「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

人生で一番大事な日は Long Good-bye 2022・01・10

2022-01-10 05:33:00 | Weblog


  今日の「 お気に入り 」 。

   " The two most important days in your life are

    the day you were born and the day you find out why. "

                ( Mark Twain )


  マーク・トウェインさん ( 1835 - 1910 ) について、フリー百科事典「 ウィキペディア

 ( Wikipedia )」に 、次のような解説記事が掲載されています 。

  「 マーク・トウェイン( Mark Twain 、本名:サミュエル・ラングホーン・クレメンズ
   ( Samuel Langhorne Clemens )、1835年11月30日 - 1910年4月21日 )は 、
   アメリカ合衆国の著作家、小説家 。ミズーリ州出身 。『 トム・ソーヤーの冒険 』
   の著者として知られ 、数多くの小説やエッセーを発表 、世界中で講演活動を行う
   など 、当時最も人気のある著名人であった 。

   ウィリアム・フォークナーは 、『 トウェインが 最初の真のアメリカ人作家であり 、
   我々の全ては彼の相続人である 』と記した 。

   アーネスト・ヘミングウェイは『 アフリカの緑の丘 』において 、「 あらゆる現代
   アメリカ文学は 、マーク・トウェインの『 ハックルベリー・フィン 』と呼ばれる
   一冊に由来する 」と述べた 。

   来 歴

   ミズーリ州フロリダで判事の父ジョン・クレメンズ( John Marshall Clemens )
   と母ジェーン・クレメンズ( Jane Lampton Clemens )との間に 、5人兄弟の
   3番目として 1835年11月30日に生まれた 。この年ハレー彗星が観測されたが 、
   トウェインは後年『 自分はハレー彗星とともに地球にやってきたので 、
   " go out with it " , ハレー彗星と共に去っていくだろう 』と周囲の人間に
   吹聴している 。クレメンズ家は 、17世紀半ばにアメリカ合衆国バージニア州
   に移民した旧家であったが 、破産し経済的にめぐまれなかった 。
   家伝によると先祖はチャールズ1世の判事グレゴリー・クレメントだという 。
   また 、彼は色弱であった 。

   ・長男:オーリオン( Orion Clemens , 1825年 - 1897年 )
   ・次男:プリザント( Pleasant Clemens , 1828年 - 1829年 )
   ・長女:マーガレット( Margaret Clemens , 1830年 - 1839年 )
   ・三男:ベンジャミン(Benjamin Clemens , 1832年 - 1842年 )
   ・四男:サミュエル
   ・五男:ヘンリー( Henry Clemens , 1838年 - 1858年 )

   彼が4歳の時 、一家は出生地から50km程離れたミシシッピ川沿いの町 、ミズ
   ーリ州ハンニバルに転居した 。ここは当時舟運で栄え 、ニューオーリンズ
   やセントルイスからは人が日夜途絶えることがなかった 。後にこの町とそこ
   の住人が 、トウェインの最も有名な作品(『 トム・ソーヤーの冒険 』、
   『 ハックルベリー・フィンの冒険 』など )の登場人物と場所のモデルと
   なった 。

   クレメンズ家は 、テネシー州にいた頃から奴隷を所有していたが 、1820年
   のミズーリ妥協のために 、奴隷を彼らの新居に伴うことができた 。トウェ
   インにとって女中のジェニーは第二の母親であり 、奴隷の子供たちは遊び
   友達であった 。ハックルベリー・フィンと逃亡奴隷のジムの描写は 、こう
   した人間関係に由来している 。

   父は多くの負債を残して1847年に死去した 。長男のオーリオンはすぐに新
   聞の出版を始め 、サミュエルはその手伝いに2年間にわたって従事してい
   る 。オーリオンの新聞で最も活発な論争の的になった記事のいくつかは 、
   弟のサミュエルの手によるものであるが 、オーリオンが町を離れていると
   きに書かれたものであった 。

   サミュエルは蒸気船で働いた後 、17歳の時に印刷工として働くため 、故
   郷を後にセントルイスへ移った 。1857年に蒸気船の水先人見習 、1858年
   には水先人の資格を取得した 。1858年6月 、セントルイスとニューオー
   リンズを35日で往復する蒸気船ペンシルヴァニア号がボイラー爆発の事故
   を起こした際 、この船に乗船する予定であったマーク・トゥエインは急
   遽他の船での仕事に就いており助かったが 、この事故に事務員として乗
   船していた弟のヘンリーが巻き込まれ 、ヘンリーは死亡した 。

   南北戦争が始まると舟運の激減のために水先人を失業し 、アメリカ連合
   国軍に志願 。少尉として従軍するも 、『 マーク・トウェイン自伝 』
   ( 勝浦吉雄訳 、筑摩書房 )によれば 、疲労による戦闘不能で除隊
   ( 1940年1月下院では脱走とされる )。1861年には 、兄のオーリオン
   がネバダ準州( 現・ネバダ州 )の政務長官に任命されたため 、それ
   についてネバダに移る 。その後さらにサンフランシスコに移り 、新聞
   記者としていくつかの新聞社で働いている 。この時期特派員としてハ
   ワイにも滞在しており 、新聞記事を集めた『 ハワイ通信 』( 1866年 )
   を出している 。

   1869年には 、新聞に長期連載したヨーロッパ旅行体験記が 、
   " The Innocents Abroad "(『 無邪気な外遊記 』、『 地中海遊覧記 』)
   で出版され評判となる 。以後も長編旅行記をいくつか出版した 。1870年 、
   オリヴィア・L・クレメンズと結婚 。五男一女を儲けるが 、全員両親に
   先立っている 。ハートフォード ( コネチカット州 )に居住し多くの作品
   を発表するようになった 。1873年に出版した『 金ぴか時代 』は彼の出
   世作となるが 、彼の名を不動にしたのは1876年に出版された『 トム・
   ソーヤーの冒険 』である 。これで大ベストセラー作家となったトウェ
   インは非常に豊かな資産家となるが 、一方で浪費や新発明への見境のな
   い投資 、株の投機などで次第にその富は減少していった 。ただし 、
   この時期においても1885年の『 ハックルベリー・フィンの冒険 』などの
   ようにベストセラーをコンスタントに発表しており 、人気が衰えたわけ
   では決してなかった 。

   1894年には投資の失敗などにより 、トウェインは破産する 。このとき 、
   スタンダード・オイルの副社長だったヘンリー・H・ロジャーズ(『 あし
   ながおじさん 』のモデルと言われている )の助力を得て 、資産の再編
   成を行った 。この借金返済の一環として 、1895年には世界中で講演活動
   を行い 、1897年に出版した『 赤道に沿って 』の印税も全額返済に充て
   ることで 、トウェインは借金を完済し再び資産家となった 。1897年には
   新聞に「 トウェインが死んだ 」という誤報を流され 、「 私が死んだと
   いう報道は誇張である 」( The report of my death was an exaggeration. )
   と発表した 。1898年6月15日にはアメリカ反帝国主義連盟のメンバーとなり 、
   合衆国のフィリピン併合に反対した 。1906年にはアメリカを訪れたショーレム・
   アレイヘムと会っている 。1910年 、死去する 。この年はハレー彗星が75年
   ぶりに地球に到来した年であり 、本人が予見した通り 、ハレー彗星と共に
   この世を去っていった 。

   なお『 あしながおじさん 』で知られる作家ジーン・ウェブスターは 、
   トウェインの姪の娘に当たる 。」
  


 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« EXERCISE 運動 L... | トップ | EQUILIBRIUM 平... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事