、別の部屋に控えた。
一条帝は御簾(みす)越しに頼光に言った。
「ご苦労であった。池田中納言も喜んでおる。よく六人ばかりの者で酒呑童子を退治した。今後、頼光と保昌は昇殿を許す。他にも褒美をとらせよう。何なりと申せ」
頼光が口を開く。
「おそれながら、丹波国をご下賜(かし:高貴な方から物を貰うこと)されんことを」
頼光は抜け目がなかった。酒呑童子を自らが斬って大江山を陥落させたのだから、遠慮をしてみすみす他の者に渡すことはない。
鉄や交通の利権ばかりでなく、酒呑童子の財宝もそっくりそのまま残っている。すでに、部下の何人かは現地に残してきた。まして産鉄のうまみは父、源満仲から教えられて骨の髄まで知りつくしている。
もちろん、ある程度の利益は国庫に入るが、国司となって正直に収益全部を国庫に収める者などまずいない。利益は左大臣道長と頼光に充分流れ込むのであった。
帝は、頼光の望みを受け入れた。
「保昌はどうじゃ」
保昌は、畏(かしこ)まって押しだまっている。実際に酒呑童子退治にもそう目立つ働きはしなかったが、頼光と同格の身分であったので一緒について行っただけでも、四天王より褒美(ほうび)は大きい。
保昌がはっきりしないので、帝の御手ずから賜りの言葉があった。
「では、頼光が丹波なら、お前には丹後の大庄三ヶ所をとらそう」
「ははっ」
頼光は、これを聞いて内心、
《駆け引きの下手な奴だな。そんなことだから南家は北家に勝てないのだ。こんな時だ、もう少し欲を出せばよいのに・・・・》
藤原保昌は藤原南家の系統であった。保昌の祖父の代に、北家との権力闘争に敗れてから日の目をみない一門になってしまった。保昌は北家の道長に近づいて何とか勢力を保持していた。あまり目立つと排斥されるので持ち前の鷹揚(おうよう)さを隠れ蓑にして、世渡りをしていた。
頼光がそんな一種の優越感にひたっていた時、保昌が口ごもりながら帝に奏上(そうじょう:天子に申し上げる子と)した。
「恐れながら、もう一つだけ望みがございます」
保昌がそう言った時、冷水を浴びせられたように、頼光の顔色が変わった。
「何じゃ、何なりと申せ」
と、帝が少し驚いて言うと、
「和泉式部を賜りたく・・・・・」
文才歌才に恵まれ、書や管弦にも秀でた和泉式部・・・・。道長が娘の中宮彰子に箔をつけるために集めた女官の一人であり、すでに三十三歳になってはいたものの、いまだ美貌の才媛である。
その和泉式部を保昌が見初めた。
「左府がとりはからうであろう」
道長は笏(しゃく)を胸にあてて、腰を折って『承知』の礼をした。
頼光は胸をなでおろした。保昌が口を開いた時ひやりとしたが、何のことはない。所望したのは女一人だった。
《武人ともあろうものが、望みがたった一人の女とはあきれた・・・・》
だが、この保昌の無欲が実のところ、頼光との親交を長続きさせているのであった。
もし、保昌が頼光と同じような野心めいたものが、毫(ごう)程でもあったならば、頼光は保昌を遠ざけていたに違いないし、また道長との相談の中で、大江山討伐の人選にも加えていなかっただろう。
こうして、頼光は丹波守に、藤原保昌は丹後守に任じられた。保昌はさっそく和泉式部を娶(めと)り、翌年には丹後に赴任していった。
和泉式部は、最初の夫、橘道貞が和泉守だったところから離婚後でさえ、ずっと、「和泉」式部と名乗っていたが、道貞が死に藤原保昌に嫁いでからはさすがに和泉式部とは言えず、「大江家」の江の字をとって「江式部(ごうのしきぶ)」と名乗るようになった。
式部と最初の夫、橘道貞との間に生まれた子に小式部内侍(こしきぶのないし)がいる。歌詠みの才の誉れ高い和泉式部に劣らず、やはり蛙の子は蛙か、和歌を詠む才能に富んでいた。
和泉式部が丹後にいるころ、この小式部にちょっとした出来事があった。
藤原公任(ふじわらのきんとう)の嫡男、定頼(さだより)が小式部の局を通りすぎる時に、「丹後につかわしける人はまいりたるにや」と、言ってひやかした。丹後にいる和泉式部に代筆を頼んでいるのではないかとからかったのである。
それに対し、
大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ず天の橋立
と、応酬したことは有名である。
そんな、小式部内侍も早逝する。和泉式部は世の無常観を、ひしひしと感じた。おのずと和泉式部は丹後の海を思い出すのであった。
《いったい何本の松があるのでしょう》
天の橋立の松並木の生えた砂嘴と背後に広がる大海原を思い出してはその無常観を癒すのであった。
「もう一度、丹後の海を見たい」
それが、晩年の和泉式部の口癖になった。
頼光は丹波守を経て、長保三年(1004年)に五十七歳で美濃守に転じた。同じ年に、頼光は娘を道長の異母弟の道綱大納言に嫁がせ、摂関家とますます密接な関係となり、勢力を確固たるものにしていった。
一世一代の運命の賭として酒呑童子退治をした頼光も治安元年(1021年)7月19日、摂津守を最後に七十四歳で生涯を閉じる。
頼光は、人には明かしてはいないが、酒呑童子の命日には、必ず『老い坂』の首塚まで行って手を合わせていた。道長は頼光が死去した6年後に落命した。それ以後、栄華をきわめた藤原氏は衰退へ向かっていった。
頼光なきあとは、源氏の主導権は弟の頼信に移った。頼信は平忠常の乱を平定することにより、その系統を栄えさせる。その系統から出た頼義・義家が前九年・後三年で活躍し、さらに、義朝・頼朝を輩出して源氏が貴族社会に変わって本格的な武家社会を築いていったのである。
時移り事(こと)去って、酒呑童子退治の話は、時の権勢を恐れて、酒呑童子は世にも恐ろしい鬼として語り継がれていくのであった。
(完)
エピローグ
「酒呑童子」と言えば、恐ろしい鬼で人をさらっては、食べている鬼神として「昔話」として伝えられていました。しかし、考えてみれば、この世に「鬼」などいるはずもなく、天下国家に従わぬ、反逆児であったことが分かります。
「鬼」即ち「悪」として語り継がれてきたものが、実は「正義」だったのではないのか?強いものが「正義」で弱いものが「悪」とされることは、決して許されては成りません。「酒呑童子」の「正義」が「頼光たち」の嘘で固めた謀略の前に敗れていったことは、闇に葬られ、「鬼退治」の物語として後世に伝えられたのです。
用語解説へ(つづく)