昨日の「日本語教師養成講座」で、漢字を使わない文章でも充分通用すると提唱している学者の話を聞きました。
最も、すべての漢字を排除するのではなく、「送り仮名のつく漢字だけ」という条件付きではありますが。
例えるなら、こんな感じです。
「今日の夕方、午後6時発車の電車に乗りました。」→「今日の夕方、午後6時発車の電車にのりました。」
「手紙を出すために、郵便局へ行きました。」→「手紙をだすために、郵便局へいきました。」
『乗りました』が『のりました』、『出す・行く』が『だす、いく』になったところで、たいして読解に困らないから、送り仮名なんて面倒なことを考えなくても良いように、送り仮名が必要な漢字なんてなくしてもいいんじゃないか、という発想から来ているらしいのですが、この発想がスタンダードになったとしたら、私はちょっと困ります。
なぜなら…
「あなたに会いたい」
「あなたに逢いたい」
どちらも平仮名にすれば「あいたい」になるのですが、私の中でこの両者はニュアンスが違います。
「会いたい」の場合、「会う」ことを遮るものは時間とか距離などの物理的なもの。
その一方「逢いたい」の場合は、自分の力や努力でどうにかなるものではない、何かしら運命のようなシチュエーションを想像してしまいます。
つまり、私にとって「会いたい」という感情は「会いたい」であり、
「逢いたい」という感情は、「会いたい」とは別に存在するものであり、
「あいたい」という音でまとめていいものではなかったりするのです。
私は歌詞を書く時に、明確にそのあたりを使い分けます。
アマチュアバンドでうたっていると、リスナーに歌詞を文字で見せることは殆どないので、そんなこだわりはどうでもいいのかもしれないのですが、
私は「会いたい」というつもりで歌うのと、「逢いたい」というつもりで歌うのとでは、微妙に表現に差が出ると信じて疑わないので、
自分が歌詞を書きながら、視覚的に表現を確認するためにも、同音の漢字の使い分けには妙にこだわったりします。
こういう「文字表記」から受けるニュアンスの違いの妙も含めて、私は日本語が好きです。
漢字も送り仮名も面倒って言えば面倒だけど、そこに「意味」を感じることができたら、それらも大切に思えるような気がします。