さて、コーヒーを飲みながら、テレビをつける。リモコンでチャンネルを変える。アナウンサーがニュースを語っている。そのチャンネルでニュースを聞く。この場合、なぜ、私はこのニュースのチャンネルを選んだのか?
ニュースが聞きたかったから? いや、今の場合、それほどの積極性はなかった。コーヒーを飲む間、目と耳が暇だったからテレビをつけたのでしょう。アナウンサーの声が気に入ったから? そうかもしれない。私が、このニュースのチャンネルを選んだ理由を自分で憶測してみると、私はそのアナウンサーの声が気に入ったからなのかもしれない。しかしその証拠はない。そういう自覚の記憶はない。もしそうだとしても、なぜそうであるのか、私には分かりません。身体がそう動いた、というしかない。
さて、そのニュースで言っている政権交代の組閣で任命されたという新大臣について、私はその名前を聞いたことがあるけれども、どんな人か、ほとんど知らない。その人がどういう人なのか、実はたいして興味もない。しかし友人と会話するとき、その大臣が話題になるかもしれない。皆が興味を持っている人物について何も知らないと話を聞いていてもつまらないかもしれない。それは、すこしいやだな。では、インターネットで調べておくか、と思う。そして、私はパソコンを叩いて検索する。
なぜ、私は検索したのか?
私の内部でどういうことが起こって検索という行動が開始されたのか?
その過程を調べてみましょう。
まずテレビのニュースで新大臣の名前を聞いた。聞いたことがある政治家だけれどよく知らない。名前は新聞で見たような気がする。それ以外、ほとんど何も知らない。しかし、人と世間話をするとき、あまりにも知らないとつまらないな。ちょっと調べておくか、と考えが発展したわけです。
そのときは、そこにあるパソコンで検索できることを、私は知っている。だから、調べようという気になる。すぐ調べられる手段があるから、調べようと思うのです。大臣の名前を検索しようと思うと同時に、パソコンのインターネットアイコンをチラッと見ている。指がキーボードを打つ構えをしている。「検索」という言葉が頭の中を走ったかどうか分からない。「検索する」という言葉が浮かぶ以前にグーグルのアイコンをクリックしている。
これらの運動準備動作は、その運動概念である「検索する」という言葉を思い浮かべると同時か、あるいは準備動作が先かもしれない。「Yをする」という言葉を思い浮かべるよりも先に、身体がYをする準備動作に入っている。私たちの身体はそう作られているようです。この見方を素直に整理すれば、「Yをする」という言葉を思い浮かべるということは身体がYをする準備動作に入っているということである、といえる(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」)。
重要なことは、この、「Yをする」という動作の主体は、私でもよいが私に限らない。他人、仲間などだれでもよい。人間であればだれでもよい。さらに人間に限られない。いちおう人間のような動きをするように思えるものである必要がありますが、擬人化を使えば、動物、無生物、抽象概念などでもよい。実際、私たちが毎日作り出す言葉の多くは、擬人化による比喩で作られている。
身体がYをする準備動作に入っている、という場合の、「Yをする」という運動準備は、主体を決める必要がない。このとき、たまたま私たちの身体がYをするXというものに運動共鳴していると、そのXが主体ということになる。そのとき言葉を発すると「XがYをする」という言葉ができてくる。私たちの身体の中に、まず「Yをする」という運動(仮想運動)ができてきて、次にそのYをする主体として注目しているXがはっきりしてくるという順番でしょう。
たとえば、「日本経済は緩やかに回復する」という言葉の使い方の場合、「回復する」という動作の主体は「日本経済」という抽象概念です。そしてこの場合、言葉の話し手も聞き手も(拙稿の見解によれば)、同じように脳内の運動形成回路の上で、自分の身体がダメージから回復して立ち上がるときの準備動作を仮想運動として実行している。そしてこのとき、回復する主体として日本経済がイメージされている。日本経済が回復という動作を起こしていて、それにこの身体が運動共鳴を起こしている。
逆に言えば、この場合、日本経済という抽象概念のイメージは「回復する」という動作を起こして私たちの身体を共鳴させる主体として私たちの脳内に登場している。こういう場合に限り、「日本経済は緩やかに回復する」という言葉ができてくる。
私たちが、そこに何があるとか、何かが変化しているとかを感知するときは、(拙稿の見解では)まずその対象(たとえば日本経済)に私たちの身体が無意識のうちに運動共鳴して身体運動の準備を起こしている。運動形成神経回路のその活動を感知して私たちの身体の感情機構が反応し、その活動を記憶する。この過程は無意識で行われて、意識では自覚できず記憶もできません。私たちの主観としては、ただその対象(たとえば日本経済)がそこにあるとか、こう変化しているとか、感じるだけです。
テレビに国会議事堂が写る。テレビカメラがズームアップする。私たちは自分が国会議事堂を注目しているような気になってしまう。自分が「国会議事堂がね」と言っているような気になってしまうのです。「いま国会議事堂に注目しているのはテレビのカメラマンであって私ではない」などと、むきになって思う人はあまりいない。
こういう場合と、実際に自分がカメラを構えて国会議事堂をズームアップしているときとでは、どう違うのか? あまり違わないのではないか。というよりも、拙稿の見解によれば、全然違いません。私たちはテレビカメラに運動共鳴を起こしている。国会議事堂に注目しているのは、テレビカメラであると同時に、私の身体です。
こういう仕組みが私たちの身体に備わっているから、私たちはテレビを楽しむことができる。テレビばかりでなく、私たちは同じこの仕組みで、映画も楽しめるし、演劇も、ミュージカルも、ニュースも、人生も楽しめるのです。