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哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(3)

2009-11-01 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

さて、コーヒーを飲みながら、テレビをつける。リモコンでチャンネルを変える。アナウンサーがニュースを語っている。そのチャンネルでニュースを聞く。この場合、なぜ、私はこのニュースのチャンネルを選んだのか? 

ニュースが聞きたかったから? いや、今の場合、それほどの積極性はなかった。コーヒーを飲む間、目と耳が暇だったからテレビをつけたのでしょう。アナウンサーの声が気に入ったから? そうかもしれない。私が、このニュースのチャンネルを選んだ理由を自分で憶測してみると、私はそのアナウンサーの声が気に入ったからなのかもしれない。しかしその証拠はない。そういう自覚の記憶はない。もしそうだとしても、なぜそうであるのか、私には分かりません。身体がそう動いた、というしかない。

さて、そのニュースで言っている政権交代の組閣で任命されたという新大臣について、私はその名前を聞いたことがあるけれども、どんな人か、ほとんど知らない。その人がどういう人なのか、実はたいして興味もない。しかし友人と会話するとき、その大臣が話題になるかもしれない。皆が興味を持っている人物について何も知らないと話を聞いていてもつまらないかもしれない。それは、すこしいやだな。では、インターネットで調べておくか、と思う。そして、私はパソコンを叩いて検索する。

なぜ、私は検索したのか?

私の内部でどういうことが起こって検索という行動が開始されたのか?

その過程を調べてみましょう。

まずテレビのニュースで新大臣の名前を聞いた。聞いたことがある政治家だけれどよく知らない。名前は新聞で見たような気がする。それ以外、ほとんど何も知らない。しかし、人と世間話をするとき、あまりにも知らないとつまらないな。ちょっと調べておくか、と考えが発展したわけです。

そのときは、そこにあるパソコンで検索できることを、私は知っている。だから、調べようという気になる。すぐ調べられる手段があるから、調べようと思うのです。大臣の名前を検索しようと思うと同時に、パソコンのインターネットアイコンをチラッと見ている。指がキーボードを打つ構えをしている。「検索」という言葉が頭の中を走ったかどうか分からない。「検索する」という言葉が浮かぶ以前にグーグルのアイコンをクリックしている。

これらの運動準備動作は、その運動概念である「検索する」という言葉を思い浮かべると同時か、あるいは準備動作が先かもしれない。「Yをする」という言葉を思い浮かべるよりも先に、身体がYをする準備動作に入っている。私たちの身体はそう作られているようです。この見方を素直に整理すれば、「Yをする」という言葉を思い浮かべるということは身体がYをする準備動作に入っているということである、といえる拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」

重要なことは、この、「Yをする」という動作の主体は、私でもよいが私に限らない。他人、仲間などだれでもよい。人間であればだれでもよい。さらに人間に限られない。いちおう人間のような動きをするように思えるものである必要がありますが、擬人化を使えば、動物、無生物、抽象概念などでもよい。実際、私たちが毎日作り出す言葉の多くは、擬人化による比喩で作られている。

身体がYをする準備動作に入っている、という場合の、「Yをする」という運動準備は、主体を決める必要がない。このとき、たまたま私たちの身体がYをするXというものに運動共鳴していると、そのXが主体ということになる。そのとき言葉を発すると「XがYをする」という言葉ができてくる。私たちの身体の中に、まず「Yをする」という運動(仮想運動)ができてきて、次にそのYをする主体として注目しているXがはっきりしてくるという順番でしょう。

たとえば、「日本経済は緩やかに回復する」という言葉の使い方の場合、「回復する」という動作の主体は「日本経済」という抽象概念です。そしてこの場合、言葉の話し手も聞き手も(拙稿の見解によれば)、同じように脳内の運動形成回路の上で、自分の身体がダメージから回復して立ち上がるときの準備動作を仮想運動として実行している。そしてこのとき、回復する主体として日本経済がイメージされている。日本経済が回復という動作を起こしていて、それにこの身体が運動共鳴を起こしている。

逆に言えば、この場合、日本経済という抽象概念のイメージは「回復する」という動作を起こして私たちの身体を共鳴させる主体として私たちの脳内に登場している。こういう場合に限り、「日本経済は緩やかに回復する」という言葉ができてくる。

私たちが、そこに何があるとか、何かが変化しているとかを感知するときは、(拙稿の見解では)まずその対象(たとえば日本経済)に私たちの身体が無意識のうちに運動共鳴して身体運動の準備を起こしている。運動形成神経回路のその活動を感知して私たちの身体の感情機構が反応し、その活動を記憶する。この過程は無意識で行われて、意識では自覚できず記憶もできません。私たちの主観としては、ただその対象(たとえば日本経済)がそこにあるとか、こう変化しているとか、感じるだけです。

テレビに国会議事堂が写る。テレビカメラがズームアップする。私たちは自分が国会議事堂を注目しているような気になってしまう。自分が「国会議事堂がね」と言っているような気になってしまうのです。「いま国会議事堂に注目しているのはテレビのカメラマンであって私ではない」などと、むきになって思う人はあまりいない。

こういう場合と、実際に自分がカメラを構えて国会議事堂をズームアップしているときとでは、どう違うのか? あまり違わないのではないか。というよりも、拙稿の見解によれば、全然違いません。私たちはテレビカメラに運動共鳴を起こしている。国会議事堂に注目しているのは、テレビカメラであると同時に、私の身体です。

こういう仕組みが私たちの身体に備わっているから、私たちはテレビを楽しむことができる。テレビばかりでなく、私たちは同じこの仕組みで、映画も楽しめるし、演劇も、ミュージカルも、ニュースも、人生も楽しめるのです。

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私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(2)

2009-10-24 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

もしそうでないとすれば、身体内外の環境や過去の経験記憶だけではなく、なにか現在の私自身に固有の気持ちや考えというものがまずあって、それが私の行動を引き起こしている、ということになる。どちらが正しいのか?いや、どちらが正しいかという問題ではなくて、これはものの見方の違いなのかもしれない。

もしそれが、ものの見方の違いであるならば、拙稿としては簡単に分かりやすいほうに理論を作ってみたい(こういう考え方を哲学では「オッカムのかみそり」などという)。自動的に身体は動く、とするほうが、私自身に固有の気持ち、という概念は使わないですむので理論は簡単になる。たしかに私たちの直感では、私自身に固有の気持ちや考え、というものがあるような気もしますが、その問題は後で考えることにして、ここでは仮に、そういうものはない、として話を進めてみましょう。

拙稿がこれから使おうとしている仮説によれば、私が私の気持ちや私の考えだと思っているものは、身体周辺の環境から受ける視覚、聴覚、嗅覚など五感のほか身体内部から感じ取る体性感覚、内臓感覚などからくる信号を受け取り、それらに対応して記憶として保存されている過去の学習経験やシミュレーションが再生され、それらから自分の身体の現在の状態を推定し、またこれからの動きを予測して、それを自分の気持ちとして受け取っているものである、となります。

朝起きると眠い。身体がだるい。夕べ夜更かしが過ぎた。ベッドから出たくない。この気持ち。この怠惰な気持ちはどこから来るのか?

やはりこれは身体が眠っているからでしょう。身体が眠っているのに、予定時間にあわせて起きだしててきぱきと動こうとするとこうなる。心では、早く身支度しなくては、と思っていても着替える気分にならない。身体が抵抗している。自律神経系が眠っているわけです。

こういう場面、私の気持ちは私の身体の状態から来ている、と分かる。

すこしでも眼を覚ますために、コーヒーを沸かして飲む。私はコーヒーを飲みたいから豆をひいてコーヒーを沸かすのでしょう。別にコーヒーを沸かさずに、冷蔵庫からアイスティーを出して飲んでもいいわけですが、なぜか、今朝の私はコーヒーを沸かしている。なぜかな?

私の身体が熱いコーヒーを欲しているらしい。その証拠に、一口含んだとき、思わず「おいしい」とつぶやいてしまった。特にこの淹れたての、スターバックスのエスプレッソはおいしい。しかし、いまなぜそれがおいしいのか? そこは答えられない。身体がそれをおいしいと感じるから、というだけ。

他人がこの私を見ていたら、どう思うか? 朝は忙しいのにわざわざ豆をひいてコーヒーを沸かしている。一口飲んで「おいしい」とつぶやいてにやりと笑う。こいつはよほどコーヒーが飲みたかったらしい、と思いますね。このことは、自分で自分を観察しても同じでしょう。私はよほどコーヒーが飲みたかったらしい、と自分自身、思う。

コーヒーを飲みたかったからコーヒーを沸かしたのか? それとも、コーヒーを沸かしたからコーヒーを飲みたかったのだと思ったのか?

起き上がってもまだ眠い。そういう状況で、身体が反射的に動いていつのまにかコーヒーを沸かそうとしている。朝の状況では、よくあることです。家族はまだ起きてこないし、毎朝している同じことの繰り返しだし、という状況だと、こういう行動はほとんど無意識で行われている。こういう場合、私は、コーヒーを飲みたかったからコーヒーを沸かしたのか? それとも、コーヒーを沸かしたからコーヒーを飲みたかったのだと思ったのか? という問題です。

拙稿で採用している先の仮説によれば、私が私の気持ちだと思っているものは、自分で自分の身体の動きに関する情報を感じ取って、その情報からその心を推定して分かるものである。そうであるとすれば、私は、コーヒーを沸かした自分の身体の動きを感じ取って、そこから自分というこの人間はコーヒーを飲みたかったのだと推定したわけです。つまり、他人がコーヒーを沸かして飲もうとしているのを私が見て、その情報からその人はコーヒーを飲みたいのだと私が思うのと同じ仕組みで、私は自分という人間の気持ちを推定する、ということです。

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私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(1)

2009-10-17 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

(21 私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?  begin) 

 21 私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?

飛騨の山奥にキコリがいました。オノで木を切っていると、黒い毛むくじゃらのサルのようなケモノがこちらをうかがっています。キコリは、襲ってくるかもしれない、と思いました。するとケモノは言葉をしゃべって、「襲ってくるかもしれない、と思ったな」と言いました。キコリは化け物が出たと思って、逃げ出したくなりました。するとケモノは「化け物が出た、逃げ出したい、と思ったな」と言います。キコリは、あまりの不気味さに何も考えられなくなって、意味もなくオノを振るって木に切りつけました。オノは節目に当たって、木の破片が飛び出し、ケモノの顔に当たりました。ケモノは「思わぬことをするやつは怖い」と言って、逃げていったそうです。サトリという化け物の話です。

私の気持ちが、筒抜けだったら気味が悪い。

だれにも知られたくないこの気持ち。

そう。しょせん私の気持ちは私にしか分からないもの。

と、私たちはいつも思っている。

だが、と考えてみましょう。私はなぜ自分の気持ちが分かるのか? そして私はなぜ他人の気持ちが分からないのか? 

私はなぜ、他人の気持ちが分からないのに自分の気持ちは分かると思うのか?

この、私が私の気持ちだと思っているこれは、本当に私の気持ちなのか? まさか他の人の気持ちじゃないですよね。他の人の気持ちは私に分かるはずがないから、これは私の気持ちに違いない。しかし、なぜ私は、他の人の気持ちが分からないのか? 

そんなことはあたりまえだろう、と読者はお思いになるでしょう。自分で自分の気持ちが分かるのはあたりまえ。他人の気持ちが分からないのもあたりまえでしょう。それはまさにそのとおりなのですが、なぜそうなのか、その理由は? と問われると、私たちはうまく答えられない。科学者は答えられるのか? 答えられません。心理学者は答えられるのか? 答えられません。哲学者なら答えられるのか? ぜんぜん答えられません。

私たちは、自分の気持ちというものが分かる。当然のことです。ですが、ここでは、仮にそこから疑ってかかってみましょう。

私たちは、本当に自分の気持ちが分かっているのか? 気持ちが分かるということは、いったいどういうことなのか? という疑問を、拙稿本章では、考えてみたいと思います

自分で自分の気持ちを見つめることを、心理学や哲学などの言葉では、内観といいます。その、内観とは何か、と正面から質問されると、実は、心理学でも哲学でも、明快な答えはできません。実際、内観というものが存在するか否か、は現代哲学の論争になっています(二〇〇九年 ピーター・カルーサーズ『私たちはどのようにして自分の心を知るのか:読心法とメタ認知との関係)。内観は存在しないという理論によれば、人間は他人を外部から観察してその心を推測する(心の理論を使う)場合と同様の仕組みを使って、自分の心というものを観察して自分が何を考えているのかを推測している、ということになります。

昼食にネギラーメンを選んだのは、本当にそれをモヤシラーメンより食べたかったからなのか?それとも、メニューの中で、「ネギラーメン」という文字が「モヤシラーメン」という文字よりも目立つ場所に書いてあったからだけなのか?

その「ネギラーメン」という文字が、たまたま目玉のふらつきによって、はじめに眼に入ってきて、つい読んでしまったからではないのか?読んでしまったので「ネギラーメン」とつぶやいてしまったからではないのか?「ネギラーメン」とつぶやいた拍子につい「おいしそうだな」と付け足してつぶやいてしまったからではないのか?

私はネギラーメンが食べたい、と思い込んでいるのは、もしかしたら、自分の考えではない別の理由でついネギラーメンを選んでしまったからそう思い込んでいるだけなのではないだろうか? 大学を選ぶときも、就職先を選ぶときも、マンションを選ぶときも、手術を受ける病院を選ぶときも、そういうものなのかもしれない。

そうだとすると、自分の考えとか自分の気持ち、とかいうものは、いったい何なのだろうか? そんなものは実は存在しないのではないだろうか?という疑問が出てきます。

心理学の実験によれば、似たような見掛けの(実は同一商品の)四足のストッキングを並べられて、好きなものを選ばせられると、被験者は右手に近いところに置かれたものをとる傾向が強い。しかし、それを選んだ理由を問われた被験者の答えは、全員が、自分の好みを選んだ、というものになる。被験者は「こちらのほうがソフトな感じで好きなのよ」などと答えるのです(一九七七年 リチャード・ニスベット、ティモシー・ドカン・ウィルソン『分からないことまでしゃべってしまう』)。

そして私たちは、いったん自分で口にしてしまうと、それが自分の考えだと信じて疑わない。それはしかし、私たちが、「自分の口がそれをしゃべったということは、自分がそれを考えたからに違いない」と思い込んでいるからかもしれない。人間にはどうもそういう傾向がある。シュプレヒコールとか、軍隊の命令復唱とか、そういう原理を利用したものでしょう。

人間は考えてから考えたとおりに動く、と私たちは思っています。コーヒーを飲もうと思ってコーヒーを飲む。ミルクを飲もうと思って、ミルクを飲む。あたりまえですね。

では、生まれたばかりの赤ちゃんはミルクを飲もうと思ってお母さんのおっぱいに吸いついているのか? どうも赤ちゃんは自分がミルクを飲もうとは思っていないようです。赤ちゃんは何も思わず、ただおっぱいに吸いついている。

人間以外の動物を観察すると、その動きは考えて動いているようには見えない。子牛は母牛の乳房から牛乳を飲もうと考えて乳房を吸うのか? 蝶々は、蜜を吸おうと考えて花にとまるのか? インフルエンザウイルスは増殖しようと考えて人体に侵入するのか? どうもそうではない。自動的にそう動くように生物の身体が作られているだけでしょう。

人間だけがコーヒーを飲もうと思ってコーヒーを飲む。どうもおかしいですね。

人間の動きも、ほかの生物と同じように、身体が自動的にそう動くように作られているからそう動くのではないか? すくなくとも、そうだとするほうが話は簡単です。拙稿本章では、いちおう、この考え方を仮説として採用してみます。私たちの行動は、私たちの身体の具合だとか身体内部の状態、過去の記憶、それと、いい匂いがするとかいう身のまわりの環境からくる感覚だけで無意識に機械的に決まってしまう。 そのたびに少し違う行動をとったとしても、それは機械的なゆらぎのようなものにすぎない。とりあえず、そういうことだとしましょう。 

そして、そうして機械的自動的に決まった自分の行動を見て、私たちは、後から理由をつけて自分で決めたことにしているのである、としましょう。 

もしそうであるとすれば、私が自分の気持ちだと思っているものは何なのだろうか?

自分の気持ちというものは、私たちの身体がどう動くかを自分で観察することから逆にさかのぼってその原因として想像されるもの、ということになる。あるいは、身体が動く前であっても、これからどう動いていきそうか、というシミュレーションから来る予測を使って、その原因となりそうな気持ちを想像して、それを私たち自身の気持ち、と思い込む。

その気持ちをその行動を起こす原因となる欲望、意志あるいは意図と思い込む。そういう仕組みが私たちの脳には備わっていることになる(拙稿10章「欲望はなぜあるのか?」)。

逆に言えば、欲望、意志あるいは意図といわれるものは、そういう仕組みで現れてくる錯覚の一種である。先ほど仮に設けた拙稿本章の仮説を進めれば、そういうことになる。

しかしさて、本当に、そうなのでしょうか?

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