TRASHBOX

日々の思い、記憶のゴミ箱に行く前に。

私的読食録/角田光代、堀江敏幸

2019年03月03日 | 読書とか
この本、先日買ってちびちびと読んでいる。軽く読めて楽しめる、と思っていたのだけど、意に反して重い。でもそれはネガティブなものではなく、両氏が見せてくれる、プロの文章力に押されて感じる重さだ。

もちろん、小難しい理屈や自分勝手な嗜好や価値観の披露は一切ない。素直に作品に向き合い、そこに自分の思いを適度に和えていくという、ある意味で家庭料理を作るように書かれた言葉がならんでいるだけだ。

しかし引用文の選び方や、その向こうに見えてくる風景や心象の描かれ方は、「小説家」のモードを離れた、読み手として、そして物書きとしての凄みを感じさせる。

それは例えばプロボクサーのミット打ちのように、一流のプレイヤーが陰で蓄えている技の埋蔵量を思い起こさせる。彼らの小説のなかで触れる言葉のきらめきは、そのエッセンスなのだろう——その感銘を、こんな風に理屈っぽく書いてしまう自分の筆力がなかなか寂しくはあるけれど。



私的読食録
角田光代、堀江敏幸
プレジデント社
コメント

働き方改革は、関係性の改革でもある

2019年01月08日 | 雑感日記
以前「高プロ制度」に対して「働かせ放題だ」という批判、突っ込みのコメントを見聞きした。これはこれで、一理あると思うのだけど、今回のテーマは少し別のところにあります。先日打合せをしていたとき、企画を評価していただいた先方から「では上長にも提案を通したいし、上の担当部長にも話しておきたいので、あと2回ほどミーティングに出てもらえないか」という話があった。もちろんお話自体はとてもありがたいのだけど、なんせそこの本社は新幹線で行く場所。移動もろもろ考えれば、ビジネスタイムとしてはほぼ一日仕事。そんな急にいわれても、貧乏暇なしのオイラには即答できかねます、ハイ。

で、ここで微妙なのが相手との関係性。ゴーマンかます(古い?)気は毛頭ないのだが、ここはフェアでイーブンな立場でベストなパフォーマンスを発揮してコミットしたいわけですよ。一方で、比較的お付き合いの新しいお得意様で、今後に向けて少し頑張っておきたいという気持ちある。こんなお悩み、皆さんにもありませんか?

言ってみれば、働き方改革とは所属する組織内での制度や意識の検証だけでなく、対外的な関係性にまで目を向けなける必要があるのではないか、ということ。ほら、発注元の大手は定時に帰れるパールホワイトでも、その下請けは残業まみれのピュアブラック、みたいな話もあるし。これに対処するには、マネージメントと現場の風通しの良さが重要になると思う。意志決定者には、お役所の方ではなくチームの状態を見て欲しい。またチームは、経営判断につなげられるよう客観的な言葉や表現で問題を伝える必要がある。さらにマネージメント側は、ビジネス相手である発注者あるいは受注者と具体的な対応を取り決めなくてはいけない。ま、その業種にもよるけれど、この関係性改革は結構重要なんちゃうかなぁ(なぜ関西弁?)。
コメント

カードとしての「代案出せ」

2019年01月05日 | 気になるコトバたち
どうもそう言われたら、『アニー・ホール』のダイアン・キートンはいいですよね、と答えている場合じゃなさそうだ。たとえば最近では、終末医療についてある対談を起点とする議論に関して「日本の医療費はもう限界で、まさに『無理ゲー』。反対するなら代案を出せ」みたいな発言を目にした。正直、またか、と思った。問題発生の初期段階には、論理的、常識的、直感的、感情的などなどあらゆる角度からの見解が提示されるべきで、まずできるだけ多くの要素をテーブルの上に置くことが不可欠だ。それを並べている最中に結論の不在を批判するのは、なんていうか鍋料理の最初から締めのおじや(味によってはラーメンも美味しいですね)を出せと言っているみたいにも聞こえる。

もちろん、単なる反論のための反論は建設的ではない。ただし議論には(ちょっと誤解を招くかもしれないけれど)「型」というものがあって、それは意見の異なる他者が言説を共有するためのシステムでもあるはずだ。近頃の「代案出せ」カードの使われ方には、芽を出し始めた思考や感情をいきなり踏みつけてのしたり顔(最近は「ドヤ顔」って言うんだっけ?)が浮かんでくる。ともかく状況と課題を提示して、参照可能な知見を並べていきやしょうぜ。決して楽しい宴とはいかないかもしれないけれど、まずは新鮮な具材の揃い踏み、というのが鍋料理の醍醐味でもある訳で。あー、お腹空いてきたなぁ。
コメント

あけましておめでとうございます

2019年01月04日 | 雑感日記
新年、あらたまって何か書くようなブログでもないし、果たして定期的に読んでくれている人がいらっしゃるのか、はなはだ心許くもある。ただキーボードを打つ口実として、年に一度のこの機会を乱用してみようか、などと。

「新年の誓いは無意味」みたいな一節を、とあるカジュアルな自己啓発系の本で目にした。それはその通りだと思う。「新年の」「今期の」みたいな時期に寄りかかった宣言って、それ自体が自己充足的な性格を伴っている気がする。ある意味、「誓いを立てる仕事」みたいな面が。そういえば中学生の頃、夏休み前に一日の計画を立てて先生に見せるのだが、「お前のは計画のための計画で実現性がない」みたいなことを言われたなぁ。もうあまり覚えていないけれど、お前は合格ラインギリギリの難関校受験生かというくらい、無理矢理勉強の時間を詰め込んでいた。全然やらなかったけど。

さっき「カジュアルな自己啓発」と書いたけど、最近の流行として語り口はマイルドで大きなことを目指さない、少しだけ自分の生活の質を上げていこうというようなジャンルが増えているのだろうか。なんか「あなたにも無理なくできるダイエット」みたいですね。

生き方に上手い下手があれば、自分はかなり低レベルな気がしていて、こういったノウハウが気になるタイプのくせに、なんか違和感が捨てきれない。ま、見苦しいというか、潔くないというか、それをエライとか思ってはいないが、なんか「効率」という物差しをもってこられるのが苦手なようだ。結局のところ、自分がいかにシステムにフィットするか、という視点を脱しきれていない気がする。

まあそれは、昔のあの手の本には根性論や無茶苦茶な夢物語を駆動力とするものが多かったので、その反動というか、反省という流れもあるのだろう。でも「飽きる」という機能を考えると、また妙な精神論が跋扈しそうな気配もあって、ちょいと気になる今日この頃。

ほどほど、って難しい。それがもっとも大人な態度じゃないんだろうか。とりあえず今年は、大人のほどほどを目指します、と言ってみたりする。
コメント

プロジェクトとしての『ボヘミアン・ラプソディー』

2018年11月24日 | 映画とか

※2018年11月24日の投稿です。

今日11月24日はフレディ・マーキュリーの命日。映画『ボヘミアン・ラプソディー』については既に多くの方がコメントされているけれど、少し自分なりに書いておきたい。ちなみに家人の血中クイーン濃度はかなり高めです。

フレディを軸とする前半部分はいたって普通というか、正直ちょっと退屈した。ま、もちろん映像としての展開や描写はしっかりしていて、きちんとしたチェーン店の料理のような印象でもあった。ただ、これは後半部分だけど、ライブ・エイド直前にフレディと厳格な父親が抱擁しあう場面は、うるっときた。彼が本名のファルーク・バルサラに戻った一瞬だったのだろうか。

といいつつ、これは見るべき価値のある一本だった。なんならもう1、2回くらい劇場に足を運んでもいい。それは彼らの楽曲自体が主役(というか「主演」と呼びたい)としての活躍を見せてくれているからだ。音楽シーンを舞台とした映画には素晴らしい作品も多いけれど、そこで流れる楽曲は、純粋なドキュメンタリーを除くと、往々にして脇役的な存在に感じられる※。でも『ボヘミアン・ラプソディー』のなかのメロディーやリズムたちは、その文脈で流れることに強い意味があった。ま、「この時期にこの曲は出てなかったのでは?」みたいなのはあったけど。

そういう意味ではライブ・エイドは物語のクライマックス。下のリンクは実際の映像だけど、あらためて映画の後で見ると感慨が深まる。

構想から8年を要した製作の過程では、キャストやスタッフの選定がかなりゴタゴタして、しまいには監督のブライアン・シンガーが撮影終了の2週間前に解雇、とこれはこれで話題に事欠かないようだ。そういう点ではひとりの作家の思いに貫かれたといった作品ではなく、ある意味でクイーンという「集合知」としての映像だと感じる。

要は「クイーン」という超ユニークなコンテンツを、どう料理するかということなのだと思う。切り方によっては冷徹なドキュメンタリーであったり(それはそれで見たい)、各自が歌っちゃうミュージカルみたいだったり(今度のエルトン・ジョンの映画はそんな感じらしいです)、といろいろあるだろうけれど、ボップであることに重きを置けば、この調理法は正解だといえるだろう。ちなみに渋谷陽一氏もよく言うけれど、ロックにとってポップミュージックであることはとても重要だと思ってます。

ちなみに今日の日比谷の「"胸アツ"応援上映(歌詞の字幕付き。拍手、手拍子、発声全部OK)」の回は売り切れ。きっと凄いことになっているんだろうなぁ……。

※などと言いつつ、なんせ寡聞なもので、良い音楽映画があったらご教示ください。個人的には『Almost Famous(邦題:あの頃ペニーレインと)/2000年』や『ラブ&マーシー/2015年』など好きでした。



Queen - Live at LIVE AID 1985/07/13 [Best Version]


コメント

『ポルト』〜永遠の一夜の物語

2018年11月17日 | 映画とか
WOWOWで録画鑑賞。ジャームッシュ特集的な一連のシリーズのひとつだった。とはいえこの映画では「制作総指揮」、エグゼクティブ・プロデューサーで監督として変わっている訳ではなく、ちょっとこういうのには気をつけている。特に有名どころの(ま、ジャームッシュはいつまでたってもインディーズな立ち位置を崩さないけど)「肩書き参加」は要注意だなと、正直なところ少し思っていた。でもその予想は正しくはなかった。

ストーリーは、単純にいってしまえば、お互いの異国で出会った男と女の一夜の逢瀬。でもその一夜は時の流れから外れて、二人のなかに漂っている。たとえば川のなかの水草や藻の絡まり具合のせいで生じた渦につかまり、いつまでも流れていかない落ち葉のような記憶。そこでぐるぐると回り続けているその落ち葉は哀れなのか、あるいは幸せなのか、そんなことを考えつつ、つい目が離せない。そんな感覚が残った。

ところで異国という設定はありふれてはいるが、この映画の街(ポルトガルの第2の都市ポルト)は、登場人物たちのなかに深く根を張っている、ちょっとやっかいな異国でもある。

男(外交官だった父の都合で子どもの頃からポルトガルに住んでいるアメリカ人のジェイク・クリーマン。演じるのは昨年27歳の若さでこの世を去ったアントン・イェルチン)にとっては、住み慣れてはいるが、決して心を通わせられる街ではない。女(考古学を学ぶフランス人で、ポルトガル人の教授にプロポーズされてここに来た)にとって、ポルトは自分で選んだ街ではなく他者——かつては婚約者であり後には別れた夫、それから一夜を過ごしたアメリカ人——との接点としての場所でしかない。

この「異国」では、時間の流れがねじれて、あるいは凝縮されてしまうのだろうか。極めてシンプルな男と女の話が、この磁場のせいか一風変わった余韻を放っている。

いってみれば、ナイーブなお話なのだろう。でもそのナイーブさを構造的に昇華している——ときたま日本の映画で見かけるような雰囲気頼みの仕上げ方ではなく——ところには拍手したい。もしかしたら、この辺がジャームッシュの手腕だったのだろうか。あくまで推測だけど。

そしてもうひとつ、映像は美しい。「映像は」と書いたのは、どこか技法的な巧みさ——関連記事によると機材は8㎜、16㎜、35㎜のものを使い分けているそうだ——が目について、そこでお茶を濁しているような気もしたからだ。きれいな万華鏡を通して向こうを見ているような、そしてその向こうにある風景は意外に普通だったりする、そんなイメージもなくはない。ただ、これを『ストレンジャー・ザン・パラダイス』よろしくモノクロで撮ったら、ちょっとヒリヒリする作品になっていた気がする。

そんなこんなを、いろいろ考えさせてくれる一本。そしてそれは、割と楽しい行為でもありました。どこかで機会があれば、どうぞ。公式サイトはこちらです。

コメント

「ダブルスタンダード」という思考停止

2018年11月12日 | 気になるコトバたち
SNSなどでのやりとりで「それはダブルスタンダードだ」という向きの批判や非難(場合によっては言いがかり)を目にすることがある。Twitter上では「ダブスタだろ!」っていう言い方も見かけますね。

確かに「二重規範」は、公正な世の中の発展を妨げる。特定の属性の人々を侮辱しつつ「国をひとつに」などと述べる某指導者に対しては、特大サイズのフォントを使って投稿したい。誰もが納得する基準なんてないけど、どこかできちんと握っていこう、そしてそのうえで最大限のハッピーをつかもう、というのが大人なやり方だと思う。

ただ、なんか誰かに絡みたいだけの「ダブスタ発言」を見ていると、それは違うんじゃないかと思う。具体例は出さないけど、人なら当然の迷いや、物事の前提条件を無視した発言は、その概念の悪用でしかない。飲食店でさんざん迷惑なふるまいをしておいて「客にはサービスするもんだろう」って暴れる連中と、根っこの部分では同じだ。

ちなみに俺自身の基準でいうと、「公に関わる客観的な事柄は厳密に。個人の心情的な部分には、それを理解する姿勢を」という感じ。もちろん個人の心情であっても、それが間違っていると考えるのであれば批判もまた当然の行為だと思う。

ところで例の消費税(食品の持ち帰りは8%でイートインなどは10%)、あれはどうなるんでしょうね。もしかしたらテーブルや椅子を備えたスペースが「有料休息所。ただし○○で商品ご購入の方は無料」みたいな感じでオープンしたりして。なんだかパチンコの景品交換システムみたいだけど。


コメント

『華氏119』〜現代アメリカの不穏と希望

2018年11月10日 | 映画とか

マイケル・ムーア監督の最新作『華氏119』を。映画としての出来映えには気になるところもあったけれど、描かれている題材はリアルで深刻。単なるトランプ批判ではない、と私は感じました。監督の真意は、多くの人が泡沫候補だと見ていたドナルド・トランプの当選をある種のメタファーとして、「最大の悲劇は気づかないうちに忍び寄ってくる」ことを訴えることだったのでは。

印象に残ったのは、エマ・ゴンザレス(フロリダ州の高校で起きた銃乱射事件の体験者で、銃規制を訴えた)や、アレクサンドリア・オカシオ=コルテス(中間選挙で下院議員に立候補して当選)などの活き活きとした描き方。『ボウリング・フォー・コロンバイン』でも感じたのだけど、ムーア監督はそういった若い声と力への愛情と信頼を強く持っているのだと思います。ただ、その思いと、監督自身の主張がもうひとつ上手くブレンドされていないような読後感も。いいバンドのリズムセクションのような、いつもは後ろで鳴っているユーモアが少し控えめだったなぁ、という感じです(今回のテーマはかなり深刻なものではありますが)。

ところでタイトルのもととなった日付の11月9日(トランプが大統領選の勝利宣言を行った日)だったのは偶然ですが、1938年のこの日はドイツでの「水晶の夜」(反ユダヤ主義の暴動)が、そして1989年はベルリンの壁が崩壊した日でもあるのですね。

公式サイトはこちら
コメント

『ニューヨーク美術案内』千住博、野地秩嘉(2005)

2018年10月18日 | 読書とか
まずはアマゾンの「内容紹介」から。

メトロポリタン、MoMA、チェルシー…画家と巡る「美術の課外授業」

「美術館だけはつまらん。退屈です。そう思いませんか」
「一緒に美術館へ行きましょう。美術館には、ちゃんと楽しみ方があるんです。それを教えましょう」

画家は絵を描くだけの人ではない。描く前に数多くの美術作品に接し、作品を消化吸収している人だ。そういった人に同伴してもらえばきっと美術館も楽しい場所になる……。(「プロローグ」より)

――ゴッホ、モネ、ルノアールからデュシャン、リヒター、ロバート・ゴーバーまで、実際に作品と対話し、その読み解き方、楽しみ方を解説する。今までにない、最高に贅沢な美術ガイド。


……というお話ではあるのだけど、気どらない、でも鋭い批評性を潜ませた、画家ならではの絵との向き合い方だ。たとえば、「いい美術館は壁の色と照明に配慮がある」という話は、美術館自体の空間としてのナラティブの重要性を示唆していて、一部の日本のデパートの特設会場の豪華版みたいな環境が哀しくなる。一方で「神と対話するかのように、あるいは祈るように描いたゴッホ」や「対象の温度や時間といった見えないものまでとらえていたモネの眼のすごさ」など、画家の肉体を通して発せられる言葉は心に残る。

なかでも印象的だったのは、ジャコメッティの章で書かれていた彫刻の見方についての一文、「見る者が彫刻の周りにどれだけ深々とした空間を感ずることができるか」。長年のぼんやりとした問いが、すーっと解けた気がした。こういう人と一緒に美術館に行くと楽しいだろうなぁ。

また「相方」の野地氏が、千住氏の教えのおさらいとして、ひとり美術館を訪ての所感はどこか初々しくて素敵だ。そして「美術館巡りのお昼はホットドッグ2個小とパパイヤジュース」という千住氏のおすすめのような少し外したエピソードは、読み物としての楽しさをふくらませてくれる。

気軽に読めて楽しい、というと軽く響くかもしれないけれど、極めて高い感性と知性をもって生み出された一冊だと思う。あー、ニューヨークに行って美術館巡りがしたくなっちゃいました(我ながら予想通りの感想だけど……汗)。
ニューヨーク美術案内 (光文社新書)
千住博、野地秩嘉
光文社


コメント

ロブ・カーマンとモデルの吉田くん(仮名)

2018年10月14日 | 雑感日記
随分前の話だけど、ときどき思い出す人がいる。その頃自分はぱっとしないコピーライターで(仕事自体は一所懸命にやってた、はず)、あるポスターの撮影で千葉の海のある辺り……九十九里だったのか、も少し近くだったのか、皆目記憶にないのだけど、ともかくロケバスにスタッフ5、6人で乗り込んで、日帰りで移動した。

ファッション系のポスターで、モデルとして参加したのが吉田くん(というか、実はまったく名前を覚えていないのだけど、何かとっかかりがないと文章を書けてないので、勝手にこの名前にさせてもらう)だったのだが、当時30歳前後でその頃の自分と近い年齢で、なんとなく親しめた。確かにスラッとしたハンサム・ガイなんだけど人当たりが良く、逆に「モデルなんだから、もう少しそれらしい雰囲気あった方がいいんじゃないかな」などとお節介な印象をもったりした。

一緒に過ごした時間のほとんどは、移動のロケバスの中。話題が当たり障りのないトンネルを抜けたころ、なぜだか格闘技の話になった。なんと吉田くん(仮名)はキックボクシングのジムに通っていて、試合を見るのも好きだとのこと。そこそこの格闘技ファンだった自分と(ネットが一般的でなかった当時、雑誌『格闘技通信』と『週刊プロレス』、東スポは毎号網羅していて、それなりに知識はあった)、お互い「ロブ・カーマンはすごい」という見解が一致して、すっと距離が縮まった。

ロケ自体は、なんというか淡々と粛々と。ささやかな時間と予算を丁寧に使って、無事終了。残念ながら(?)ここで端のあるエピソードはない。吉田くんは都内のターミナル駅あたりでロケバスを降り、自分はアートディレクターと一緒に事務所まで行って残りの進行の打合せをして家路についた。

後日、当時の勤務先だった広告代理店に吉田くんから郵便物が届いた。ロブ・カーマンがヨーロッパで出場した試合のビデオだった。簡単なお礼のメッセージが添えられていたが、字はあまり上手じゃなかった気がする(人のこと10000%言えない悪筆ですが)。嬉しかった。家で早速見て、お礼を、と思ったとき、つい興奮して封筒を捨ててしまっていたことに気がついた。一体どこにお礼を届ければいいのか。

結局、アートディレクターにモデル事務所の住所を聞き、「先日のお礼」として葉書を出した。でもこういう、個人的なお礼はあまりよろしくないのかもしれない。それが吉田くんの目に触れたかどうか分からないし、そうだったとしても、それからやりとりが続くような熱量は残っていなかった。でも、あのとき封筒を捨てるべきではなかったのだ(捨てる、というつもりすらなかったのだけど)。

今のキックや格闘技ファンで、ロブ・カーマンの名前を知っている人は少なくなってきたと思うけれど、今でも好きな選手だ。今は多くの選手がやっている上下クロスの攻撃(左のパンチの後で右のローキックとか)は、当時はロブ・カーマンの代名詞だった。その無口で実直なキャラクターとバランスの良い攻撃とのギャップは、どこかイケメンなのに気さくな吉田くんを思い起こさせる。彼はリングで、どんな闘い方をしていたのだろうか。

ところで、たまの「リアカーマン」という曲があるのだけど、これを聴くと(ってそんなに回数聴いてないけど)、「ロブ・カーマン〜♪」って聞こえちゃう方は世界中で自分だけでしょうか。
コメント

カスタマーサービスの鈴木さん

2018年10月13日 | 雑感日記
パソコン関係で分からないことがあるとき、ちょっと困ったとき、可能な場合はカスタマーサービスに電話をする。最近は直接人と話せるサービスが減っているし、まず窓口となる電話番号さえない場合も多い。また有料プランのユーザーだったり、それを使うための敷居も高くなっている。企業経営として合理的なやり方だとは思うし、もし自分がそういうサービスのマネージャーだったら、同じような設定をするかもしれない(まあ、そういうケースは起こりえないけど)。

随分昔、あるソフトウェアのインストールがどうしても上手くいかず、試しに製品DVDのパッケージにあった番号に電話した。まず、いわゆるコールセンターの女性(単に事実として書いているだけで、この部分に偏見はありません)が電話に出て「初期不良以外は有料となる。1件につき4,000円です」とクールに言われてしまった。自分としては、ソフト自体は立ち上がったものの、その先にっちもさっちもな状態なので納得いかなかったけど、急ぎであり、一応その費用は経費にできそうだったので、とりあえず有料であることを承諾し、指定された番号に電話をした。

そこで対応してくれたのが鈴木さんという男性だった。でも実はその辺うろ覚えで、もしかしたら佐藤さんか田中さんだったかもしれない。そんな感じの、まったく驚く必要のないお名前であったはずだ。鈴木さんの声は落ち着いているけれど、どこか不安を感じさせる細めの声で、勝手な想像で痩せて眼鏡をかけた30前後の男性の姿を思い浮かべていた。

インストールは思っていたより厄介だった。理由のひとつは自分のパソコンのセッティングが結構イレギュラーなものだったからだと思う。例えばOSがMac上で組んだ仮想のWindowsだったり、日本語入力が親指シフト(って知ってますか?)だったりと、場合によっては「そのような場合はご対応できません」と言われても仕方ないかもしれないものだった。

それでも鈴木さんは、「そうですか、では私もそういう場合のことを調べてみます」といって自分なりに仕組みを調べてくれたり、ひとつひとつの長いステップを切らずにつきあってくれたりした。自分は「進んだらかけ直しましょうか?」とも言ったのだが、「途中で出るメッセージが分かりにくいので、よろしければこのままお待ちします」とつきっきりで面倒を見てくれた。

まあ自分の方も、なるべく状況を見えるように、具体的な見え方や出てくる言葉をそのまま伝え、また主観的な部分は「自分の感覚としてこう思う/見える」と述べて、相手が把握しやすく話したつもりだ(その辺はプレゼントかオリエントかブリーフィングとか仕事でしこたまやってたので、ツボは分かる)。また、クレーマーも多い仕事だと思うので、できるだけ柔らかく、相手が迷ったりしても鷹揚に聞こえる応対を心がけた。

しかし結局1日目では解決できず(のべ4、5時間は話したはず)、翌日再度電話をもらうことに。そしてあれこれ試して3時間ほど、やっと自分の設定を活かしたままでソフトが作動し始めた。ちょいと感激。

まあ時間がかかったこと自体は嬉しくないけど、最後まで丁寧に進めてくれた鈴木さんには感謝で一杯だった。そう考えたら、4,000円はまあいいかとも感じた。で、なんだか名残惜しくなっての電話の切り際、「○○さん(自分の名前)のお力になれましたでしょうか。お話しできて良かったです」と妙に本心からの声みたいな言葉を聞かされた。なんか、俺との会話を嬉しく思ってくれたのだろうか。

勝手な想像だけど、この一連のやりとりで、鈴木さんは自分本来のスタイルーー相手の状況を聞き、自分なりに理解して手段を講じ、またそれをフィードバックしてもらい、ゴールに向かって少しずつ進んでいく、みたいなーーを充分発揮できたのではないだろうか。そんな満足感みたいな心情を電話の向こうの声から感じた。ま、後は自分が面倒くさい相手じゃなかった、いうのもあるかもしれないけど。

「また何かありましたらお電話ください」と言ってくれた鈴木さん、でも作業自体が完璧だったので、もうその必要はなかった。でも、もう一回話してみたい気もしたな。「ぶっちゃけ、こういうシステムでこういうことやるとしたら、どこの何が一番いいですかね?」みたいなこととか。

それから時々、こういった事案でカスタマーサービスの人と話すとき、鈴木さんのことを思いだす。多分、他にもたくさん鈴木さんがいるんだろうな、と思いつつ。ちなみに例の料金(4,000円)だけど、最初に話した女性は「後日ご請求いたします」と言ってはいたものの、結局何も届かなかった。ラッキーと思いつつ、ちょっと気が抜けた(やっぱり有料をOKするときには少しだけ悩んだし)。でも鈴木さんからのプレゼントだと思って、ありがたく受け取っておこう。

コメント

全米オープンテニス2018の雑感〜その1:錦織圭は何を待っていたのか

2018年09月11日 | 雑感日記
僕はそれほどテニスに詳しいわけではない。大昔、マッケンローやレンドルが活躍していた時代は結構マメに中継を見ていたのだが、ここ最近はスポーツニュースのダイジェストを覗くくらいだ。なので、きわめて浅い情報と理解での言い草であることは自覚しつつ、でもちょっと書いておきたいことがあった。

男子の準決勝、錦織選手はジョコビッチ選手に敗れた。「ジョコと戦うエネルギーが残っていなかった」と題された記事には、錦織の「(いつもなら)よみがえってくる自分のテニスが、あんまり来る気配がしなかった」というコメントがある。この「よみがえってくる」や「来る気配」が気になったのだ。彼は、何か「もっと強い本当の自分」の到来を待っていたのだろうか。

もちろん、前々日のチリッチ選手とのフルセットマッチの疲労の影響は無視できない。よく言われることだが、プロとしては小柄な身体への負担は、他の選手以上に大きかったことだろう。またジョコビッチのテニスも、ある意味で厭らしいくらいの精度を見せていた。ああいった攻撃は、目の覚めるようなスーパーショットとは違って、メンタルにもじわじわと効いてくるのではないだろうか。

たとえば、やられたのに笑って拍手してしまうくらいのスーパーショットなら、逆に気分を切替えることもできるだろう。しかし「どこに打っても返ってくる」タイプの反撃は、「何をやっても効かないのか」という凹みを招き始める。錦織はそんなダメージも蓄積させていったのではないだろうか。

思い起こせば(といいつつ記憶はかなり曖昧なのだけど)、2014年の同大会でジョコビッチに勝った錦織は、コート上で牛若丸のように見えた(古い例えでスンマソン……)。あの元気ハツラツな自分を、2018年の彼は待っていたのだろうか。もしそうだとすると、その感覚が危うく、残念に思える。

もっとも、スポーツメディアのもう少し詳しい記事では、錦織は試合を振り返って「さらに上書きされて鋭い球が飛んできたので、なかなか主導権を握ることができなかった」等の客観的な感想を述べており、実際にはそんなふわふわした気分だけで戦っていいた訳ではないのだろう(あたりまえだけど)。

ここからは、自戒を込めた物言いになる。「あのとき良かった自分」を呼び出そうとする気持ちは、目の前の出来事からの逃避にもつながりかねない。配られたカードが悪くても、それでなんとか戦うしかないのだ。人並み外れたタレントを持つ選手であるがゆえに、幾多の普通のプレイヤーよりはその思いが強かったのかもしれない(以前松岡修造氏が述べた、「圭は才能ではフェデラーと並ぶレベルで、ジョコビッチよりも上」は分かる気がする)。

それでも、前述の記事にあった「(昨年はプレーできなかった)ニューヨークに来られて、再び準決勝まで進めて本当にうれしいです。いいテニスで、この2週間やりきれたとは思います」というコメントには希望をもたされる。このポジティブな視点もまた、錦織選手の才能だと思う。ちょいと気になることはあったけど、やはり素晴らしいプレーを見せてもらった今年の全米、お疲れさまでした。

コメント

「粋」という圧力

2018年07月14日 | 気になるコトバたち
ときどきSNSで、「こんな振る舞いは粋じゃない」といった投稿を目にすることがある。公共の場や飲食店など、そのシチュエーションは様々だ。フォロワーの多い人なら、「まったくです」「最近の何々は……」「東京(あるいは京都、wherever)生まれの私には信じられません」といった賛同コメントが続き、場合によっては「こんな人は○○も(仕事、恋愛、whatever)も上手くいかないに決まってます」みたいなダメ出しがくだされることもある。

基本的な着眼点には、僕も賛成だ。たとえば電車で2人組が乗ってきたとき、自分がずれて席が空くのであれば、努めてそうしている。特に年配のご夫婦などが乗ってきたときにボーっと座ってる兄ちゃんがいたりしたら、「気の利かんガキやな、こいつ」と思う(下品なオヤジでごめんあそばせ)。

ただし、その基準はあくまでも「ちょっとした好意」であるはずで、そこで「粋」といった純度の高い価値観を過剰に適応することには違和感を覚える。純度の高い価値観は、使い方によっては思わぬ方向に走りだす。それに世代、性別、国籍、職種などなど、生来の、または変更する機会の少ない属性が絡まると、その論理はがぜん濁り始めていく。またそういった投稿の流れは、往々にしてよってたかっての叩き合いになりがちなのだが、その行い自体はどれほど「粋」なのだろうか。

言葉を見つけたい、と思う。「ちょっとした好意」をまっすぐ発信できる言葉をつかまえることが、僕にとっての「粋」なやり方だ。昔、ドイツの居酒屋で店員さんに相席を求められた際に"You can have a party here(パーティできるかもね)"と言われたことを思い出した。(実際、どちらともなく話しかけてしこたまビールを飲みましたとさ)
コメント

「生命科学ノート」のノート/その6

2018年06月03日 | 読書とか
地球物理学者の竹内均氏(1920〜2004)との対談から抜粋した中村氏の発言。味わい深い。

ワトソンの『二重らせん』という本が出ましたでしょ。DNAの発見の時のポーリングとの壮烈な競争がある。科学の世界は競争の世界だと思われてますよね。アメリカででたあの本の批評の中で、今でも覚えているのは、「強烈な競争をしている。それはピカソだったら、彼の絵を彼が今日描かなくても、明日誰かが描いてしまうということはないけれど、科学の世界は今日自分がやらないと明日誰かがやってしまうかもしれない。だからだ」というのがあったんです。その時は、ああそうかな、科学は個性のないものかなって思ったのですが、今考えてみますと、あれが誰にでもできたかというと、やはりワトソンでなくてはできなかったと思えるんです。科学ってそんなに個性のないものではないんじゃないかという気がします。(p.216)

絵を描く人はそれである種の共感を呼んで、他の人に影響を与えるわけですね。科学も、個性的なものなんだけれど、その結果が他の人たちに共感を呼びおこすとこすまでいけば、それが本当の科学じゃないかという気がしています。私が科学と社会との間の問題に興味を持ちますのは、そういうことがちょっと今足りないような気がするからです。科学の論文も、すばらしい論文は感動を呼びますね。非常に無個性な、ただ数字が並んでいるものではなく、小説を読んだり、絵を見たりする時と同じような共感を呼ぶ論文でなくてはいけないんじゃないかと思うんです」(p.217)

いま僕は、コミュニケーション論系の「論文」なるものを書こうとして四苦八苦しているのだが、レベルはエベレストと町内の公園の小山くらい違うが、そういう論文を書きたいと思っている。先達の方々の論文や身近な諸先輩(そのほとんどは僕より若い)の学術誌での発表などに接すると、どうすればそんな風に書けるのか絶望的な心持ちになる。でも敢えて、あるいは勇気を振り絞っていえば(小心者なので……)、「ワクワクしない」と感じることが多い。でも学術論文がそういうものだとは思わない。過去の文献にワクワクさせられたことは何度もある。でも価値観は人それぞれ。なので、自分は論文として完成していることは当然として、人の心に訴えかけるものを書きたい。身の程知らずかもしれないが、少なくとも挑戦はしていこう。

生命科学者ノート (岩波現代文庫―社会)
中村桂子
岩波書店
コメント

「生命科学者ノート」のノート/その5

2018年05月01日 | 読書とか
白い予定表 pp.124-127

「けれども、このごろ、物珍しい世界をのぞき見したり、素晴らしい人に接することができただけで、自分が成長したように思い込んでしまう危険も感じている。人間の中には、他人との接触で育っていく自分と、自分自身とのつき合いの中で大きくしていかなければならない自分とがあるはずだ。しかし、外からの忙しさにかまけていると、ついあとの方を忘れがちになる。時には、ちっぽけな自分をとことん見つめ、その中から何かを引き出すことに専念する努力も必要だということはよくわかっている。それなのに、中から湧いてくる気持ちに、ゆっくり目を向ける余裕がもてない」

(研究者の知人の手紙を引用して)「不安定ながらただ一つのことに全神経を集中させ、心も生活も、よろこびも焦りも全部そこに投げ入れて、ひたすらその一筋の糸を見失うまいとつとめている生活」

「しばらくは不義理を承知で、できるだけ予定表を白くすることに努めてみよう」とくくられるこの一章。ソーシャルな世の中で、忘れてしまいそうなことへの教訓として、いろいろ考えさせられる。


生命科学者ノート (岩波現代文庫―社会)
中村桂子
岩波書店
コメント