「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

丸の内界隈 Long Good-bye 2024・06・30

2024-06-30 05:09:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、内田百閒さん

 ( 1889 - 1971 )の随筆「 御馳走帖 」( 中公

 文庫 )の中から「 腰弁の弁 」とした小文

 一節 。

  引用はじめ 。

 「 私は永年の間 、朝飯も午飯もたべなかつ
  た 。しかしそれはお膳に坐らないと云ふ
  のであつて 、一日ぢゆう晩まで何もたべ
  なかつたわけではない 。朝はビスケツト
  に林檎 、午は蕎麦のもりかけを食つて 、
  身体の調子がすつかりそれに馴れてゐた 。
   今度日本郵船会社の嘱託になつて出掛け
  るに就き一番閉口したのは食べ物の事であ
  る 。丸ノ内にだつて蕎麦はありますよと
  軽く云ふ人があるが 、蕎麦屋はあつても 、
  毎日私の待つてゐる時刻に持つて来させる
  のは中中骨が折れる 。出前持ちはこちら
  の気のすむ様にばかりしてくれるものでは
  ない 。仮りにきまつた時刻に持つて来る
  様に馴らしたとしても私は毎日行つてゐる
  わけではないから始末がわるい 。何曜日
  にはいらない 、外の日には時間を間違へ
  ては困ると云ふ様な面倒な事は 、大勢を
  相手に商売してゐる者に云つても無理で
  ある 。」

 「 そんなに六づかしいなら御自分から食ひ
  に行けばいいではないかと 、その説をな
  す人が云ふのであるが 、これは大変な誤
  解であつて私がいつも家で蕎麦ばかり食つ
  たのは 、蕎麦が好きな為ではなく 、蕎麦
  で一時のおなかを押さへて我慢をしたに過
  ぎない 。若し自分から足を立てて食べに
  出掛けると云ふことになれば 、蕎麦屋で
  盛りやかけを食ふよりは 、西洋料理とか
  鰻の蒲焼などの方が好きである 。ただ昼
  間の内からさう云ふ物を食べ散らす様なお
  行儀のわるい事をすると 、自分の身体に
  いけないから蕎麦で養生してゐたのである 。
  食意地が張つてゐて自制心の弱い私の様な
  者は 、成る可くうまさうなにほひのする
  場所へ近づかないに限る
   色色考へをめぐらして見たが 、いい分別
  がないので面倒になつて 、結局なんにも
  食べないのが一番簡単であると思ひ出した 。
   さうきめたので気も軽く 、おなかの中も
  軽いなりに日本郵船へ出かけてゐたが 、
  家を出る時から既に腹がへつてゐるので 、
  向うにゐる何時間かの内には 、二三度 目
  の前がぐらぐらとして 、机の端につかまる
  事がある 。廊下を歩くと 、時化に遭つた
  甲板の様に 、急に向うの方が高くなつたり 、
  足もとが落ちて行つたりして 、あぶなくて
  仕様がない 。郵船会社は見掛けは立派だけ
  れども 、廊下が安定してゐない 。」

 「 そんな事を暫らく続けたが 、あんまり腹が
  へるので 、或る日 節を屈して 、丸ビルで
  蕎麦を食つて見た 。あつらへたお膳は目の
  前に来たけれども 、辺り一面が大変な混雑
  で 、私のすぐ右にも左にも 、鼻をつく程
  近い前にも知らない人が一ぱいゐて 、みん
  な大騒ぎをして何か食つてゐる 。腹のへつ
  た鶏群に餌を投げてやつた有様で 、こつち
  迄いらいらして 、自分の蕎麦を食ふ気がし
  なくなつたから 、半分でやめて 、外へ出
  てほつとした
   そんな所へ行くのは一度で懲りたが 、郵
  船会社の中で足もとがふらふらする事に変
  はりはない 。若し廊下で倒れてしまつたら 、
  死因は空腹であると云ふ事になると 、郵船
  会社が見つともないであらう 。
   大分長い間 瘦せ我慢を続けてゐたけれど 、
  到底長持ちのする事でないと見極めがつい
  たので 、アルミニユームの弁当函に麦飯を
  詰めて携行する事にした 。机の抽斗に入れ
  ておいて 、そろそろ廊下の浮き上がつて来
  る二時半か三時頃に食べる 。おかずがうま
  いと御飯が足りなくなるから 、塩鮭の切れ
  つ端か紫蘇巻に福神漬がほんの少し許リ入れ
  てある計りである 。持つて来る時には中が
  詰まつてゐるから音がしないが 、夕方帰る
  時は 、エレヹーターに乗つた拍子に 、袱紗
  包みの中がからんからんと鳴る事もある 。」

  引用おわり 。

  日本郵船や丸ビルが出てくるので 、いつの頃の話かと

 思ったら 、昭和十年代 、太平洋戦争が始まる前の日本

 の首都 東京 、丸の内界隈にお勤めの頃の日常らしい 。

  随筆の中に 、以下の記述があり 、嘱託勤めの裏事情が

 わかって面白い 。

 「 私は嘱託として会社に顔を出してゐたが 、
  その内に戦争が始まり 、外洋航路は丸で
  駄目になつた 。郵船としての活動は麻痺
  してしまつて 、内部には人べらしも行は
  れるし 、私の様な我侭な地位は邪魔にな
  るばかりであつた 。
   その時分私は一時 、無給嘱託と云ふ事に
  なつた 。無給なら止めてしまへばいいで
  はないかと云ふに 、さうは行かないわけ
  がある 。当時頻りに報道班員と云ふ名前
  で軍から指名されて 、文士が支那や南方
  へ行かされた 。私にも直接 、軍からで
  はないが 、一寸そんな話があつた事もあ
  る 。それがいやなので 、郵船の屋根の下
  から出てしまふ時期ではないと思つた 。
  何も郵船の庇護を受けると云ふのではなく 、
  郵船にそんな力がある筈もなかつたが 、
  ただ自分は会社勤めの身分である 。文士
  としてのお役には立たないと云ふ顔がして
  ゐたかつたからである 。
   その内に又もとの有給嘱託に戻して貰つ
  て 、敗戦により郵船ビルを接収された後
  まで会社にゐたが 、・・・  」

 

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