TRASHBOX

日々の思い、記憶のゴミ箱に行く前に。

『ドライブ・マイ・カー』の音に魅せられた

2021年08月31日 | 映画とか
『ドライブ・マイ・カー』、先週2回も観に行ってしまった。
いろいろ語りたいことはあるのだけど(それもまた、この映画の素晴らしいところだと思う)、
効果音フェチの自分としては、こういった音に関する話は大好物だ。

サウンドデザインの野村みきさんは、フランスで音を学んだ方とのこと。
脚本や演出はもとより、音が素晴らしかったことにも納得がいった。
(フランスが凄いというのではなく、音のデザインへのこだわりという意味で)
赤いサーブが北海道の雪の中を走るシーンでは、そのしばらくの無音に鳥肌が立った。

ところでカンヌ映画祭での上映場所は、
下記の濱口監督のコメントにあるように、リュミエールという劇場だったとのこと。
(まあ、カンヌの設備のメインシアターだから当たり前ではあるけれど)
僕自身はカンヌラインズというクリエイティブ系アワードのイチ参加者として何度か行ったことがあるが、
「音としては今までの試写よりもずっと良かったんじゃないか」みたいな話を聞くと、
一度はあそこで観たくなる。
ま、それは無理として、もう1回くらいはどこか都内の劇場で観るんじゃないかな。

ホント、素晴らしい映画でした。

※濱口監督のコメント
リュミエールでの上映は音としては今までの試写よりもずっと良かったんじゃないかと思います。
整音していたときの感覚にすごく近くて。(中略)
たぶんリュミエールという劇場は、映画専門ではないせいか、ちょっとだけ反響があります。
ただ、鳴りすぎない。
そこではそれぞれの音が粒立って聴こえつつも、音の膨らみが復活していて、
個人的には今までで一番良い音だという気がしました。

『ドライブ・マイ・カー』で濱口竜介監督が拡張させた音と演技の可能性


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『ノマド 漂流する高齢労働者』

2021年07月04日 | 読書とか
『ノマド 漂流する高齢労働者』を読んだ。映画『ノマドランド』の原案ともなったノンフィクションだけど、こちらも素晴らしかった。映画にも本人役で登場するリンダ・メイを主軸にさまざまな人々——ノマドという生き方を選んだ、あるいは選ばざるをえなかった——の姿と、その背景にある現代アメリカ社会の一面を描いている。

著者のジェシカ・ブルーダーは、取材の中で自らもキャンピングカー を駆って彼らと寄り添い、またビート(甜菜)の収穫やアマゾンの出荷設備での重労働も経験(ある程度働いて辞めてはいるが、取材としては充分だったのだろう)。まさに「渾身」の作ではあるのだけれど、その語りはどこか軽やかでもある(読んだのは日本語版です。鈴木素子氏の翻訳は、スムーズで読みやすかった)。

各自の状況としては割と悲惨な話が多いのだけど、それを嘆く、あるいは遮二無二立ち向かうというのではなく、現実を受け入れつつ自らの道を拓いていく姿は、クリエイティブでもある。僕はこれが、資本主義、あるいはグローバリズム経済を抜け出す新たな道でもあるように思えた。
本書冒頭には「資本家たちは、自分たちの経済網から抜け出す者を嫌う」(『azdailysun.com』論説委員とのこと)という言葉が引用されている。ネット上の記事などでも指摘されているけれど、リンダ・メイたちは、ほぼヒッピームーブメントと重なる世代だ。これは自分たちのルールで現代を生きていこうとする開拓者たちの姿でもあるのだろう。作品全体に感じるほのかな希望の気配は、そこから醸し出されているのではないだろうか。そんな風に考えると、この物語がとても身近なものに感じられる。映画も素晴らしかったが、この一冊はその根元を鮮明に見せてくれる。

※もちろん物事には多面的な見方があり、彼らに対しても異なる視点もあるのだろう。なんせ僕は、この本をアマゾンのKindleで購入して読んでいる。こんなことも、正誤という話ではなく、世の中の構造を照らすための別の角度として捉えたい。僕も頭のなかで、その辺りをもう少し彷徨ってみようと思う。
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ザ・ライダー

2021年04月10日 | 映画とか
先日の「ノマドランド」に感銘を受けて、クロエ・ジャオ監督の前作「ザ・ライダー」をNetflixで観た(こちらは4月6日で公開終了、Amazon Primeでも観られます)。映画自体については、以下「シネマトゥデイ」から引用します。

「舞台はアメリカ中西部のサウスダコタ。実際にロデオで活躍していた青年、ブレイディ・ジャンドローが自身の身に起きた出来事を北京出身の女性監督、クロエ・ジャオのもとで演じている。ジャオが別の企画でリサーチ中だった2015年にジャンドローと知り合った後に彼が事故に遭い、再会したジャオが彼の物語を映画化した」
出演者たちは、名字こそ違えど実際の人物。どこか「本人による(ほぼ)再現ドラマ」みたいでもあるが、そうではない。事実に基づく物語を本人が演じることで生まれた、れっきとした「創作」だと思う。
言い換えれば当事者と制作者が、映画という枠組みを通じて物語を再構築する試みであり、ジャオ監督の緻密な筆さばきが、事実とフィクションの間の繊細な線を上手く描ききったということなのではないだろうか。
またそのためには、監督は登場人物と同じ地平に立つと同時に、物語全体を見渡す視点ももたなくてはならない。この2つの対岸を行き来するやり方は、新しいクリエイティブであるようにも思える(イーストウッドの『15時17分、パリ行き』は観てないのだけど、なんかそれとは違う気がする、のですよ)。
この辺、ジャオ監督が北京の生まれ、ロンドン、LA、そしてNYCで学んだというクロスカルチャーな背景を持ち出す手もあるのかもしれないが、僕はそんな単純な話ではないと思っている(なんらかの寄与はあっただろうけれど)。ホント、気になる監督だ。
またドラマチックではない、という見方もあるようだけど、そうは思わない。主人公ブレイディの中で大きなドラマが動いていて、それを遠くから双眼鏡で眺めるように見せてもらった、という印象がある。離れているけれど、かなりドキドキしっぱなしだった。
たぶん自分は、映像世界と物語の距離感、みたいなことが気になっているのだと思う。どちらかが、もう一方をなぞるのではなく、演奏と作曲が同時に進んでいくような創作のあり方は心に刺さった。小さいけれどよく研がれて切れ味のよいナイフのような1本だと思う。

公式サイト(英語)はこちらです。特設サイトじゃないのがインディーズ的だけど、コンパクトにまとまっています。
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ノマドランド

2021年04月03日 | 映画とか
結構評判になっているので、ご覧になった方、またはある程度の知識のある方も多いと思う。僕自身は、恥ずかしながら「現代のアメリカのリアルな一面」みたいなお話かと思って観に行ったのだけど、そんな薄っぺらな先入観はふーっと吹き飛ばされた。素晴らしい映画だった。

骨太、という言い方は安易だけど、車上の民となったシニアたちの経済的にも健康面でも厳しい現実から目を背けず、一方で尊厳をもって生きていこうとする彼らの姿をとらえた映像は、僕には美しいものに見えた。

公式サイトの「「アメリカの大自然を背景に、今この時代を希望で照らす」という一節は、いささかおざなりには感じるが、この「希望」とは収入とか健康によって与えられるものではなく、1人の人間として生きること自体に希望があるのだ、ということだと思う。

メインの俳優2人——フランシス・マクドーマンド(ファーン役)とデヴィッド・ストラザーン(デヴィッド役)——以外は実際の「ノマド」の人たちであり、監督は彼ら/彼女たちの息づかいとシンクロするように物語を動かしている。

いや、ホント皆の演技が素晴らしいんですよ。その腕前が気になって、前作「ザ・ライダー」をNetflixで観たら(4月6日で公開終了)、これも素晴らしかった、というか凄かった(この辺は、また別に書きます)。舞台となるアメリカの荒野、そして物語に寄り添う音楽も美しい。もし興味をもったら、是非劇場でご覧くださいませ。
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【メモとして】解像度と暗示性

2020年03月10日 | 広告とか
モノクロの新聞広告なら、コピーは読み手の左脳で完結する。
けれども今の画像の解像度なら、見た瞬間に右脳に着地する。
だから詩的だったり暗示的だったりする言葉は、途中で淘汰されてしまう。

もし手紙だけで恋を育むなら文章の上手い人間の出番だけど、
顔合わせるならそうもいかんだろう、みたいな話。
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バスキア展@森アーツセンターギャラリー

2019年11月10日 | ♪&アート、とか
バスキア展。以前から好きなタイプ(好き、と言い切るまでの知識と熱量はないので控えめに)アーティストだったので、やることは山積みなんだけど、半ばサボり気分で六本木に。平日だけど、そこそこ混んでた(金曜だから?)。

彼の作品には、どうしようもなく素敵な文体や声をもつ書き手や歌い手の仕事に通じる魅力を感じる。描写力とか批評性ではなく。だからアバンギャルドではあるけれど気持ちよく、もし俺も前澤さんような資産家だったら一枚買って飾っておくだろうな(でも、選ぶ絵は違うかも。「自分ならどれ買う?」という妄想もちょっと面白い)。

1984年頃、ちょうど世の中に認められ始めた頃の作品だが、この辺りから構成が上手くなった、というか自分のスタイルが完成してきたように感じた。一方で1980年代半ば以降に画風が変わってきたというのは、その形を脱したかったのだろうか。ある程度名前が売れてから薬物依存がすすんだ、みたいな話も聞くけれど、彼なりの葛藤もあったのか。バスキアだけでなく、神様に選ばれたアーティストの後半戦は、どこか物哀しい。

なんていうか、ちょっとだけ気になったのが、バスキアのキャラクターへの「乗っかり感」。なんかアートっぽくて、でも分かりやすし、なんかイケてる感じ、を利用されているような。無料の音声ガイドも嬉しいけど、「それっぽい」解説はちょっと邪魔。たとえばバブル期の日本をモチーフとした作品に「『日本製品の氾濫は行き過ぎだよ』と感じていたのかもしれません」とか要らなくね?アーティストや作品へのリスペクトは惜しまないが、会場に「森ビルのイベント」的な気配を感じたのは俺が過敏なのだろうか。

でも、若い才能の青臭いエネルギーを感じさせてくれる場であった。改めて気づいたけど、生きていたら俺より少しだけ年上だったのか。タイムマシンがあるなら、あの頃のNYに行ってみたい。
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英語への「苦手意識」の奥にあるもの

2019年10月20日 | 雑感日記
日本人の英語への感覚は、一般的には「苦手意識」という括りでとらえられがちだが、考えてみるとなかなかややこしい。

たとえば昔、どこかの家電量販店で見た光景。いわゆる「白人」の女性が店員さんに「スミマセン、エアコンはどこですか?」みたく、ネイティブではないが、普通に分かる日本語で尋ねた。で、店員さんが「ソ、ソーリー、ノーイングリッシュ」的な答を返す。相手は日本語じゃん、と思うが、彼の頭は「外人=英語」になっているのだろう。

あるいは、「いやー、私は英語が苦手でお恥ずかしい。ハッハッハッ」とか言いながら、多少英語のできる若い部下に無茶ぶりをするオヤジ。入社2、3年目の社員——それも普通の大学出で専門教育を受けているわけではない——に英文契約書とか扱えないだろう。で、「なんだ、英語できるといっても、たいしたことないな」みたいなマウンティングに出たりするわけですよ。

「直訳=正解」という思い込みも意外に多い。以前関わった英文記事の仕事で、ネイティブのライターの文章の単語ひとつひとつを英和辞典で訳して「意味がわからん、おかしい」とクレームをつけてくる依頼主がいた。上記のオヤジと同じで、英語への苦手意識が、どこか歪んだ攻撃性につながっているのだろうか。

一方で、バイリンガルの人間(国籍問わず)に対しては、「日本語上手だけど、ときどき不自然だね」とか「英語は上手いけど仕事はね」みたいな重箱の隅っこ捜索隊となるのも興味深い。単にビジネスの仲間として普通に接するのは大変なのことなのでしょうか。仕事の上で言うべきことは、きちんと伝えるなり指摘するなりして。

なんていうか、英語という「異物」への意識は、他の存在に対しても通じる体質のような気がする。それは価値の判断を他社との比較に委ねる体質とも言えるだろう。個としての自律性が脆弱というか。これ、時代的にはますますマズイ事になる気がする。日本語がきちんと使える、というのは素晴らしいことだ。本質を見ようよ。
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あなたの脳のしつけ方/中野信子(2015)

2019年10月18日 | 読書とか
脳科学者の中野信子氏による、ある種の「脳のトリセツ」。でも脳という器官が人間の思考や行動におよぼしている影響を考えると、「人間のトリセツ」と呼んでもいいかもしれない。ただ著者が「はじめに」の章で「自分自身のありように苦しみながら、なんとか脳科学の知識を使って、自分の脳を『しつけ』てきた、その結晶」と述べるように、このベースとなっているのが中野氏自身のかなり高性能の脳だと思うとちょっと身構てしまう……が、実際のところ、なかなか面白くて読みやすい一冊だった。

もの凄く乱暴にいうと、自分の悩みや問題を、性格や気質のせいにするのではなく、「だって脳ってこういうもんだもん」と考えてみよう、という提案。この視点設定が、我ら日本人の苦手な部分では。以下、自分で気になった箇所を抜き書き的に。

集中力って奴は、それ自体を鼓舞するよりも、集中をそぐものを減らす方のが有効。机の上を片付けて、SNSのアプリは閉じておこう。そして継続した作業の場合、あえて中途半端で止めるとより強い印象として残る(リトアニアの学者の名前から「ツァイガルニク効果」というそうな)。そして他の論者も口にすることだけど、「ともかく始めてみる」のが大事。

「ジョハリの4つの窓」理論は面白かった。他人は知らないであろう秘密を指摘されると(本人の自覚の有り無しに関わらず)、指摘した人間への親密度が高まる(「モテる」状態)という話。これ、村上春樹氏が小説の執筆にあたり、人間の自我を家に例えて「近代的自我のさらに下にある地下2階に降りていく」と述べた話につながる気がする(川上未映子氏との対談『みみずくは黄昏に飛びたつ』の91ページ)。

右脳と左脳。前者は全体像を、後者はディテールを見る。だからといって、創造性との関わりは科学的には確認されていない、という話。で、ときどき「エセ脳科学」的な分かったような話を耳にするのだけど、人間の脳というか意識と行為なんて、やたら変数が多い話なので、科学的には確認されていないといった留保をつけてくれるのはありがたい、というかこれが科学者としての誠意だと思う。随分前に飲み屋で近くに座っていたカップルの男の方が、「だから女性は脳科学的に管理職に向いてないんだよ」みたいなことをいってたけど、そんな男とはさっさと別れた方が未来が開けると思うぞ。

「努力」は「才能」、というか脳の構造の違い。それは「報酬」をイメージできる能力であり、逆に「面倒くさい」のも才能。だいたい便利なシステムとか、面倒くさがり屋の発明だったりする。そして「ネガティブな感情の方が駆動力は大きい」というのも気に入ったなぁ。自己啓発的というか意識高い系というか、薄っぺらいポジティブ思考ってしっくりこないんだよね。

そして、努力をゲームにする。あるいは「ゲームを変える」という発想。これこそ「脳のトリセツ」の実践編なんじゃないだろうか。これ、気に入った。「頑張らなくちゃ」や「カイゼンしよう」とか呟くよりも、「ゲームを変えるぞ」という方が楽に動ける気がする。ちなみにこれ、先日の「SWITCHインタビュー 達人達 沢則行×宮城聰」で、いじめといったネガティブな事態に対して「台本を変える」といういい方をしていたことを思い出させる。日本人って、自分も含め、ちょっと1カ所に根を生やしすぎなのかもしれない。

とまあ、こんな考えや気づきを受け取りながら読み進めたのだけど、気持ちが軽くなる読後感がナイスでした。これはマーケティング的な観点も含め、編集者のディレクションの上手さともいえるだろう。

ところで余談的に考えて、脳のトリセツがあるなら、逆トリセツというか、間違った運用もありえるのではないだろうか。世間では良い人とか真面目で誠実な人、みたくいわれていた人間が「なぜあんな酷いことを」といった出来事の背景には、脳の使用法を間違って「最初は(本当に)しつけのつもりが、どこかで虐待にすり替わった」みたいなこととか、もっといえば、意図的に相手を間違った方向に操ることも可能ではあるのだろう。もちろんその手の言説もけっこうあるし、その辺としては中野氏も共著として名を連ねている『脳・戦争・ナショナリズム : 近代的人間観の超克』も読みたい一冊だ。

ま、ともかく脳について考えることは面白くもある。さて、今日もよく働いてくれた脳にリラックスしてもらうために、ビールでも飲みますかね。

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「有名税」なんて払わなくていい

2019年08月30日 | 気になるコトバたち
先日話題になったあるアマチュアのアスリート、自分ではなく家族を批判するようなSNSの投稿に不満を述べたら、「有名税だから我慢しろ」みたいな内容のリプがあった。何だそれ。

有名無名関係なく、言われて嫌なことは嫌に決まっている。もちろん、プロのお笑い芸人が「ギャグつまんねー」と言われるのは違う。その人間が勝負している本筋以外の部分、特に家族などのプライベートに突っ込んでくる権利は誰にもない。

もうひとつ言っておくと、何かくだらないことを言ってくる人間だけでなく、「有名税だから仕方ない」と当事者でもないのに容認する傍観者もタチが悪い。消極的にではあるけれど、そういう行為を認めていることになるのが分かっているのだろうか。

ともかく、こんな思考停止ワードの落とし穴には気をつけようよ。まあ、俺は一生無縁だと思うけど。
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『日記の魔力』表三郎(2004年)

2019年06月16日 | 読書とか

また自己啓発ものかよ、といわれてしまいそうだけど、かなり実用的な一冊ではあった。何が実用的かというと、「日記を書こう」と思わされること。それだけ?ともいわれそうなので書いておくと、「書く意味への納得感」が、この一冊にはあった。以下、ちょっと気になった箇所を抜き書きしていこう。(※ページ数は単行本のもの)

セルフイメージは「真実の自己」とズレていく(32-33)

→人間、意外に自分のセルフイメージにしばられている。特に反省する傾向の強い人間は、他者から見ると「そこまで悪く考えることないんじゃね?」みたいなこともしばしば。これ、シンプルにもったいない。

事実上の自分を発見したときに感じた「落胆」は、真実の自分に対する評価ではない。虚像を実像だと思い込んでいたことに対する「落胆」に過ぎない。(38)

→この「落胆」を起点にすると、次の方向性が間違っちゃうんだよね。

ある日突然変わるというのは、実は変化でなく他人の意見を受け入れたに過ぎない。(54−55)

→「人は少しずつ変わる」という話なのだけど、急に極端な意見を言い出す人には多そうだ。SNSで「あれ、この人こんな偏った考え方する人だったってけ?」という場合は、誰かの影響を短絡的に受けている可能性も大きい。

日記で一生懸命内省しても、人は変わらない。(68)

→うーん、これあるよなぁ。日記という名の後ろ向きなマスターベーションになってる場合もあるだろう。

「具体」ということの中心は、実は「肯定」することにあるのだ。(69)

→この「肯定」は、何も「何でもOK!」ではなく、あるがままに、に近い視座だと思う。

事実記録を残すうえで大切なのは、「時間」を必ず記憶しておくということだ。(95)

→これは時間の使い方の下手くそな自分にも効果がありました。レコーディングダイエットに通じる気がする。

生活が乱れているから、心に迷いが生じるのだ。(127)

→教条的だけど、自分の「型」をもつことの大事さでもある。イチローのルーティーンみたいな。この辺は、『ぼくたちは習慣』の土台になっているのでは。日記は自分のコンディショニングでもあるのだろう。

日記を「書く」のが客観化であるならば、日記を「読む」のはそれを再び「主観化」する作業だといえる。(150)

→後は読み返すことの意味。未読だけど前田裕二氏の『メモの魔力』の、検証を重ねる思考にも通じる気がする(というかタイトルも似てるし)。

後は物事を楽しむためには『つなげていく過程』を楽しむ」みたいな話は、学術理論を音楽に置き換えるとある種のDJみたいな行為であり、そういう意味ではどちらもクリエイティブな営みなのだと思う。

まあここで語られている日記は、どちらかというと「日誌」。同著作にも書かれているが、人生の航海日誌みたいなもの。肩肘張らず、淡々と粛々と、でも誠実に、というところだろう。

でも、その継続が与えたくれるものはなかなか魅力的だ。 ということで日記を付け始めました。ところで先日『ぼくたちは習慣』で書いたブログが一週間ぶりになってしまったのだが、せめて日記はきちんとつけなくちゃ……。

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"Again"について

2019年06月09日 | 気になるコトバたち

ある番組で、最近ニューヨークで立ち上がったウェブサービスの話を見た。その内容はともかく、創業者の"make shopping fun again"という言葉が耳に残った。オンラインでのモノの購入が一般的になってきた今の世の中で、もう一度買い物の楽しさを提供したい——なかなか素敵な試みだなと思った。

で、それはそれとして、前述の言葉に現在の米国大統領トランプ氏のキャッチフレーズ"make America great again"を思い出した。もちろん件の創業者の言葉は、それとは無関係だろう。単に一般的な英語のフレーズとして発せられただけだと思う。

ただ、この"again"という発想は要注意だなとも感じた。世の中は動き続け、後ろに戻ることはない。温故知新も古きものの良さを再認識するのも、素晴らしいことだと思う。ただしそれは、あくまで現状に照らし合わせてアップデートされている必要がある。たとえば伝統技術の伝承において、徒弟制度的なシステムの良さもあるだろう。ただ今の世の中で、昔とまったく同じ倫理観は通用しない。

それからもうひとつ、"again"という言葉は、実際にはそうでもなかったことも「そういえば、そうだったかも」と思わせてしまうことがある。昔は本当にそうだったのか?どこかで根拠なきノスタルジーとの混同はないか。"Again"とか「〇〇を再び」のような言説の奥に何があるのか、それはそれで気をつけておきたい。



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『億男』川村元気(2014)

2019年06月08日 | 読書とか

読み終えて(というか終盤にさしかかっての)感想が「やられた!」だった。そこに至る伏線は十分にあったのに、なぜ気づかなかったのだ、と自分の阿呆さ加減が嫌になると同時に、著者の川村さんの上手さにまんまと転がされた(褒め言葉のつもり)と思った。これが先日のインタビュー番組でご本人が仰っていた、「肩書きが分からない」人がもつ技なのかもしれない。

文体としては妙な癖がなくスムーズで巧み。前半は何ていうか、なで肩の伊坂幸太郎氏風でもあり、程よい心拍数のドキドキ感をかき立てられた。最後の方で主人公の一男の別居中の妻や娘の描写は、どこか村上春樹氏の筆跡を思い起こさせる。けれどもそれらは借り物のようでもなく、きちんと大きな流れのなかで機能している。そう考えると、やはり川村氏の土台は「プロデューサー」なのだなぁと感じた(といいつつ、その後のご活躍をフォローできていないので何とも言えないのだけど)。個人的には、今度は『どちらを選んだのかはわからないが どちらかを選んだことははっきりしている』を観たいです。

 

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『ぼくたちは習慣で、できている。』佐々木典士(2018)

2019年06月07日 | 読書とか

人は困ったときに自己啓発本を読む生き物だ。もしそうでないなら、少なくとも自分はそうだ。というわけで、今回もいろいろ困ってました。問題はあまりに時間の使い方が酷すぎて、仕上げるべきことがまったく進まない。今までの失敗したプロジェクトの記憶が頭をよぎる……なんだか借金返済のために馬券を買ってるような気がしないでもないが、溺れる者はいろいろ手を出すのですよ。

とはいえ、(今のところ)収穫はあったと思う。簡単に言えば「意志や情熱で生きるのではなく、まず習慣を作り上げ、それに身を任せろ」みたいな話だ。ふーん、で、そんな収穫あったの?と言われそうだが、この本なかなかよくできている。

何がよくできているかというと、単なる習慣づくりのノウハウではなく、習慣の有効性の背景が「構造」として書かれてあるからだ。たとえば「不安が意志力を減らす」という項目には、こんな風に書かれている。

自分が決めたやるべき習慣ができないと、自己否定感や不安が生まれる。そして意志力が失われるので、なおさら次の課題に取り組めなくなるという悪循環にハマってしまう。(p.43)

またあるいは、「不安は消えない、不安とうまくつきあう」には、以下の一節がある。

フリーランスになって仕事や貯金残型の不安が襲ってくるのは「実際に減った」ときではなく、「手応えのある仕事ができず、ダラダラしてしまった1日の終わりに襲ってきた」「ぼくが後悔したことをきっかけに、不安は襲いにきたのである」。(p.310)

つまり、「どう習慣を作るか」というHowではなく、「なぜ習慣が有効か」というWhyを述べることで、読者は自ずと自らの習慣を作る必要を感じる流れを作っている。で、「あー、やっぱり自分も習慣を作らなくては。どーすれば良いのか、早く知りたい!」となったとろに、いわゆる「実践編」である3章の「習慣を身につけるための50のステップ」がくれば、待ってました!となるわけだ。

ところで最初に「手っ取り早く『習慣化のコツ』だけ知りたいという人は3章だけ読むのもオススメです(p.11)」とあるが、実際にそう読む人は少ないのではないか。で、1章で「意志力の問題」を考え、2章で「習慣とは何か」を考えることで、この本を読むこと自体が疑似的な習慣体験として、その達成感を味わえるというメタ構造になっているとも言えるだろう。もちろん、著者がこういった手練手管を考えていたというよりは、担当編集者の勘のなせる技では、と想像している。

それから要所ごとに配置されている引用の絶妙な距離感(ベタすぎず、かけ離れすぎず)や硬軟の加減も技ありで、この辺は著者自身の編集者としての勘所なのだろうか。腕のいいDJがいい感じのリフをインサートするみたいでもある。

ということで、自分も常々アウトプットしなくちゃと思いつつ放置プレイだったブログにこんな感想を書いてみた。はたしてこれは習慣化するのか!?

※出版社サイトはこちら(アフィリエイトではありません)
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その人の物差し

2019年05月28日 | 創作

ある日、若者2人が電車の中で話をしていた。将来の話だった。安定した大企業に勤めたいとか、でもブラックや社畜はいやだとか、いっそ起業して自分の会社を経営したいとか、ミニマルライフで自由に生きたいとか、矛盾も何も気にせず楽しそうに語り合っていた。

実は俺は超能力者で、人の心が読める。ただその2人の頭のなかは極めてシンプルで、ただネットや雑誌で見聞きした話題や仲間から聞いた知識を適当に組み合わせて再生しているだけで、夢も欲望も志も見あたらなかった。ある意味、禅の境地かよ、と思ったくらいだ。 退屈したので、周りの人間の心を読んでみた。するとこっちはバラエティに富んでいる。分かりやすいよう、箇条書きでご説明しよう。

A(男、50台)ガキだな、今どきの若い奴は。会社、じゃなくて社会はもっと厳しいぞ。そんなんで入れる会社なんかあるもんか。

B(女、30台)あー、日本の若者って子どもね。私が住んでたアメリカだと、皆自分で目標立てて、しっかり行動してるのに。これじゃ、ますます世界に通用しなくなるわね。

C(男、40台)東京の若者って、やっぱりチャラいな。俺の田舎じゃ、親や親戚、地元の仲間とのつきあいや気配りで、そんな風に好き勝手やってられないよ。一度地方で暮らしてみればいいんだ。

D(女、60台)もう子どもでもないのに、自分のことだけじゃなくて国の将来を考えているのかしら。ちゃんと経済回して安全守ってくれないと、今までの私たちの頑張りが水の泡だわ。だから外から変な人がいっぱい来るのよね。

ふーむ、どうやら同じ風景を見ていても、それぞれの物差しで見え方が変わってくるんだな。ところで皆、さっきから通路に立っているお腹の大きな女性と、その隣の足が不自由で杖を突いたご老人の姿が見えてないのか。では少し離れているが、俺が席をお譲りしよう……おや?

(若者2人)あ、どうぞおかけください。気がつくのが遅れてすみませんでした!

なるほど、頭のなかはシンプルだが、人を思いやることは知ってるみたいだな。まあ、せいぜい頑張れよ。

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私的読食録/角田光代、堀江敏幸

2019年03月03日 | 読書とか
この本、先日買ってちびちびと読んでいる。軽く読めて楽しめる、と思っていたのだけど、意に反して重い。でもそれはネガティブなものではなく、両氏が見せてくれる、プロの文章力に押されて感じる重さだ。

もちろん、小難しい理屈や自分勝手な嗜好や価値観の披露は一切ない。素直に作品に向き合い、そこに自分の思いを適度に和えていくという、ある意味で家庭料理を作るように書かれた言葉がならんでいるだけだ。

しかし引用文の選び方や、その向こうに見えてくる風景や心象の描かれ方は、「小説家」のモードを離れた、読み手として、そして物書きとしての凄みを感じさせる。

それは例えばプロボクサーのミット打ちのように、一流のプレイヤーが陰で蓄えている技の埋蔵量を思い起こさせる。彼らの小説のなかで触れる言葉のきらめきは、そのエッセンスなのだろう——その感銘を、こんな風に理屈っぽく書いてしまう自分の筆力がなかなか寂しくはあるけれど。



私的読食録
角田光代、堀江敏幸
プレジデント社
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