先日、某専門学校の外部講師として一日社会人講座を担当した日のこと。
昼休みに休憩室にいたら、その学校のクラス担任と思われる2人の先生がこんな会話をしていました。
「先生のクラス、就職どうですか?」
「うーん、厳しいですねぇ。求人がないですからねぇ。」
「求人数も問題ですけど、生徒の履歴書どうですか?」
「あー、ひどいですねぇ。」
「でしょー?なんでなんでしょうねぇ。履歴書の書き方なんてわざわざ教えられなくても、私たちってなんか普通に書けましたよね?」
んー。
確かに私も中学生くらいの頃から、芸能事務所に履歴書送ってたっけな。
んでも書き方なんて教えてもらってなくて、項目見ながら何を書いたらいいか考えて書いたっけな。
でも、それってやっぱり「この項目は何を書く事を求めているのか」を想像して記述するという国語教育を受けていたからできたことのような気がします。
できるだけの想像力を働かせて、こうだああだと思って書く。なんか、そういう教育というか授業がふんだんにあったような気がします。
また、わけわかんないこと喋ってると、容赦なく親兄弟に突っ込まれた記憶があるし、近所のおじさんやおばさんにも言葉遣いを注意された記憶もあるし…。
今の学校教育って、そういう所に重きを置いてるんだっけ?
今の親子や地域って、子供を教育する環境を維持してるんだっけ?
と、まあ、子なしの私が言ってもあんまり説得力ないんだろうけど、昔とは学校教育や地域環境が随分違ってきているような気がします。
要するに、「なんで今の子って」の責任は、結構私たち世代にあるんじゃないかと思ってしまうわけです。
子供は勝手に育つ訳じゃない。
ある程度基礎になる部分は教育してあげなければダメで、基礎もないのに「応用しろ」は無理ってもんだと思うのです。
だから、履歴書の書き方を教えてもらったかどうかが問題ではなく、履歴書くらいひとりで書けるくらいになれる教育を、学校や親や地域から受けたかどうかの問題だと思ったりするのです。
で、そういう教育を施してこなかった分、私たちのような仕事をしているニンゲンが責任の一旦を担うべきなんですよ、先生。
と、そんなことを考えながら先生の話を盗み聞きしていた昼休みでした。
面識のある先生だったら、絶対その話に割って入ってたな、私。(笑)
その先生方の話の中にもうひとつ気になる話題があったのですが、それはまた次の機会に。
今日の月は二十二日夜。
日に日に月が細くなっていきます。
次の新月まで、あと9日。