今日の「 お気に入り 」。
最近読んだ 村上春樹さん ( 1949 - ) の随筆「 村上
朝日堂はいかにして鍛えられたか 」( 新潮文庫 )
の中に 「 テネシーウィリアムズはいかにして見捨
てられたか 」というタイトルの小文がある 。
備忘のため 、その中の数節を抜き書き 。
「 僕は大学で『 映画演劇科 』というところに
行った 。映画を作ることに 、もっと正確に
言えば映画のシナリオを書くことに興味を持
っていたのだ 。その当時大学の文学部で映画
の専攻課程を持っているのは 、早稲田と明治
大学と日大芸術学部くらいしかなくて 、『 ま
あ映画関連ならなんでもいいや 』という感じ
で早稲田に入った 。」
「 ここで僕は最初に 、テネシー・ウィリアム
ズの戯曲を英語で読む講座をとった 。それま
でにテネシー・ウィリアムズの芝居をいくつか
読んで 、僕としてはけっこう気に入っていた
からだ 。『 欲望という名の電車 』とか『 地
獄に向かうオルフェウス 』とか 。でもこの先
生がいささか変わった人で 、講義をしながら
ほとんど初めから終わりまでテネシー・ウィリ
アムズの悪口を並べ立てていた 。」
「 僕は最初のうちは『 そんなものかな 』とび
っくりして聞いていたのだが 、一学期そのク
ラスに通っているうちに 、だんだんテネシー・
ウィリアムズという人がほんとうに底の浅い下
品な作家に思えてきた 。それはそうだろうと
思う 。二十歳そこそこのものをろくすっぽ知
らない学生が 、偉い大学の先生から『 こい
つはアホだ 、カスだ 、タコだ 』と一学期ず
っと繰り返し聞かされていたら 、やっぱりあ
る程度マインド・コントロールされてしまう
だろう 。少なくとも僕はされた 。
どうしてこの先生が 、それほどまで嫌って
いるテネシー・ウィリアムズの作品をテキス
トとして選んだのか 、僕には知るべくもな
い 。」
「 この年になって振り返ってみれば 、『 そ
ういうのはその教師の個人的な意見であって 、
違う考え方も世間にはある 。芸術作品に対
する評価はひとつだけではない 。それから
大学の先生にも少し( かなり 、すごく )
変な人もいるんだ 』ということがわかる 。
でも若い頃はそこまでは冷静に頭がいかな
い 。テネシー・ウィリアムズを有効に罵倒
する論理に ―― たしかに今思い出しても
かなりうまく批判していた ―― 感心さえ
した 。おかげさまで僕は好きな作家を一人
減らすことができた 。どうもありがとさん 。」
「 何かを非難すること 、厳しく批評するこ
と自体が間違っていると言っているわけで
はない 。すべてのテキストはあらゆる批
評に開かれているものだし 、また開かれ
ていなくてはならない 。ただ僕がここで
言いたいのは 、何かに対するネガティブ
な方向の啓蒙は 、場合によってはいろん
な物事を 、ときとして自分自身をも 、取
り返しがつかないくらい損なってしまうと
いうことだ 。そこにはより大きく温かいポ
ジティブな『 代償 』のようなものが用意
されていなくてはならないはずだ 。そのよ
うな裏打ちのないネガティブな連続的言動
は即効性のある注射漬けと同じで 、一度進
み始めるとあとに戻れなくなってしまうと
いう事実も肝に銘じておかなくてはならな
いだろう 。
もちろん僕にも作家や作品の好き嫌いと
いうのはある 。人間に対する好き嫌いも
ある 。でもその遥か昔のテネシー・ウィ
リアムズの講義のことを思い出すたびに 、
『 やはり人の悪口だけは書くまい 』と
つくづく思う 。それよりはむしろ『 こ
れはいいですよ 、これは面白いですよ 』
と言って 、それを同じようにいいと思い 、
面白いと喜んでくれる人をたとえ少しでも
いいからみつけたいと思っている 。経験
的に深くそう思う 。これは早稲田大学文
学部が僕に与えてくれた数少ない生きた
教訓のひとつである 。」
引用おわり 。村上春樹さんのご意見に深く賛同
いたします 。村上さんが早稲田大学で受講された
頃と言えば 、大学は学園紛争で荒廃しており 、
大学教授のお心もざわついていたのかも知れません
ね 。当時テネシー・ウィリアムズさんと言えば 、
60歳一寸前で 、既に 米本国では 劇作家として高
い評価を受けていた大御所だったのではないでしょ
うか 。先生にも 、学生にも 、「 ネガティブな連続
的言動 」に走る 、偏見に満ちた 、とんがった 、変
な 考えかたをなさる方々が 表舞台にしゃしゃり出て
いらっしゃっても 、ちっともおかしくない時代だっ
たのではないでしょうか? なんせ1960年代の
後半ですもの 。
。。。( ´_ゝ`) 。。。
( ついでながらの
筆者註 :「 テネシー・ウィリアムズ( Tennessee Williams ,
1911年3月26日 - 1983年2月25日 )は 、アメリカ
合衆国のミシシッピ州コロンバス生まれの劇作家 。
本名はトマス・レイニア・ウィリアムズ( Thomas
Lanier Williams )。愛称の『 テネシー 』はその
南部訛りからセントルイスでの学友に付けられた 。
ルイジアナ州ニューオーリンズのフレンチ・クオー
ターで長年暮らした 。
略 歴
牧師の祖父 、音楽教師の祖母 、両親 、姉弟と
ともに祖父の牧師館で育つ 。靴のセールスマンを
していた父親は留守が多く 、粗野で暴力的 、酒
と賭博が好きで 、病気がちで ひ弱なテネシーに
失望していた 。両親は 夫婦仲が悪く 、喧嘩が
絶えなかった 。2歳違いの姉とは大の仲良しで 、
双子と間違われるほどだった 。母親は神経質で
ヒステリックな人だったが 、優しい黒人の乳母
がいて 、毎夜いろいろなおとぎ話を聞かせてく
れていた 。
8歳のときに 、父親の仕事の関係でミズーリ州
セントルイスに引っ越し 、特権階級だった南部
の穏やかな暮らしから 、工業都市のアパート暮
らしに一変した 。新しい環境になかなかなじめ
ず 、友人もなく 、家で過ごす日々が続いた 。
この異なる環境の変化とそれに苦悶する人々は 、
テネシーの作品によく現れるモチーフである 。
ウィリアムズの家庭には問題が多かった 。彼
の姉ローズは恐らく彼に対する最も大きな影響
を与えた 。彼女は精神障害で精神病院の中で
生涯のほとんどを過ごし 、両親は結局彼女に
対するロボトミー手術を許可した 。ウィリア
ムズはこのことで両親を許さなかったし 、愛
する姉を救えなかった自分自身の罪の意識にも
苦しんだ 。彼の作品の登場人物はしばしば家
族に対する直接の抗議であると見られる 。
『 欲望という名の電車 』のブランチ・デュボ
ワ 、『 ガラスの動物園 』のローラ・ウィング
フィールドは姉のローズ 、アマンダ・ウィング
フィールドは 、彼の母親がモデルであるとされ
る 。また『 去年の夏 突然に 』のセバスチャン 、
『 ガラスの動物園 』のトム・ウィングフィール
ドを含めて 、彼のキャラクターの多くは自叙伝
的である 。
彼はゲイだったことで知られている 。秘書の
フランク・マーロ ( Frank Marlo ) との関係
は 、出会った1947年から1963年の癌によるマ
ーロの死まで続いた 。1979年の1月に 、ヘイ ( 68歳のころ )
トクライムの犠牲者としてフロリダ州キー・
ウェストで5人の10代の少年によって殴打され
た 。
晩年は 死や孤独に対する恐怖からアルコール
やドラッグが手放せない生活になり 、1983年 、
ニューヨークのホテルで目薬か点鼻薬のキャッ
プを喉に詰まらせ窒息死した 。しかし 、彼の
弟デーキン・ウィリアムズなど幾人かはそれが
殺害だと信じている 。」
「 1948年には『 欲望という名の電車 』で 、19 ( 37歳のころ )
55年には『 熱いトタン屋根の猫 』でピューリ ( 44歳のころ )
ツァー賞を受賞している 。」
「 1956年にニューヨークの路上で三島由紀夫と ( 45歳のころ )
出会って以来親交をもち 、数回来日している 。」
以上ウィキ情報 。)