今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)の著書「完本 文語文」から。
「私は萩原朔太郎の変らぬ崇拝者で、中学一年のとき読んで百雷に打たれる思いをした。
萩原は天才である、萩原の前に詩人なく、あとにもないだろうと少年の私は思った。萩原
の初期の詩集に『愛憐詩篇』がある。なかに『旅上』がある、『桜』がある、『利根川の
ほとり』がある。『旅上』は『ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し』
という名高い字句からはじまる。知らぬ人はあるまいから、これ以上続けない。少年の私が
最も心を打たれたのは『桜』だった。
桜のしたに人あまたつどひ居(ゐ)ぬ
なにをして遊ぶならむ。
われも桜の木の下に立ちてみたれども
わが心はつめたくして
花びらの散りて落つるにも涙こぼるるのみ。
いとほしや
いま春の日のまひるどき
あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを。
(あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを)。これを口語文にしてみれば分る。
ただ冗漫になるのみである。ここにあるのは文語文の妙である。
萩原朔太郎は明治十九年上州前橋に生れ、昭和十七年数え五十七で歿した。谷崎潤一郎と
同い年である。」
(山本夏彦著「完本 文語文」文藝春秋社刊 所収)
「私は萩原朔太郎の変らぬ崇拝者で、中学一年のとき読んで百雷に打たれる思いをした。
萩原は天才である、萩原の前に詩人なく、あとにもないだろうと少年の私は思った。萩原
の初期の詩集に『愛憐詩篇』がある。なかに『旅上』がある、『桜』がある、『利根川の
ほとり』がある。『旅上』は『ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し』
という名高い字句からはじまる。知らぬ人はあるまいから、これ以上続けない。少年の私が
最も心を打たれたのは『桜』だった。
桜のしたに人あまたつどひ居(ゐ)ぬ
なにをして遊ぶならむ。
われも桜の木の下に立ちてみたれども
わが心はつめたくして
花びらの散りて落つるにも涙こぼるるのみ。
いとほしや
いま春の日のまひるどき
あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを。
(あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを)。これを口語文にしてみれば分る。
ただ冗漫になるのみである。ここにあるのは文語文の妙である。
萩原朔太郎は明治十九年上州前橋に生れ、昭和十七年数え五十七で歿した。谷崎潤一郎と
同い年である。」
(山本夏彦著「完本 文語文」文藝春秋社刊 所収)