今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「私は作者のキャリアは詮索しない方がいいと思うものである。読んで感銘をうけたらそれだけで足りる。作者の経歴を知りたくなるのは人情だが、作品がすべてで、本人はぬけがらであり、カスである、私が半分死んだ人だというゆえんである。
たとえば漱石は兄嫁に惚れていた、それが漱石の作品の謎をとく鍵だと、何かにつけて持ちだされては地下の漱石も迷惑だろう、よしんばそれが発見であったにしても。
私はほとんど出自(しゅつじ)を語らない、いや『無想庵物語』(文芸春秋刊)で、父の唯一の友、失敗した小説家武林無想庵を語ると同時に、もう一人の失敗した詩人山本露葉の大概を書いている。」
「私の父は祖父の築いた財産で生涯金利生活を送った。明治維新で士族の多くは零落したが、祖父のように産をなした者もあったのである。どうせろくなことでなしたのではなかろうと詮索しないから知らない。父は頭のなかは大正デモクラシー、生活は旧式だった。食膳は子供たちとは別にした。子供との間には会話はなかった。
明治四十二年祖父の死を待っていたように、吉原で大尽遊びを始めた。七、八年続いたようだがぴたりとやめた。以後茶室を書斎にして終日とじこもってことりとも音をたてなかった。日記四十巻を残した。それはいわゆる日記ではない。すべて詩と散文の原稿で、推敲に推敲をかさねた順に捨てないで綴じてある。だから大冊ではあるが読むところは少い。西田長左衛門と藤井伯民は幸田露伴の弟子で、露葉の古い友である。その縁で蝸牛庵の露伴を再三訪ねているのにただ欄外に西田、藤井、武林と蝸牛庵を訪うとあるのみである。メモである。
武林のこの前後の日記には露伴は相撲好きで『藤井来い』とやせっぽちの藤井伯民に勝って得意だが、元スポーツマンの無想庵にはひとたまりもない。露葉は武林の紹介で岡田(旧姓小山内)八千代、露伴の女弟子田村俊子が来たので浅草の『中清(なかせい)』で馳走して、六区で井上正夫(新派の人気役者)の細君に会ってじゃさよならと別れている。日記に二種あり露葉のそれはメモだからその交友関係が意外に広いのに、私が物心ついたころは訪問客はほとんどなかった。
大正十二年の大震災で財産の過半を失ったのだろう。終日蟄居して書斎にとじこもるようになった。私は中村メイコの父中村正常(まさつね)がほんの四、五年流行作家で、なぜか一枚も書けなくなったのに戦中戦後のなん十年机の前に座して動かなかったと仄聞(そくぶん)して遅ればせながら心を打たれた。ひとたび芸の世界に足をふみいれたら出られない。あれは泥沼である。メイコはその父を尊敬していると聞いた。正常はメイコの子役としての収入で衣食していたはずである。私は正常の心中を思って暗然とした。私自身とくらべてメイコが尊敬の念を失わないのは奇特だと思ったのである。正常が死んだと聞いてこの欄に『正常よ眠れ』を書いたのはこんなわけからだった。」
(山本夏彦著「一寸さきはヤミがいい」新潮社刊 所収)
「私は作者のキャリアは詮索しない方がいいと思うものである。読んで感銘をうけたらそれだけで足りる。作者の経歴を知りたくなるのは人情だが、作品がすべてで、本人はぬけがらであり、カスである、私が半分死んだ人だというゆえんである。
たとえば漱石は兄嫁に惚れていた、それが漱石の作品の謎をとく鍵だと、何かにつけて持ちだされては地下の漱石も迷惑だろう、よしんばそれが発見であったにしても。
私はほとんど出自(しゅつじ)を語らない、いや『無想庵物語』(文芸春秋刊)で、父の唯一の友、失敗した小説家武林無想庵を語ると同時に、もう一人の失敗した詩人山本露葉の大概を書いている。」
「私の父は祖父の築いた財産で生涯金利生活を送った。明治維新で士族の多くは零落したが、祖父のように産をなした者もあったのである。どうせろくなことでなしたのではなかろうと詮索しないから知らない。父は頭のなかは大正デモクラシー、生活は旧式だった。食膳は子供たちとは別にした。子供との間には会話はなかった。
明治四十二年祖父の死を待っていたように、吉原で大尽遊びを始めた。七、八年続いたようだがぴたりとやめた。以後茶室を書斎にして終日とじこもってことりとも音をたてなかった。日記四十巻を残した。それはいわゆる日記ではない。すべて詩と散文の原稿で、推敲に推敲をかさねた順に捨てないで綴じてある。だから大冊ではあるが読むところは少い。西田長左衛門と藤井伯民は幸田露伴の弟子で、露葉の古い友である。その縁で蝸牛庵の露伴を再三訪ねているのにただ欄外に西田、藤井、武林と蝸牛庵を訪うとあるのみである。メモである。
武林のこの前後の日記には露伴は相撲好きで『藤井来い』とやせっぽちの藤井伯民に勝って得意だが、元スポーツマンの無想庵にはひとたまりもない。露葉は武林の紹介で岡田(旧姓小山内)八千代、露伴の女弟子田村俊子が来たので浅草の『中清(なかせい)』で馳走して、六区で井上正夫(新派の人気役者)の細君に会ってじゃさよならと別れている。日記に二種あり露葉のそれはメモだからその交友関係が意外に広いのに、私が物心ついたころは訪問客はほとんどなかった。
大正十二年の大震災で財産の過半を失ったのだろう。終日蟄居して書斎にとじこもるようになった。私は中村メイコの父中村正常(まさつね)がほんの四、五年流行作家で、なぜか一枚も書けなくなったのに戦中戦後のなん十年机の前に座して動かなかったと仄聞(そくぶん)して遅ればせながら心を打たれた。ひとたび芸の世界に足をふみいれたら出られない。あれは泥沼である。メイコはその父を尊敬していると聞いた。正常はメイコの子役としての収入で衣食していたはずである。私は正常の心中を思って暗然とした。私自身とくらべてメイコが尊敬の念を失わないのは奇特だと思ったのである。正常が死んだと聞いてこの欄に『正常よ眠れ』を書いたのはこんなわけからだった。」
(山本夏彦著「一寸さきはヤミがいい」新潮社刊 所収)