今日の「 お気に入り 」。
最近読んだ 村上春樹さん ( 1949 - ) の随筆「 村上
朝日堂はいかにして鍛えられたか 」( 新潮文庫 )
の中に 「 新聞について 、情報について 、いろいろ 」
というタイトルの小文がある 。
その冒頭に ちょっと長い こんな一節がある 。
「 この十年くらい新聞をとっていなかったのだが 、
思い返してみても 、それでとくに不自由したと
いう覚えはない 。テレビのニュースもほとんど
見ない 。あるいはそのおかげで何か大事な情報
を逃して 、実際には不自由しているのかもしれ
ないが 、しかし不自由しているという意識が本
人にないのだから 、それを『 不自由 』と呼べ
るのかどうかは難しいところである 。情報とい
うのは不思議なもので 、入ってくる情報のどこ
までが必要でどこからが必要ではないのかと考
えていくと 、だんだん境界線が不分明になって
くる 。必要ないと思えばすべて必要ないみたい
だし 、逆に一度情報の不足が不安になりだすと 、
きりなく不安になってくる 。だからこそ情報産
業がかくのごとく栄えるのだろう 。
たとえば僕はコンピューターのネットワーク・
サービスを使っているが 、そこにある情報の大
半は生活には不要な代物である 。 というか 、
100パーセントなくたって 、今のところは実
際には不自由しないみたいだ( あればあるで使
っちゃうんだけど )。それをいかにも不自由な
ように見せかけて 、本来ないはずのところにヴ
ァーチャルな需要を作り出すのが 、実は現代の
情報産業みたいである 。」
四半世紀も前に書かれた文章だけど 、新聞や情報についての
小説家の感想が 、2024年( 令和6年 )の 日本社会に 、
色褪せず 、100% あてはまるところが 、面白い 。
紙の新聞は オワコン である 。日本の団塊世代が死に絶える
2050年頃には 姿を消しているだろう 。クロニクルの一
形態として 、ネット空間にだけ残ってるんだろうか 。
( ´_ゝ`)
こういう真面目な小文がある一方で 、「 裸で家事をする主婦は
正しいのか? 」なんてタイトルの小文もこの随筆には入ってる 。
「 全裸家事主婦問題 」について 、400字詰め原稿用紙5枚を
費やして 、日米の文化の違い を論じておられる 。嫌いじゃない
テーマではある 。
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