お仕事用blog「鉛筆と消しゴム」の方では以前に触れましたが、今月28日から日本語教師養成講座に通うことになりました。
「日本語教師」とは、外国人に日本語を教える人です。
今後、自分の仕事やライフワークの中で外国人に関わることが増えるため、自分の志向を活かしてそういう人達に何かできないだろうかと考えた時に、「日本語教師」というひとつの選択肢があったという感じです。
今日は講座の開講に先がけて「体験講座」なるものがあり、それに参加してきました。
内容は「社会言語学」。講師は韓国人の文先生。
「韓国人の先生に日本語を教えられるって、どうよ?」と思ったのですが、1時間半の体験講座は衝撃の連続でした。
文先生の発する質問に答えられないのです。
「なぜあなたは『中村』さんなの?」
「『食べられる』が『食べれる』と略されるようになったのはなぜ?」
「『大和』と書いて『ヤマト』と読むのはなぜ?」
「日本人は曖昧だと言われるのはなぜ?」
日本語に関する質問なのに、日本人の私が答えられない。
頭の中が「???」だらけになり始めた時、別の参加者の人がこういいました。
「私の名字は昔から決まっていることなので、なぜと聞かれても理由はありません。」
それに対して、文先生はこう言いました。
「理由はないとか、昔から決まっていることだとか、そういう説明の仕方が日本語教師として一番やっちゃいけないことです。」
その後文先生の仰った言葉が、日本語教師としての立場や役割を的確に表していました。
「日本語のルールを知るだけなら教科書を読めばいい。生徒が先生に期待するのはルールの裏側にある理由を説明してもらうこと。日本語には歴史や文化を背景とした理由や成り立ちが存在している。それを教師が知っていること、それを伝えられることがとても大事。それがわかれば生徒は納得する。」
かつて日本では、名字を持つのは一部の位の高い人達だけでした。しかし明治維新直後に「平民名字許可令」が出て、国民はみな名字を持つようになったのです。その時、私の祖先の家は村のちょうど真ん中あたりにあったらしいです。なので名字をどうしようかと考えた時に、「村の真ん中にある家」ということにちなんで『中村』と決めました。私の名前である「中村」は「Center of Village」という意味なんです。
英語には「Yes」と「No」しかありません。それは「私の言っていることが絶対だ」とか「この答え以外は認めない」という自己主張の表れです。しかし、日本の文化は「相手を慮る」とう文化です。人それぞれに感じ方や考え方があるから、自分から「こうだ」と断定することは避けよう。そんな日本人の気質が「~だと思います」という表現になるのです。日本人は単に曖昧なだけではないのです。「あなたは間違っている」とも「私が正しい」とも言わず、「私はこう思います」と言うことで、相手に考えるチャンスを与えているとも言えます。
文先生にそう説明されると、なるほどと納得する部分が多々ありました。
「文化も歴史も違う外国人に日本語を教えるということは、みなさん自身が日本語を『国語』ではなく『日本語という言語』という感性で捉えることがとても大切です。」
いやぁ、目が覚めた気分でした。
「国語教師」ではなく「日本語教師」である理由は何なのか?その本質的な部分を今日の体験講座で垣間みた気がしました。
「日本に10年、20年住んでいても、日本語を話せない人もいる。それは、日本語がとっても難しい言語だから。なぜなら、日本の文化を理解しないと本当の日本語は理解できないのですよ。」
そんな文先生の言葉に、日本人なのに日本語を理解していない自分を見せられて、非常にショックでした。
日本人だからこそ、日本語をフィーリングで解釈していることが多い。
ホントに日本語を理解するためには、「日本語という外国語」という視点が必要なようです。