TRASHBOX

日々の思い、記憶のゴミ箱に行く前に。

3時間睡眠

2024年07月22日 | 雑感日記
久々の3時間睡眠。
とある論文が遅れに遅れていた。
それでも、ちゃんと書けるとは思っていなかった。
でも書けた。
もちろん、どんな「ちゃんと」なんだよ、というのはまず自分で突っ込み入れてます。
でもいいか、書いて出したんだし、とりあえず。

『悪は存在しない』——とりあえず覚書として

2024年05月19日 | 映画とか
まずオープニングから、不穏な空気が醸し出されていた。その一因は、『Drive My Car』で「意気投合」した石橋英子氏の音楽にもあるのだろう。決して強く主張するものではないのに、一見素朴な自然の風景に、不安定な予兆を与えて知らん顔をしている。

その空気は、音楽とともに全篇を通じて流れ続ける。しかしチューニングが合ってくると、その不穏が自分のなかで共鳴しはじめる。筋書きを述べずに書くと分かりにくいのだけれど(あるいは自分の筆力不足か)、これは不穏と向き合うことで開かれる扉についての語りだと感じた。

ただし、その扉の先も相変わらず暗く、ようやく次に展開したかと思えばエンドロールであったりする。やられた。自分はちゃんと観られてなかったんじゃないか、と考えたりもした。

でも、そういうことではないのだろう。見せかけの解を拒否するような空気が、この一本には張り詰めていた。悪は存在しない。でも不穏は常にそこにあるものなのだ。その不穏と歩み、口あたりの良い「物語」に巻き込まれるな——それがこの映画の底に流れている、地下水のようなものかもしれない。

※唐突だけど、ちょっと『落下の解剖学』を思い出した。こちらはあくまでリアリズムの世界をはみ出さないけれど、本作の境界は、そこにこだわっていない。

『バービー』は、少しだけ自分の話でもあった(と思う)

2023年09月11日 | 映画とか
先日観てきた『バービー』、面白かった。最初この映画について耳にしたときは、単にアメリカンなザッツ・エンターテイメントかと思っていたのだけど、知人の方やソーシャルメディアでフォローしている人たちのコメントを聞いていて、だんだ気になってきたわけです。
※配給会社によるソーシャルメディアでの件は承知していますが、映画自体とは切り離して語られるべき問題だと思ってます。

見始めてすぐに感じたのは、設定の巧妙さ。女性の可能性が花開いているバービーの世界から、「裂け目」を通ってたどり着いたのは「男社会(※字幕から)」。バービーはその違いに戸惑い、一緒に来たケンは、それまで「添え物」的な存在であった男が世の中を動かしていることに感嘆して、俺様な世界観に目覚めてしまう。この逆転の構造、単純ではあるけれど、世の中の現状をチェックポイント的な視点で見せる手法として成功していると思う。そう言われれば、そりゃそうだよな、みたいな(「ミラーリング戦略」みたいな言い方もあるそうだけど、その辺は詳しくありません)。

この映画については、多くの評論や感想がそのフェミニズム的視点を指摘しており、それは基本的に真っ当な感覚だと思う。一方で、ひとりひとりが現実世界に感じる違和感——いわゆる「生きづらさ」的な——にも語りかける作品になっていると感じる。バービー的な世界観とは接点のない僕も、着々と感情移入してしまった。

特定のメッセージ性をもちながらも普遍性も備えていることが良い映画や創作物の条件だとすると、『バービー』は間違いなくそのひとつだろう。興業としては若い人を対象としているのだろうが、幅広い層——ホント老若男女の皆さんに——観て欲しい。

一方で、描かれることの矛盾点——「変てこバービー」への排他的視点とか、サーシャの母グロリアが表す母性など——への指摘も散見されるが、これは「矛盾上等!それが映画(≒人生)さ」という話だと僕は思っている。この辺含めて、竹田ダニエルさんの映画評が素晴らしいので、ご興味あれば読んでみてください。

ある意味、シュガーコーティングされた梅干しを食べちゃったみたいな読後感ではあるが、これは今の映画だな、と思うと同時にグレタ・ガーウィグ監督の才能と力量に惹かれる。世界観の構築だけでなく、演者の表情の使い方とか演出も上手いと思うんですよね。アマプラで『レディ・バード』観なくちゃ。

※それから、この辺は話題作ならではというか、音楽は相当カッコいいです。サントラ聴いてるだけでハイボール三杯はいけるな。

>以下、竹田ダニエルさんの映画評から引用
『バービー』は紛れもなくフェミニスト映画であり、グレタ・ガーウィグ監督も記者会見でそのように肯定*している。そうである以上はフェミニズム映画としてのコンテクストでクリティカルに議論される筋合いは当然ある。しかし同時に、現実世界でも解決がない家父長制の問題の「解決」を描くことは不可能でもあり、この作品自体が「完璧」であったり、何かしらの「正解」を提示する必要もないはず、というのは最初に申し添えておきたい。

いろいろ嫌になってます

2023年07月14日 | 雑感日記
いやー、しかし呆れちゃったなぁ。
「いまどきハンコ」みたいな話を聞くことは結構あるけれど、それはまだまだ序の口だったのだ。
序の口というか、表面というか。
その奥に、とんでもないのが潜んでる気がする。


「好き/嫌い」と「推し(押し)/引く」の間に

2022年12月25日 | 気になるコトバたち
言葉遊び的考察ではあるけれど、「あんなこと言われたら引くわー」とかの「引く」と
「○○推し」の「推し」の心理的な背景は近いんじゃないだろうか。
「推し≒押し」という前提で考えると、今の時代は「好き/嫌い」ではなく
「押す/引く」という距離感の取り方が好まれているように感じるのだ。

その違いは、前者(好き/嫌い)という感情がある程度のコミットメントを伴う一方で、
後者(押す/引く)は第三者的な立ち位置を維持できことだ。
感情を発露するシステムとして「コスパ」が良いというか。

ただこれ、良し悪しとかではなく、変化への観察として捉えたい。
そういうあり方を要請している世の中への対応であり、
これもまた「生存戦略」のひとつではないだろうか。
そして今の疑問は、「推し」を極めると「好き」になるのか、ということ。
おっと、宇佐美りんさんの『推し、燃ゆ』をまだ読んでなかったぜ。

昔ファンクラブというのがあってだな

2022年12月04日 | 雑感日記
そういえば、ファンクラブという言葉を聞かない気がする。
変わって何があるかといえば、フォロワー(数)じゃないだろうか。
またその周辺の用語として、「信者」と「アンチ」というのもあるな。

思うに、誰かとその人(あるいはグループやその他何らかの存在)を好きで支持する人たちの思いを回収し、またそのエネルギーを活用するシステムとしてファンクラブはあったように思うのだが、今その機能は、往々にしてネット上で果たされている。
自分自身は誰かのファンクラブに入っていたことはないが、パートナーは昔、THE BLUE HEARTSのファンクラブの一員で、優先的にライブの告知を受け取ったりしていた(そのおかげでマーシーのコンサートを前から3列目で観たことがある)。

もちろん、いまも「ファンクラブ」という仕組みは存在している。
検索するとすぐに出てくるのがJhonny's net——あのジャニーズのファンクラブだ。
詳しくは知らないが(大昔、CMの仕事で某マネージャーに随分怒られた記憶があるが)、管理体制の厳格な「企業」であると思う。
ただし公的な性格は薄く、個人オーナー的専政体制みたいな印象がある(この辺は想像です)。
何が言いたいか、というと、いわゆる「会社」の形が昭和的なヒエラルキーから、業務やプロジェクトを遂行するためのより目的の遂行に即した有機的なものになりつつあるのと同じく、「ファン」を収束する形も変わりつつあるのではないか、ということだ。

まあ、まだこの2022年(令和4年)においても、「昭和97年年度」の会社も多いみたいだけどね。
「ファンクラブ」の話に戻ると、それは「スター」という言葉の減衰とも重なっているのだろう(もちろん、より一般的な用語としての「スター」は残っているとして)。
一方で、昭和懐かしいブームみたいななか、ファンクラブというシステムの戦略的な復活はあるのかもしれない。
もう誰かが手がけているかもしれないけれど。

偶然と想像——実は緻密に巧まれた短編たち

2021年12月19日 | 映画とか
17日の金曜、『偶然と想像』の初日を東急文化村のル・シネマで。
なんと同館初の邦画とのことだが、なんとなく納得。
もしかしたら、「邦画も上映したいが、初めてにふさわしい作品は」みたいな模索もあったのだろうか。

それはともかく、素晴らしい1本だった。
第一話の「魔法(よりもっと不確か)」から、会話の緊張感に魅せられた。
一歩踏み間違えば落っこちてしまう塀の上をひょいひょい歩いて行くような、心の際のやりとり。
決して心地よいわけではないのだが、心をつかまれる。

第二話「扉は開けたままで」の心理的な二転三転を経て、
第三話「もう一度」のヒリヒリするようなファンタジーを見終えてのカタルシス。
振り返れば、この順番も巧みだなぁ。

初日のゲストとして登壇した第三話の出演者、占部房子さんと河井青葉さん(濱口監督は隔離中のため電話参加)。
占部さんは、「何度も本読みをしたので、撮影中も隣に監督がいるみたいだった」とコメント。
なんだか役者の中に染みこんだテキストが、画面を通じて浮かびあがってきたようにも感じられた。

濱口監督の演出に対して、一部では「棒読み」との批判もあるらしい(監督自身も、そういう話をインタビューで述べていた)。
しかし表面的な抑揚ではなく、テキストの芯をどう羽ばたかせるかという点では、このやり方は有効なのかもしれない。
この点、まずほとんどの観客が字幕で理解する海外での賞で高評価を獲得していることともつながるのではないだろうか。

たぶん、しばらくは関連記事やインタビューを見つけて読むのが楽しみになりそうだ。
濱口監督の仕事は、作品そのものにくわえて、創作の根っこにある厚みにも物語を感じる。まだまだ目が離せないなぁ。

※公式サイトは、こちら

『ドライブ・マイ・カー』の音に魅せられた

2021年08月31日 | 映画とか
『ドライブ・マイ・カー』、先週2回も観に行ってしまった。
いろいろ語りたいことはあるのだけど(それもまた、この映画の素晴らしいところだと思う)、
効果音フェチの自分としては、こういった音に関する話は大好物だ。

サウンドデザインの野村みきさんは、フランスで音を学んだ方とのこと。
脚本や演出はもとより、音が素晴らしかったことにも納得がいった。
(フランスが凄いというのではなく、音のデザインへのこだわりという意味で)
赤いサーブが北海道の雪の中を走るシーンでは、そのしばらくの無音に鳥肌が立った。

ところでカンヌ映画祭での上映場所は、
下記の濱口監督のコメントにあるように、リュミエールという劇場だったとのこと。
(まあ、カンヌの設備のメインシアターだから当たり前ではあるけれど)
僕自身はカンヌラインズというクリエイティブ系アワードのイチ参加者として何度か行ったことがあるが、
「音としては今までの試写よりもずっと良かったんじゃないか」みたいな話を聞くと、
一度はあそこで観たくなる。
ま、それは無理として、もう1回くらいはどこか都内の劇場で観るんじゃないかな。

ホント、素晴らしい映画でした。

※濱口監督のコメント
リュミエールでの上映は音としては今までの試写よりもずっと良かったんじゃないかと思います。
整音していたときの感覚にすごく近くて。(中略)
たぶんリュミエールという劇場は、映画専門ではないせいか、ちょっとだけ反響があります。
ただ、鳴りすぎない。
そこではそれぞれの音が粒立って聴こえつつも、音の膨らみが復活していて、
個人的には今までで一番良い音だという気がしました。

『ドライブ・マイ・カー』で濱口竜介監督が拡張させた音と演技の可能性



『ノマド 漂流する高齢労働者』

2021年07月04日 | 読書とか
『ノマド 漂流する高齢労働者』を読んだ。映画『ノマドランド』の原案ともなったノンフィクションだけど、こちらも素晴らしかった。映画にも本人役で登場するリンダ・メイを主軸にさまざまな人々——ノマドという生き方を選んだ、あるいは選ばざるをえなかった——の姿と、その背景にある現代アメリカ社会の一面を描いている。

著者のジェシカ・ブルーダーは、取材の中で自らもキャンピングカー を駆って彼らと寄り添い、またビート(甜菜)の収穫やアマゾンの出荷設備での重労働も経験(ある程度働いて辞めてはいるが、取材としては充分だったのだろう)。まさに「渾身」の作ではあるのだけれど、その語りはどこか軽やかでもある(読んだのは日本語版です。鈴木素子氏の翻訳は、スムーズで読みやすかった)。

各自の状況としては割と悲惨な話が多いのだけど、それを嘆く、あるいは遮二無二立ち向かうというのではなく、現実を受け入れつつ自らの道を拓いていく姿は、クリエイティブでもある。僕はこれが、資本主義、あるいはグローバリズム経済を抜け出す新たな道でもあるように思えた。
本書冒頭には「資本家たちは、自分たちの経済網から抜け出す者を嫌う」(『azdailysun.com』論説委員とのこと)という言葉が引用されている。ネット上の記事などでも指摘されているけれど、リンダ・メイたちは、ほぼヒッピームーブメントと重なる世代だ。これは自分たちのルールで現代を生きていこうとする開拓者たちの姿でもあるのだろう。作品全体に感じるほのかな希望の気配は、そこから醸し出されているのではないだろうか。そんな風に考えると、この物語がとても身近なものに感じられる。映画も素晴らしかったが、この一冊はその根元を鮮明に見せてくれる。

※もちろん物事には多面的な見方があり、彼らに対しても異なる視点もあるのだろう。なんせ僕は、この本をアマゾンのKindleで購入して読んでいる。こんなことも、正誤という話ではなく、世の中の構造を照らすための別の角度として捉えたい。僕も頭のなかで、その辺りをもう少し彷徨ってみようと思う。

ザ・ライダー

2021年04月10日 | 映画とか
先日の「ノマドランド」に感銘を受けて、クロエ・ジャオ監督の前作「ザ・ライダー」をNetflixで観た(こちらは4月6日で公開終了、Amazon Primeでも観られます)。映画自体については、以下「シネマトゥデイ」から引用します。

「舞台はアメリカ中西部のサウスダコタ。実際にロデオで活躍していた青年、ブレイディ・ジャンドローが自身の身に起きた出来事を北京出身の女性監督、クロエ・ジャオのもとで演じている。ジャオが別の企画でリサーチ中だった2015年にジャンドローと知り合った後に彼が事故に遭い、再会したジャオが彼の物語を映画化した」
出演者たちは、名字こそ違えど実際の人物。どこか「本人による(ほぼ)再現ドラマ」みたいでもあるが、そうではない。事実に基づく物語を本人が演じることで生まれた、れっきとした「創作」だと思う。
言い換えれば当事者と制作者が、映画という枠組みを通じて物語を再構築する試みであり、ジャオ監督の緻密な筆さばきが、事実とフィクションの間の繊細な線を上手く描ききったということなのではないだろうか。
またそのためには、監督は登場人物と同じ地平に立つと同時に、物語全体を見渡す視点ももたなくてはならない。この2つの対岸を行き来するやり方は、新しいクリエイティブであるようにも思える(イーストウッドの『15時17分、パリ行き』は観てないのだけど、なんかそれとは違う気がする、のですよ)。
この辺、ジャオ監督が北京の生まれ、ロンドン、LA、そしてNYCで学んだというクロスカルチャーな背景を持ち出す手もあるのかもしれないが、僕はそんな単純な話ではないと思っている(なんらかの寄与はあっただろうけれど)。ホント、気になる監督だ。
またドラマチックではない、という見方もあるようだけど、そうは思わない。主人公ブレイディの中で大きなドラマが動いていて、それを遠くから双眼鏡で眺めるように見せてもらった、という印象がある。離れているけれど、かなりドキドキしっぱなしだった。
たぶん自分は、映像世界と物語の距離感、みたいなことが気になっているのだと思う。どちらかが、もう一方をなぞるのではなく、演奏と作曲が同時に進んでいくような創作のあり方は心に刺さった。小さいけれどよく研がれて切れ味のよいナイフのような1本だと思う。

公式サイト(英語)はこちらです。特設サイトじゃないのがインディーズ的だけど、コンパクトにまとまっています。

ノマドランド

2021年04月03日 | 映画とか
結構評判になっているので、ご覧になった方、またはある程度の知識のある方も多いと思う。僕自身は、恥ずかしながら「現代のアメリカのリアルな一面」みたいなお話かと思って観に行ったのだけど、そんな薄っぺらな先入観はふーっと吹き飛ばされた。素晴らしい映画だった。

骨太、という言い方は安易だけど、車上の民となったシニアたちの経済的にも健康面でも厳しい現実から目を背けず、一方で尊厳をもって生きていこうとする彼らの姿をとらえた映像は、僕には美しいものに見えた。

公式サイトの「「アメリカの大自然を背景に、今この時代を希望で照らす」という一節は、いささかおざなりには感じるが、この「希望」とは収入とか健康によって与えられるものではなく、1人の人間として生きること自体に希望があるのだ、ということだと思う。

メインの俳優2人——フランシス・マクドーマンド(ファーン役)とデヴィッド・ストラザーン(デヴィッド役)——以外は実際の「ノマド」の人たちであり、監督は彼ら/彼女たちの息づかいとシンクロするように物語を動かしている。

いや、ホント皆の演技が素晴らしいんですよ。その腕前が気になって、前作「ザ・ライダー」をNetflixで観たら(4月6日で公開終了)、これも素晴らしかった、というか凄かった(この辺は、また別に書きます)。舞台となるアメリカの荒野、そして物語に寄り添う音楽も美しい。もし興味をもったら、是非劇場でご覧くださいませ。

【メモとして】解像度と暗示性

2020年03月10日 | 広告とか
モノクロの新聞広告なら、コピーは読み手の左脳で完結する。
けれども今の画像の解像度なら、見た瞬間に右脳に着地する。
だから詩的だったり暗示的だったりする言葉は、途中で淘汰されてしまう。

もし手紙だけで恋を育むなら文章の上手い人間の出番だけど、
顔合わせるならそうもいかんだろう、みたいな話。

バスキア展@森アーツセンターギャラリー

2019年11月10日 | ♪&アート、とか
バスキア展。以前から好きなタイプ(好き、と言い切るまでの知識と熱量はないので控えめに)アーティストだったので、やることは山積みなんだけど、半ばサボり気分で六本木に。平日だけど、そこそこ混んでた(金曜だから?)。

彼の作品には、どうしようもなく素敵な文体や声をもつ書き手や歌い手の仕事に通じる魅力を感じる。描写力とか批評性ではなく。だからアバンギャルドではあるけれど気持ちよく、もし俺も前澤さんような資産家だったら一枚買って飾っておくだろうな(でも、選ぶ絵は違うかも。「自分ならどれ買う?」という妄想もちょっと面白い)。

1984年頃、ちょうど世の中に認められ始めた頃の作品だが、この辺りから構成が上手くなった、というか自分のスタイルが完成してきたように感じた。一方で1980年代半ば以降に画風が変わってきたというのは、その形を脱したかったのだろうか。ある程度名前が売れてから薬物依存がすすんだ、みたいな話も聞くけれど、彼なりの葛藤もあったのか。バスキアだけでなく、神様に選ばれたアーティストの後半戦は、どこか物哀しい。

なんていうか、ちょっとだけ気になったのが、バスキアのキャラクターへの「乗っかり感」。なんかアートっぽくて、でも分かりやすし、なんかイケてる感じ、を利用されているような。無料の音声ガイドも嬉しいけど、「それっぽい」解説はちょっと邪魔。たとえばバブル期の日本をモチーフとした作品に「『日本製品の氾濫は行き過ぎだよ』と感じていたのかもしれません」とか要らなくね?アーティストや作品へのリスペクトは惜しまないが、会場に「森ビルのイベント」的な気配を感じたのは俺が過敏なのだろうか。

でも、若い才能の青臭いエネルギーを感じさせてくれる場であった。改めて気づいたけど、生きていたら俺より少しだけ年上だったのか。タイムマシンがあるなら、あの頃のNYに行ってみたい。

英語への「苦手意識」の奥にあるもの

2019年10月20日 | 雑感日記
日本人の英語への感覚は、一般的には「苦手意識」という括りでとらえられがちだが、考えてみるとなかなかややこしい。

たとえば昔、どこかの家電量販店で見た光景。いわゆる「白人」の女性が店員さんに「スミマセン、エアコンはどこですか?」みたく、ネイティブではないが、普通に分かる日本語で尋ねた。で、店員さんが「ソ、ソーリー、ノーイングリッシュ」的な答を返す。相手は日本語じゃん、と思うが、彼の頭は「外人=英語」になっているのだろう。

あるいは、「いやー、私は英語が苦手でお恥ずかしい。ハッハッハッ」とか言いながら、多少英語のできる若い部下に無茶ぶりをするオヤジ。入社2、3年目の社員——それも普通の大学出で専門教育を受けているわけではない——に英文契約書とか扱えないだろう。で、「なんだ、英語できるといっても、たいしたことないな」みたいなマウンティングに出たりするわけですよ。

「直訳=正解」という思い込みも意外に多い。以前関わった英文記事の仕事で、ネイティブのライターの文章の単語ひとつひとつを英和辞典で訳して「意味がわからん、おかしい」とクレームをつけてくる依頼主がいた。上記のオヤジと同じで、英語への苦手意識が、どこか歪んだ攻撃性につながっているのだろうか。

一方で、バイリンガルの人間(国籍問わず)に対しては、「日本語上手だけど、ときどき不自然だね」とか「英語は上手いけど仕事はね」みたいな重箱の隅っこ捜索隊となるのも興味深い。単にビジネスの仲間として普通に接するのは大変なのことなのでしょうか。仕事の上で言うべきことは、きちんと伝えるなり指摘するなりして。

なんていうか、英語という「異物」への意識は、他の存在に対しても通じる体質のような気がする。それは価値の判断を他社との比較に委ねる体質とも言えるだろう。個としての自律性が脆弱というか。これ、時代的にはますますマズイ事になる気がする。日本語がきちんと使える、というのは素晴らしいことだ。本質を見ようよ。

あなたの脳のしつけ方/中野信子(2015)

2019年10月18日 | 読書とか
脳科学者の中野信子氏による、ある種の「脳のトリセツ」。でも脳という器官が人間の思考や行動におよぼしている影響を考えると、「人間のトリセツ」と呼んでもいいかもしれない。ただ著者が「はじめに」の章で「自分自身のありように苦しみながら、なんとか脳科学の知識を使って、自分の脳を『しつけ』てきた、その結晶」と述べるように、このベースとなっているのが中野氏自身のかなり高性能の脳だと思うとちょっと身構てしまう……が、実際のところ、なかなか面白くて読みやすい一冊だった。

もの凄く乱暴にいうと、自分の悩みや問題を、性格や気質のせいにするのではなく、「だって脳ってこういうもんだもん」と考えてみよう、という提案。この視点設定が、我ら日本人の苦手な部分では。以下、自分で気になった箇所を抜き書き的に。

集中力って奴は、それ自体を鼓舞するよりも、集中をそぐものを減らす方のが有効。机の上を片付けて、SNSのアプリは閉じておこう。そして継続した作業の場合、あえて中途半端で止めるとより強い印象として残る(リトアニアの学者の名前から「ツァイガルニク効果」というそうな)。そして他の論者も口にすることだけど、「ともかく始めてみる」のが大事。

「ジョハリの4つの窓」理論は面白かった。他人は知らないであろう秘密を指摘されると(本人の自覚の有り無しに関わらず)、指摘した人間への親密度が高まる(「モテる」状態)という話。これ、村上春樹氏が小説の執筆にあたり、人間の自我を家に例えて「近代的自我のさらに下にある地下2階に降りていく」と述べた話につながる気がする(川上未映子氏との対談『みみずくは黄昏に飛びたつ』の91ページ)。

右脳と左脳。前者は全体像を、後者はディテールを見る。だからといって、創造性との関わりは科学的には確認されていない、という話。で、ときどき「エセ脳科学」的な分かったような話を耳にするのだけど、人間の脳というか意識と行為なんて、やたら変数が多い話なので、科学的には確認されていないといった留保をつけてくれるのはありがたい、というかこれが科学者としての誠意だと思う。随分前に飲み屋で近くに座っていたカップルの男の方が、「だから女性は脳科学的に管理職に向いてないんだよ」みたいなことをいってたけど、そんな男とはさっさと別れた方が未来が開けると思うぞ。

「努力」は「才能」、というか脳の構造の違い。それは「報酬」をイメージできる能力であり、逆に「面倒くさい」のも才能。だいたい便利なシステムとか、面倒くさがり屋の発明だったりする。そして「ネガティブな感情の方が駆動力は大きい」というのも気に入ったなぁ。自己啓発的というか意識高い系というか、薄っぺらいポジティブ思考ってしっくりこないんだよね。

そして、努力をゲームにする。あるいは「ゲームを変える」という発想。これこそ「脳のトリセツ」の実践編なんじゃないだろうか。これ、気に入った。「頑張らなくちゃ」や「カイゼンしよう」とか呟くよりも、「ゲームを変えるぞ」という方が楽に動ける気がする。ちなみにこれ、先日の「SWITCHインタビュー 達人達 沢則行×宮城聰」で、いじめといったネガティブな事態に対して「台本を変える」といういい方をしていたことを思い出させる。日本人って、自分も含め、ちょっと1カ所に根を生やしすぎなのかもしれない。

とまあ、こんな考えや気づきを受け取りながら読み進めたのだけど、気持ちが軽くなる読後感がナイスでした。これはマーケティング的な観点も含め、編集者のディレクションの上手さともいえるだろう。

ところで余談的に考えて、脳のトリセツがあるなら、逆トリセツというか、間違った運用もありえるのではないだろうか。世間では良い人とか真面目で誠実な人、みたくいわれていた人間が「なぜあんな酷いことを」といった出来事の背景には、脳の使用法を間違って「最初は(本当に)しつけのつもりが、どこかで虐待にすり替わった」みたいなこととか、もっといえば、意図的に相手を間違った方向に操ることも可能ではあるのだろう。もちろんその手の言説もけっこうあるし、その辺としては中野氏も共著として名を連ねている『脳・戦争・ナショナリズム : 近代的人間観の超克』も読みたい一冊だ。

ま、ともかく脳について考えることは面白くもある。さて、今日もよく働いてくれた脳にリラックスしてもらうために、ビールでも飲みますかね。