「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

元 すわ鎌倉 Long Good-bye 2022・03・07

2022-03-07 06:05:00 | Weblog

  今日の「 お気に入り 」 は 、インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」
  に掲載されている「 」の記事 。

   元と言っても 、 1元=18.15円の中国の通貨「 元 」ではなく 、その上 ( かみ ) の
  「 元 ( 王朝 ) 」のこと 。

   「 鎌倉殿の13人 」を見ていて 、鎌倉時代にあったという「 元寇
  や小学生の頃に映画館で見た大映の映画『日蓮と蒙古大襲来』( 1958年 )を思い出しました 。
   すわ鎌倉 。

   13世紀「 元 ( 王朝 ) 」の最盛時の版図を見ると 、 東アジアで「 大元帝国 」の
  「 行政区分 」に入っていない ( =直接統治下にない ) のは 、島嶼部である「 日本 列島」と
  「 台湾 」だけだったみたい 。

   21世紀の現代にあることは 、13世紀の中国元王朝の時代にすべてあったよう 。
   この記事を読むだけでも勉強になりますよ 。

   長い記事なので 、適宜 、勝手に 、取捨して 、順不同で 、抜粋して引用します 。筆者が高校時代に
  勉強したことのおさらい 。役に立たないもんです 。

   引用はじめ 。

   「 元( げん )は 、中東アジアから東ヨーロッパまで広大な領域にまた
   がったモンゴル帝国の後裔の一国であり 、そのうち中国本土とモンゴ
   ル高原を中心領域として 、1271年から1368年まで東アジアと北アジア
   を支配したモンゴル人が建てた征服王朝である


    正式国号は 、大元( だいげん )で 、ほかに元朝( げんちょう )、
   元国( げんこく )、大元帝国( だいげんていこく )、元王朝
   ( げんおうちょう)、大モンゴル国( だいもんごるこく )とも言う 。
   モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で 、国姓は
   『 奇渥温 』である 。 」

   「 定義と名称

    伝統的な用語上では 、『 中国を征服したモンゴル帝国が南北に分裂
   した内紛を経て 、正統な中華帝国になった国
』というように認定さ
   れたが 、視点によって『 元は中国では無く 、大元ウルスと呼ばれ
   るモンゴル遊牧民の国 』と 、様々な意見もある 。

    中国王朝としての元は唐崩壊( 907年 )以来の中国統一王朝であり 、
   大都( 現在の北京 )から中国とその冊封国やモンゴル帝国全体を
   支配し明( 1368年 - 1644年 )に追われて 北元になってからは
   モンゴル高原に戻った
。中国歴代征服王朝( 遼・金・など )の
   中でも元だけが『 政治制度・民族運営は中国漢人の伝統体制に同化
   されず 、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持
   つ 』統治法を行った 。一方 、後述するように行政制度や経済運営
   の特徴は南宋の仕組みをほぼそのまま継承している
。 」

  「 現代中国における元

    中国(中華人民共和国)は 、モンゴル帝国が支配した世界最大の
   版図をそのまま元が支配した版図とみなして、元の版図を中国の
   領土だと主張している 。また中国は 、清も継承して清の版図
   もそのまま中国の領土だと主張している 。しかし 、元も清も
   征服王朝であって 、漢人の王朝ではない


    現代の中国人には 、漢人ではなくモンゴル人による王朝である元は
   あまり人気がなく 、『 元は別枠 』と捉えているようにも見受けられ 、
   元の歴史自体にあまり関心がない 。そのため 、元寇も中国の学
   校では基本的に教えられておらず 、中国ではあまり知られていない

    それは 、中国の学校で教える歴史は中国共産党の設立( 1921年 )
   以降が中心であり 、それ以前となると 、比較的時代の近い明や清を
   取り扱うことはあっても 、他の時代はごくあっさりとしか教えてい
   ない
ことも理由である 。 」

  ちょっと( Intermission )  。



  「 概 説

    元は 、1260年 、チンギス・ハンの孫でモンゴル帝国の第5代皇帝に
   即位したクビライ( フビライ )が1271年にモンゴル帝国の国号を
   大元と改めたことにより成立
し 、モンゴル語ではダイオン・イェケ・
   モンゴル・ウルス ( Dai Ön Yeke Mongghul Ulus . PNG 、ローマ字
   表記:Dai-ön Yeke Mongγol Ulus ) すなわち『 大元 』と称した 。
    つまり 、1271年の元の成立は 従来のモンゴル帝国の国号『 イェケ・
   モンゴル・ウルス 』を改称したに過ぎないとも解せるから 、元とは
   すなわち クビライ以降のモンゴル帝国の皇帝政権のことである

    国号である『 大元 』もこれで一続きの政権の名称として完結したも
   のであったと考えられるが 、中国王朝史において唐や宋など王朝の
   正式の号を一字で呼ぶ原則に倣い 、慣例としてこのクビライ家の王朝
   も単に『 元 』と略称される

    たとえば 中国史の観念では 元朝とはクビライから遡って改称以前の
   チンギス・カンに始まる王朝であるとされ 、元とはモンゴル帝国の
   中国王朝としての名称ととらえられることも多い


    クビライは 兄弟のアリクブケと帝位を争って 帝国が南北に分裂した
   内戦に至り 、これを武力によって打倒し単独の帝位を獲得するという 、
   父祖チンギスの興業以来の混乱を招いた上での即位であった 。
    このため 、それまで曲がりなりにもクリルタイによる全会一致をもって
   選出されていたモンゴル皇帝位継承の慣例が破られ 、モンゴル帝国内部
   の不和・対立が 、互いに武力に訴える形で顕在化することになった 。
    特に 、大元の国号が採用された前後に中央アジアでオゴデイ家の
   カイドゥがクビライの宗主権を認めず 、チャガタイ家の一部などの
   クビライの統治に不満を抱くモンゴル王族たちを味方につけてイリから
   アムダリヤ川方面までを接収し 、『 集史 』をはじめペルシア語の
   歴史書などでは当時『 カイドゥの王国 』( mamlakat-i Qāīdū'ī )
   と呼ばれたような自立した勢力を成した 。帝国の地理的中央部に出現
   したその勢力を鎮圧するために 、クビライは武力に訴えるべく大軍を
   幾度か派遣したが 、派遣軍自体が離叛する事件がしばしば起きるとい
   う事態が続いた 。この混乱は 西方のジョチ・ウルスやフレグ家のイル
   ハン朝といった帝国内の諸王家の政権を巻き込み 、クビライの死後
   1301年にカイドゥが戦死するまで続いた 。かくしてモンゴル皇帝の
   モンゴル帝国全体に対する統率力は減退して 従来の帝国全体の直接
   統治は不可能になり 、モンゴル皇帝の権威の形が大きな変容を遂げ 、
   モンゴル帝国は再編に向かった 。すなわち 、これ以降のモンゴル
   帝国は 、各地に分立した諸王家の政権がモンゴル皇帝の宗主権を
   仰ぎながら緩やかな連合体を成す形に変質したのである 。こうした
   経過を経て 、大元は モンゴル帝国のうちクビライの子孫である歴代
   モンゴル皇帝の直接の支配が及ぶ領域に事実上の支配を限定された
   政権となった 。つまり 、大元は連合体としてのモンゴル帝国のうち 、
   モンゴル皇帝の軍事的基盤であるモンゴル高原本国経済的基盤で
   ある中国
を結びつけた領域を主として支配する 、皇帝家たるクビライ
   家の世襲領( ウルス )となったのである 。

    一方中国からの視点で見たとき 、北宋以来 、数百年振りに中国の
   南北を統一する巨大政権が成立したため 、遼( 契丹 )や金の統治
   を受けた北中国と 、南宋の統治を受けてきた南中国が統合された

    チンギス・カン時代に 金を征服して 華北を領土として以来 、各地
   の農耕地や鉱山などを接収 、対金戦で生じた荒廃した広大な荒蕪地
   では捕獲した奴隷を使って屯田を行った 。また大元時代に入る前後
   に獲得された雲南では 、農耕地や鉱山の開発が行われている 。首都
   への物資の回漕に海運を用い始めた事は 、民の重い負担を軽減した
   良法として評価される 。元々モンゴル帝国は傘下に天山ウイグル王国
   やケレイト王国 、オングト王国などのテュルク系やホラーサーンや
   マー・ワラー・アンナフルなどのイラン系のムスリムたちを吸収しながら
   形成されていった政権であるため 、これらの政権内外で活躍していた
   人々がモンゴル帝国に組み込まれた中国の諸地域に流入し 、西方から
   ウイグル系やチベット系の仏教文化やケレイト部族やオングト部族など
   が信仰していたネストリウス派などのキリスト教 、イラン系のイスラ
   ームの文化などもまた 、首都の大都や泉州など各地に形成されたそれ
   ぞれのコミュニティーを中核に大量に流入した。

    モンゴル政権では 、モンゴル王侯によって自ら信奉する宗教諸勢力へ
   の多大な寄進が行われており 、仏教や道教 、孔子廟などの儒教など
   中国各地の宗教施設の建立 、また寄進などに関わる碑文の建碑が行わ
   れた 。モンゴル王侯や特権に依拠する商売で巨利を得た政商は 、各地
   の宗教施設に多大な寄進を行い 、経典の編集や再版刻など文化事業に
   資金を投入した 。大元朝時代も金代や宋代に形成された経典学研究が
   継続し 、それらに基づいた類書などが大量に出版された 。南宋末期
   から大元朝初期の『 事林広記 』や大元朝末期『 南村輟耕録 』など
   がこれにあたる 。朱子学の研究も集成され 、当時の『 漢人 』と呼
   ばれた漢字文化を母体とする人々は 、金代などからの伝統として
   道教・仏教・儒教 の三道 に通暁することが必須とされるようになった 。
   鎌倉時代後期に 大元朝から国使として日本へ派遣された仏僧 一山一寧
   もこれらの学統に属する 。

    14世紀末の農民反乱によって中国には明朝が成立し 、大元朝のモンゴル
   勢力はゴビ砂漠以南を放棄して北方へ追われた( 北元 )。
   明朝の始祖洪武帝( 朱元璋 )や 紅巾の乱 を引き起こした白蓮教団が
   モンゴル王族などから後援を受けていた仏教教団を母体としていること
   が象徴するように影響を受けていたことが近年指摘されている
。 」

    引用おわり 。

    死してのち已む 、しかないようなのが哀しい 。
    日本列島が戦禍を被った敗戦時から 、まだ77年 。
    パックスジャポニカ ( Pax Japonica ) 風前の灯火 ( ともしび ) 。

    遠いご先祖さまの「 侵略 」は棚に上げ 、ご先祖さまが獲った領土は孫子 ( まごこ ) の代
   まで主張する 。
    どこかの国の「 歴史認識 」 。unfair ( アンフェア ) 。
    ああ言えばこう返す 、ご都合主義の「 歴史認識 」、指導者は口下手でも 、どこの国にも
   口達者な「 報道官 」 。
    「 侵略国 」にへつらう どこかの半島の国 。
    かつての「 日独伊 」、現在の「 朝中露 」。
    米国は世界で唯一つの核爆弾投下国 、いざとなったら 、何をやらかすかわからない 。
    キューバ危機は 、そんな昔のことじゃない 。
    予測のつかない現代の国際社会 、AIの助けを借りて机上演習くらいしとかなくっちゃね 。
   

    




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« GENGHIS KHAN 成... | トップ | HEEL vs . BABY - ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事