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私とは何か 「個人」から「分人」へ/平野啓一郎

2013年09月16日 | 読書とか
先日、とあるインタビュー番組で平野啓一郎氏の話を聞いた。
そこで氏が熱心に語っていたのが「分人」というコンセプト。
「個人」の原語"individual"は"in-dividual"-これ以上分けられないという意味。
そこに人としての単位があるという視点に疑問を投げかけるものだ。

人間は、その時間を共に過す相手によって違う顔を持つ。
これは「ホントの自分」と「表面的な存在」という差ではなく、
そのどれもが真実であり、「個人」とは、その集積であるという発想。
(違ってたらスミマセン。でも、そんな複雑なことは提唱していないと思う)

これ、古代ギリシャ科学の「原子論」が
後の科学で書き換えられていく様とダブっても見えるのだが
(あ、専門じゃないのて細かいことは……汗)、
物事の最小単位を見つめ直すことで概念の地層をもうひと堀りしていく、
なかなか新鮮な考え方だった。

人としてのあり方というより、社会的存在としての人間としての指針を持って、
「この手があったか!?」と知らしめてくれる。
俺は「目から鱗」という比喩が嫌いなので使いたくないのだけど
(同時に、これを多用する人もちょっと苦手かもしれない……)、
使うのであれば「今でしょ!」(赤面……)なのだろう。

そう、人としてのプラットフォームを考える上で斬新な一冊で、
基本的には社会科学的な文献と言えると思うのだが、
同時にマーケテングにも全然使えるなという助平心も覚えた。
そう、製品やサービスがもたらす「体験」は、
ターゲット分析で見えてくる「個人」ではなく、
「アニメマニアの外資系ファンドマネージャー」や
「ゴルフ好きのロックスター」のどの部分に響くのか、
その辺に繊細に、謙虚になっていくことが、
これからのビジネスのヒントになるのかもしれない。
(これ、インバウンドマーケティングにも通じるのだろうか)

えーっと、敢えて気になるところを言うとすれば、
「分人」というワーディング。
この響きは、人に語り伝えていく言葉として若干微妙な気がする。
例えば「超個人(ハイパー・インディビジュアル)」とか、どーだろう。
(「素数」と「人」で「素人」てのも考えたけど、「シロート」って読んじゃうし……)
ま、平野氏は単なるバズワードになることなど望んでいないだろうし、
そんなの浅薄な業界周辺人の思いつきとか言われるかもしれないけれど、
この視点が世間に広まって欲しいという気持ちはマジなのさ。

ともかく、色々な人に読んで欲しい一冊です。
よかったら、ここからどーぞ。

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)
クリエーター情報なし
講談社
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