日常使用される仏教用語
愛嬌(あいきょう)
本来「愛敬(あいぎょう・あいぎゃう)」で、慈しみ敬う意味の仏教用語であった。
足を洗う(あしをあらう)
裸足で修行に歩いた僧は寺に帰り、泥足を洗うことで俗界の煩悩を洗い清めて仏業に入ったことから、悪い行いをやめる意味に転じた。
縁起(えんぎ)
釈尊の悟りの内容で、「縁(ゆか)りて起こる」というものがあります。因果律のことです。
億劫(おっくう)
めんどうくさくて気の進まぬことをよく「おっくう」といいますが、これは仏教語の億劫(おっこう)がなまったものです。
隠密(おんみつ)
仏教では、仏の教えの本旨が表面に出ないで、言説の裏に内深く隠されていることをいいます。
開発(かいはつ)
その開発は、仏教語としては「カイホツ」と読み、他人を悟らせること、自らの仏性をうち開くことをいいます。人間には誰でも仏になるタネがあり、それを開き明らかにすることをいうのです。
餓鬼(がき)
俗に、生前に贅沢をした者が餓鬼道に落ちるとされている。ただし仏教の立場から正確にいえば、生前において強欲で嫉妬深く、物惜しく、常に貪りの心や行為をした人が死んで生まれ変わる世界とされる。
覚悟(かくご)
覚悟は、真理を〈さとる〉、真理に〈目覚める〉ことを意味する。覚も悟も同じく〈さとる〉ことだが、覚は不覚に、悟は迷に対して用いる
学生(がくせい)
仏教では、学生は「ガクショウ」と読み、学匠とも書きます。もとは寺院に寄寓し、仏教以外の学問を学ぶ者に名づけられたようですが、日本仏教では、仏教を学ぶ者に用いています。
結集(けっしゅう)
仏教用語では(けつじゅう)です。
釈尊が亡くなったあとに弟子達が集まって、釈尊の教えをまとめた会議のことを言います。
四苦八苦(しくはっく)
ももとは仏教用語です。四聖諦といわれるものの一つ、苦しみの心理である生・病・老・死の四苦と愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊皆苦の四苦をあわせて四苦八苦といいます。
娑婆(しゃば)
娑婆とはインドの語「サハー」の音訳で、堪え忍ぶ土地という意味です。現実は苦しみや悩みが満ちていて、人はそれを堪え忍んでいるところから、現実の世界のことを指しています。
舎利(しゃり)
「舎利」はインド語の「シャリーラ」を音写した言葉です。シャリーラとは、もともと身体を意味する語ですが、やがて、遺骨、特に聖者の遺骨を意味する言葉になりました。お釈迦さまの遺骨を仏舎利といいます。現在、すし屋などで、白い米飯のことを、俗に「シャリ」と呼んでいるのは、銀飯の艶やかな色や形が、仏舎利に似ているところからきたといいます。
出世(しゅっせ)
仏教用語で「俗世間の煩悩(ぼんのう)を解脱(げだつ)し悟りを得ること」を意味する「出世間(しゅっせけん)」が略された言葉である。
仏教の世界に入ることも「出世」と言い、僧侶のことを「出世者(しゅっせしゃ)」と呼んでいる。
刹那(せつな)
全ての存在は一瞬一瞬に生じては滅し、滅しては生じていることを「刹那消滅」といい、そこから来ています。ちなみに「刹那」は時間の最小単位を表し、一刹那は0.013秒です。
煩悩(ぼんのう)
前記の「縁起」に関して、「十二支縁起」という苦悩の12の解決法みたいなものがあるのですが、そのうちの一つ「惑」というものが一般に「煩悩」と呼ばれます。
老婆心(ろうばしん)
「老婆心」とは〈老婆心切〉とか〈親切心〉とかいって、老婆が子供や孫を愛撫(あいぶ)し、いつくしむように、師匠が修行者に対して、あたたかく導くこと。その心が深く厚いことを意味する仏教語だったのです。
そろそろ、飽きてきたとおもいますので「老婆心」ながら、お仕舞いとします。
したっけ。