goo blog サービス終了のお知らせ 

月齢進行表

~aki's diary~

デッドエンドの思い出

2006-08-30 00:49:21 | 読書
Bananaとても久しぶりに、吉本ばななさんの小説を読んだ。
小説の内容もよかったけど、「あとがき」に吉本ばななさんが書いたコメントにとても共感した。

『私はこの小説が、これまで書いた中でいちばん好きです。これが書けたので、小説家になってよかったと思いました。』

私は、自分で書いた詞が好きだ。
ライブや練習でうたいながら、日常生活の中でふっと思い出しながら、「あぁ、この歌詞、好きだなぁ。」と思ったりする。
そんな時、「あぁ、詞を書いていてよかったなぁ」と思う。
他人の評価や評判が良ければ、なお「よかった」と思うのだけれど、それ以前に「自分が好きかどうか」がその作品にどれだけ愛着を持てるかに大きく影響している。

吉本さんは、この小説を『過去のつらかったことを(出産を前にして)あわてて精算しようとして書いた』とか『自分自身の身に起きたことを書いていないけれど、これまで書いた中でいちばん私小説的なもの』とも言っている。
ストーリーが実際にあったことなのか、とか、登場人物が実在の人なのか、ということより、そこに書かれている心情が、飾り立てたり偽ったりせず、本当の気持ちで書けているかどうかが、自分で自分の作品を「好き」と言える(または言い続けることができる)ことに繋がるのかなぁ、と、思う。
自画自賛といえばそれまでなんだけれど、「自分の作品に癒される」というのが、人として最も高貴なことなんだと、昨年旅先で会った木工芸術家の人が言っていた。

小説の中で『悲しいと、感受性が研ぎすまされる』という文章があった。なるほど、思い当たるものがあるなぁ、と思う。
悲しいことがあった時は、誰かの小さな気遣いにすごく感動したり、些細なことに動揺したりする。そういう時は自然と詩的になったりする。そういう時に、そういう気持ちと向き合って作品に残すというのは、どこか自虐的なんだけれど、実はそれが悲しみに対する自然治癒力になっているのかもしれない。

「自分の作品が好きか?」は「自分にちゃんと向き合っているか」とか「自分のことが好きか」と聞かれていることと同じ意味なんだろうな、結局。

最近、歌詞を書いていない。鍵盤にも触っていない。
あまり自分と向き合う時間を持っていない証拠。
ちゃんと、そういう時間を作らないとね。




体が欲するもの

2006-08-25 00:00:34 | 日記・エッセイ・コラム
昔から、水泳が苦手だった。
短距離走は必ずと言っていいほど、選抜リレーの選手に選ばれていたのに、水泳はからきしダメ。
水泳の授業のある日は、いつも「雨が降ればいい」と思っていた。だから、小学校2年生くらいの時に、雨でも気温が高ければ水泳の授業は決行されるのだと知った時は大変なショックで、その後は雷が来て授業がなくなればいいと、いつもお祈りをしていた諦めの悪い子供だった。

今でも水泳は得意じゃない。
エアロビクスのレッスンを3時間連続でこなすほどの持久力があるのに、水泳となると25mプールを一気に往復することができない。片道ごとに休憩を入れて、それでもせいぜい300m泳ぐのが関の山。

なのに、この夏は何度かプールに通った。
なんだかとても「水」に浸かりたい気分になって、プール目的にジムに行った。
何度目かのプールで、ふと気が付いた。
ああ、私が嫌いだったのは「水」ではなくて水泳の授業だったんだなぁ、と。
学習とか、上達とか、そういうものを目的にせずに、ただ「水に触れたい」という気持ちで泳ぐと、水の中ってこんなにも気持ちのいいものなんだと。
とかく世間では「癒し」とか「リラグゼーション」というものがもてはやされているけれど、「楽しむ」とか「リラックスする」というのは、意識しすぎると義務になってしまって、結局楽しくなくなってしまったり、リラックスできなくなってしまったりする。
「リラックスする」ということさえ目的にしない方が、よっぽどリラグゼーション効果があるのかもしれない。





直感

2006-08-18 23:51:23 | 日記・エッセイ・コラム
8月10日オンエアされたNHKの番組「プロフェッショナル ~仕事の流儀~」録画しておいたものを、やっと見た。
この番組は、司会に脳科学研究者である茂木健一郎さんが出ているところがまた興味深いところなのだが…、

茂木さん曰く、「直感」に従うことは、時に「論理的思考」に従うより良いときがあるそうだ。
なぜなら、直感には個人の経験や価値観や未来への希望がグッと凝縮されている場合が多いから。

私も結構、直感で物事を決めて行くときがあって、案外悪い結果にはなっていない(むしろ良い方に転んでいる)ことが多いので、直感を信じる方だし、色々迷ってしまったら結局「最初はどう思ったか?」に立ち返る時もある。
今までは、それがどうしてなのかが上手く説明できなかったけれど、確かに「直感が働いた瞬間」を切り取って、ぐぐぅっーと深めてみると、「経験」や「将来こうなりたい」という希望から発生している「価値観」みたいなものと、切っても切り離せない要素を「直感」が含んでいたことは確かだと思う。
そうかぁ、「直感」も科学すると、理にかなったものになるんだなぁ…、と感心することしきり。

でも、直感が働くときって、なんか自分が「無意識」に近い状態の時だと思う。理屈は意識しないと出て来ないけれど、感情とか感性で感じるものは、自分がニュートラルな状態の時でないと得られない。

ギアがニュートラルに入った瞬間に感じた「直感」。
それをつかみ取れるかどうかが、どうも生き方の色付けに大きく関与しているらしい。


吉凶混合運

2006-08-16 01:06:57 | 日記・エッセイ・コラム
今日(もう昨日か・・・)は、スッキリしたこととスッキリしなかったことが混在した1日だった。

午前中は、「人に何かをお願いする立場」として、相手に何をして欲しいかについて説明し、「私ではなくあなた」にお願いすることでどんな効果を期待しているのかについて考えて、話し合って、理解し合いたい人と確認が取れてスッキリした。

午後は逆に、「人から何かをお願いされた立場」として、なぜ私指名なのか、私がやることでどんな効果を期待しているのかがさっぱり解らず、お願いしてきた相手とプチ・バトルした結果、お断りをしてしまった。
断られた方は、ぜんっぜん納得していないみたいだけど(苦笑)、それは「なぜ断られたのか」とか「どうしたら受けてもらえたのか」を、私がうまく伝えられなかったせいなんだろうなぁ。
と思って、スッキリしない。

話しながら考えたり、考えをまとめながら話すのは、とっても難しい。
プチ・バトルしてから今まで約5時間、ずっと自分の中にある「違和感」について考えて、今やっと「あー、こういうことを言いたかったのかなぁ、私。」ということが、自分の中でまとまってきた感じ。

明日もう一回話し合った方がいいんだろうなぁ、と思いつつ、今日の「物別れ」の状態から察するに、明日またこの話を蒸し返して、良い話し合いにするためには相当なパワーが必要。

なんてことを考えていると、言いたかったことがまとまってきたことに「ほっ」とする自分と、明日もう一度話すことに憂鬱を感じている自分が、ほぼ同じくらいの大きさで存在していることがわかる。

なんか、色々な場面で「+」と「-」が混在した1日。
しかし、今日の終わりに改めて振り返ると、決して「よかった」と手放しで思えない。

「吉凶混合運」って、決して後退しているわけじゃなくても、「いい日だった」とも言えない、微妙な1日。


Hold Me Now

2006-08-12 01:05:30 | 日記・エッセイ・コラム
スポーツクラブの館内で流れる有線で、懐かしい曲を聞いた。

「Hold Me Now」
UKの3人組、トンプソン・ツインズ (Thompson Twins)のヒット曲。

私も好きなバンドだったけど、私の友達にトンプソン・ツインズが大好きな子がいた。
小学校4年生の時に同じクラスになったのをきっかけに友達になった女の子。
私が「あき」で、彼女は「あきこ」。誕生日も1週間違いで、カレンダーではお互いの誕生日が必ず上下に並んでいる。
中学に上がってクラスが別々になっても、それとなく友達関係は続いていて・・・、
学校中のほとんどの子が、中森明菜がいいとか、松田聖子がいいとか、たのきんトリオがいいとか言っていた中学生の頃に、共に雑誌「音楽専科」を読んでいた異端児仲間のあっこちゃん。
JAPANのデヴィッド・シルビアンに心酔する私に、「弟のスティーヴ・ジャンセンの方が美しい。」とあっさり言い切っていたあっこちゃん。
坂本龍一とデヴィッド・ボウイが見たいと言って映画「戦場のメリークリスマス」を一緒に見に行ったはずなのに、映画館から出る時にはすっかりビートたけしのファンになっていたあっこちゃん。

中学を卒業して彼女は普通高校に、私は商業高校に進学した。
時々朝の通学電車が一緒になると、中学の頃から引き続いて話題にのぼるのは「UKロック」や「ニューウェーブ」「ニューロマンティック」と言われた音楽。
WHAM!、DURAN DURAN、Kaja goo goo、Howard Jones、Eurythmics、HANOI ROCKSなどなど・・・。
そんな中で、彼女はトンプソン・ツインズをいたく気に入っていた。何しろ彼女にとってはヴォーカルのトム・ベイリーがたまらなくカッコいいらしかった。

なんてことを克明に覚えているのに、いつからか彼女と全く交流が途絶えてしまった。それって、いつからなんだろう?と「Hold Me Now」を聞きながら考えていた。

多分、高校2年生くらいだったような気がする。
大学に行くと決めた彼女に対して、たいした進学は望めない商業高校の私。勉強嫌いでハナから大学なんか行くつもりがなく、高卒就職するつもりで商業高校を選んだのに、どこかに学歴コンプレックスがあったあの頃。
小学校から中学校にかけてあんなにつるんで遊んでいたのに、その後のたった2年そこそこで疎遠になってしまうのだから、時の流れは不思議だ。

そして、今日。
久しぶりに彼女のことを思い出したら、とても彼女に会いたくなった。
話したいことなんて、なんにもない。でも、明日もしも偶然に電車の中で会ったとしても、なんの躊躇もなく「あっこちゃんじゃない?」って声をかけて、普通に懐かしむだろう自分が想像できる。
例えあの後、彼女が有名大学を卒業していたとしても、一流大企業に就職していたとしても、世界に名を馳せる大金持ちの夫人になっていたとしても、バリバリの女性実業家になっていたとしても、私はきっと普通に彼女と話せるだろうと思う。


これも、時の流れのおかげかな。