今日の「 お気に入り 」 。
" The two most important days in your life are
the day you were born and the day you find out why. "
( Mark Twain )
マーク・トウェインさん ( 1835 - 1910 ) について、フリー百科事典「 ウィキペディア
( Wikipedia )」に 、次のような解説記事が掲載されています 。
「 マーク・トウェイン( Mark Twain 、本名:サミュエル・ラングホーン・クレメンズ
( Samuel Langhorne Clemens )、1835年11月30日 - 1910年4月21日 )は 、
アメリカ合衆国の著作家、小説家 。ミズーリ州出身 。『 トム・ソーヤーの冒険 』
の著者として知られ 、数多くの小説やエッセーを発表 、世界中で講演活動を行う
など 、当時最も人気のある著名人であった 。
ウィリアム・フォークナーは 、『 トウェインが 最初の真のアメリカ人作家であり 、
我々の全ては彼の相続人である 』と記した 。
アーネスト・ヘミングウェイは『 アフリカの緑の丘 』において 、「 あらゆる現代
アメリカ文学は 、マーク・トウェインの『 ハックルベリー・フィン 』と呼ばれる
一冊に由来する 」と述べた 。
来 歴
ミズーリ州フロリダで判事の父ジョン・クレメンズ( John Marshall Clemens )
と母ジェーン・クレメンズ( Jane Lampton Clemens )との間に 、5人兄弟の
3番目として 1835年11月30日に生まれた 。この年ハレー彗星が観測されたが 、
トウェインは後年『 自分はハレー彗星とともに地球にやってきたので 、
" go out with it " , ハレー彗星と共に去っていくだろう 』と周囲の人間に
吹聴している 。クレメンズ家は 、17世紀半ばにアメリカ合衆国バージニア州
に移民した旧家であったが 、破産し経済的にめぐまれなかった 。
家伝によると先祖はチャールズ1世の判事グレゴリー・クレメントだという 。
また 、彼は色弱であった 。
・長男:オーリオン( Orion Clemens , 1825年 - 1897年 )
・次男:プリザント( Pleasant Clemens , 1828年 - 1829年 )
・長女:マーガレット( Margaret Clemens , 1830年 - 1839年 )
・三男:ベンジャミン(Benjamin Clemens , 1832年 - 1842年 )
・四男:サミュエル
・五男:ヘンリー( Henry Clemens , 1838年 - 1858年 )
彼が4歳の時 、一家は出生地から50km程離れたミシシッピ川沿いの町 、ミズ
ーリ州ハンニバルに転居した 。ここは当時舟運で栄え 、ニューオーリンズ
やセントルイスからは人が日夜途絶えることがなかった 。後にこの町とそこ
の住人が 、トウェインの最も有名な作品(『 トム・ソーヤーの冒険 』、
『 ハックルベリー・フィンの冒険 』など )の登場人物と場所のモデルと
なった 。
クレメンズ家は 、テネシー州にいた頃から奴隷を所有していたが 、1820年
のミズーリ妥協のために 、奴隷を彼らの新居に伴うことができた 。トウェ
インにとって女中のジェニーは第二の母親であり 、奴隷の子供たちは遊び
友達であった 。ハックルベリー・フィンと逃亡奴隷のジムの描写は 、こう
した人間関係に由来している 。
父は多くの負債を残して1847年に死去した 。長男のオーリオンはすぐに新
聞の出版を始め 、サミュエルはその手伝いに2年間にわたって従事してい
る 。オーリオンの新聞で最も活発な論争の的になった記事のいくつかは 、
弟のサミュエルの手によるものであるが 、オーリオンが町を離れていると
きに書かれたものであった 。
サミュエルは蒸気船で働いた後 、17歳の時に印刷工として働くため 、故
郷を後にセントルイスへ移った 。1857年に蒸気船の水先人見習 、1858年
には水先人の資格を取得した 。1858年6月 、セントルイスとニューオー
リンズを35日で往復する蒸気船ペンシルヴァニア号がボイラー爆発の事故
を起こした際 、この船に乗船する予定であったマーク・トゥエインは急
遽他の船での仕事に就いており助かったが 、この事故に事務員として乗
船していた弟のヘンリーが巻き込まれ 、ヘンリーは死亡した 。
南北戦争が始まると舟運の激減のために水先人を失業し 、アメリカ連合
国軍に志願 。少尉として従軍するも 、『 マーク・トウェイン自伝 』
( 勝浦吉雄訳 、筑摩書房 )によれば 、疲労による戦闘不能で除隊
( 1940年1月下院では脱走とされる )。1861年には 、兄のオーリオン
がネバダ準州( 現・ネバダ州 )の政務長官に任命されたため 、それ
についてネバダに移る 。その後さらにサンフランシスコに移り 、新聞
記者としていくつかの新聞社で働いている 。この時期特派員としてハ
ワイにも滞在しており 、新聞記事を集めた『 ハワイ通信 』( 1866年 )
を出している 。
1869年には 、新聞に長期連載したヨーロッパ旅行体験記が 、
" The Innocents Abroad "(『 無邪気な外遊記 』、『 地中海遊覧記 』)
で出版され評判となる 。以後も長編旅行記をいくつか出版した 。1870年 、
オリヴィア・L・クレメンズと結婚 。五男一女を儲けるが 、全員両親に
先立っている 。ハートフォード ( コネチカット州 )に居住し多くの作品
を発表するようになった 。1873年に出版した『 金ぴか時代 』は彼の出
世作となるが 、彼の名を不動にしたのは1876年に出版された『 トム・
ソーヤーの冒険 』である 。これで大ベストセラー作家となったトウェ
インは非常に豊かな資産家となるが 、一方で浪費や新発明への見境のな
い投資 、株の投機などで次第にその富は減少していった 。ただし 、
この時期においても1885年の『 ハックルベリー・フィンの冒険 』などの
ようにベストセラーをコンスタントに発表しており 、人気が衰えたわけ
では決してなかった 。
1894年には投資の失敗などにより 、トウェインは破産する 。このとき 、
スタンダード・オイルの副社長だったヘンリー・H・ロジャーズ(『 あし
ながおじさん 』のモデルと言われている )の助力を得て 、資産の再編
成を行った 。この借金返済の一環として 、1895年には世界中で講演活動
を行い 、1897年に出版した『 赤道に沿って 』の印税も全額返済に充て
ることで 、トウェインは借金を完済し再び資産家となった 。1897年には
新聞に「 トウェインが死んだ 」という誤報を流され 、「 私が死んだと
いう報道は誇張である 」( The report of my death was an exaggeration. )
と発表した 。1898年6月15日にはアメリカ反帝国主義連盟のメンバーとなり 、
合衆国のフィリピン併合に反対した 。1906年にはアメリカを訪れたショーレム・
アレイヘムと会っている 。1910年 、死去する 。この年はハレー彗星が75年
ぶりに地球に到来した年であり 、本人が予見した通り 、ハレー彗星と共に
この世を去っていった 。
なお『 あしながおじさん 』で知られる作家ジーン・ウェブスターは 、
トウェインの姪の娘に当たる 。」