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TRASHBOX

日々の思い、記憶のゴミ箱に行く前に。

『悪は存在しない』——とりあえず覚書として

2024年05月19日 | 映画とか
まずオープニングから、不穏な空気が醸し出されていた。その一因は、『Drive My Car』で「意気投合」した石橋英子氏の音楽にもあるのだろう。決して強く主張するものではないのに、一見素朴な自然の風景に、不安定な予兆を与えて知らん顔をしている。

その空気は、音楽とともに全篇を通じて流れ続ける。しかしチューニングが合ってくると、その不穏が自分のなかで共鳴しはじめる。筋書きを述べずに書くと分かりにくいのだけれど(あるいは自分の筆力不足か)、これは不穏と向き合うことで開かれる扉についての語りだと感じた。

ただし、その扉の先も相変わらず暗く、ようやく次に展開したかと思えばエンドロールであったりする。やられた。自分はちゃんと観られてなかったんじゃないか、と考えたりもした。

でも、そういうことではないのだろう。見せかけの解を拒否するような空気が、この一本には張り詰めていた。悪は存在しない。でも不穏は常にそこにあるものなのだ。その不穏と歩み、口あたりの良い「物語」に巻き込まれるな——それがこの映画の底に流れている、地下水のようなものかもしれない。

※唐突だけど、ちょっと『落下の解剖学』を思い出した。こちらはあくまでリアリズムの世界をはみ出さないけれど、本作の境界は、そこにこだわっていない。

『バービー』は、少しだけ自分の話でもあった(と思う)

2023年09月11日 | 映画とか
先日観てきた『バービー』、面白かった。最初この映画について耳にしたときは、単にアメリカンなザッツ・エンターテイメントかと思っていたのだけど、知人の方やソーシャルメディアでフォローしている人たちのコメントを聞いていて、だんだ気になってきたわけです。
※配給会社によるソーシャルメディアでの件は承知していますが、映画自体とは切り離して語られるべき問題だと思ってます。

見始めてすぐに感じたのは、設定の巧妙さ。女性の可能性が花開いているバービーの世界から、「裂け目」を通ってたどり着いたのは「男社会(※字幕から)」。バービーはその違いに戸惑い、一緒に来たケンは、それまで「添え物」的な存在であった男が世の中を動かしていることに感嘆して、俺様な世界観に目覚めてしまう。この逆転の構造、単純ではあるけれど、世の中の現状をチェックポイント的な視点で見せる手法として成功していると思う。そう言われれば、そりゃそうだよな、みたいな(「ミラーリング戦略」みたいな言い方もあるそうだけど、その辺は詳しくありません)。

この映画については、多くの評論や感想がそのフェミニズム的視点を指摘しており、それは基本的に真っ当な感覚だと思う。一方で、ひとりひとりが現実世界に感じる違和感——いわゆる「生きづらさ」的な——にも語りかける作品になっていると感じる。バービー的な世界観とは接点のない僕も、着々と感情移入してしまった。

特定のメッセージ性をもちながらも普遍性も備えていることが良い映画や創作物の条件だとすると、『バービー』は間違いなくそのひとつだろう。興業としては若い人を対象としているのだろうが、幅広い層——ホント老若男女の皆さんに——観て欲しい。

一方で、描かれることの矛盾点——「変てこバービー」への排他的視点とか、サーシャの母グロリアが表す母性など——への指摘も散見されるが、これは「矛盾上等!それが映画(≒人生)さ」という話だと僕は思っている。この辺含めて、竹田ダニエルさんの映画評が素晴らしいので、ご興味あれば読んでみてください。

ある意味、シュガーコーティングされた梅干しを食べちゃったみたいな読後感ではあるが、これは今の映画だな、と思うと同時にグレタ・ガーウィグ監督の才能と力量に惹かれる。世界観の構築だけでなく、演者の表情の使い方とか演出も上手いと思うんですよね。アマプラで『レディ・バード』観なくちゃ。

※それから、この辺は話題作ならではというか、音楽は相当カッコいいです。サントラ聴いてるだけでハイボール三杯はいけるな。

>以下、竹田ダニエルさんの映画評から引用
『バービー』は紛れもなくフェミニスト映画であり、グレタ・ガーウィグ監督も記者会見でそのように肯定*している。そうである以上はフェミニズム映画としてのコンテクストでクリティカルに議論される筋合いは当然ある。しかし同時に、現実世界でも解決がない家父長制の問題の「解決」を描くことは不可能でもあり、この作品自体が「完璧」であったり、何かしらの「正解」を提示する必要もないはず、というのは最初に申し添えておきたい。

偶然と想像——実は緻密に巧まれた短編たち

2021年12月19日 | 映画とか
17日の金曜、『偶然と想像』の初日を東急文化村のル・シネマで。
なんと同館初の邦画とのことだが、なんとなく納得。
もしかしたら、「邦画も上映したいが、初めてにふさわしい作品は」みたいな模索もあったのだろうか。

それはともかく、素晴らしい1本だった。
第一話の「魔法(よりもっと不確か)」から、会話の緊張感に魅せられた。
一歩踏み間違えば落っこちてしまう塀の上をひょいひょい歩いて行くような、心の際のやりとり。
決して心地よいわけではないのだが、心をつかまれる。

第二話「扉は開けたままで」の心理的な二転三転を経て、
第三話「もう一度」のヒリヒリするようなファンタジーを見終えてのカタルシス。
振り返れば、この順番も巧みだなぁ。

初日のゲストとして登壇した第三話の出演者、占部房子さんと河井青葉さん(濱口監督は隔離中のため電話参加)。
占部さんは、「何度も本読みをしたので、撮影中も隣に監督がいるみたいだった」とコメント。
なんだか役者の中に染みこんだテキストが、画面を通じて浮かびあがってきたようにも感じられた。

濱口監督の演出に対して、一部では「棒読み」との批判もあるらしい(監督自身も、そういう話をインタビューで述べていた)。
しかし表面的な抑揚ではなく、テキストの芯をどう羽ばたかせるかという点では、このやり方は有効なのかもしれない。
この点、まずほとんどの観客が字幕で理解する海外での賞で高評価を獲得していることともつながるのではないだろうか。

たぶん、しばらくは関連記事やインタビューを見つけて読むのが楽しみになりそうだ。
濱口監督の仕事は、作品そのものにくわえて、創作の根っこにある厚みにも物語を感じる。まだまだ目が離せないなぁ。

※公式サイトは、こちら

『ドライブ・マイ・カー』の音に魅せられた

2021年08月31日 | 映画とか
『ドライブ・マイ・カー』、先週2回も観に行ってしまった。
いろいろ語りたいことはあるのだけど(それもまた、この映画の素晴らしいところだと思う)、
効果音フェチの自分としては、こういった音に関する話は大好物だ。

サウンドデザインの野村みきさんは、フランスで音を学んだ方とのこと。
脚本や演出はもとより、音が素晴らしかったことにも納得がいった。
(フランスが凄いというのではなく、音のデザインへのこだわりという意味で)
赤いサーブが北海道の雪の中を走るシーンでは、そのしばらくの無音に鳥肌が立った。

ところでカンヌ映画祭での上映場所は、
下記の濱口監督のコメントにあるように、リュミエールという劇場だったとのこと。
(まあ、カンヌの設備のメインシアターだから当たり前ではあるけれど)
僕自身はカンヌラインズというクリエイティブ系アワードのイチ参加者として何度か行ったことがあるが、
「音としては今までの試写よりもずっと良かったんじゃないか」みたいな話を聞くと、
一度はあそこで観たくなる。
ま、それは無理として、もう1回くらいはどこか都内の劇場で観るんじゃないかな。

ホント、素晴らしい映画でした。

※濱口監督のコメント
リュミエールでの上映は音としては今までの試写よりもずっと良かったんじゃないかと思います。
整音していたときの感覚にすごく近くて。(中略)
たぶんリュミエールという劇場は、映画専門ではないせいか、ちょっとだけ反響があります。
ただ、鳴りすぎない。
そこではそれぞれの音が粒立って聴こえつつも、音の膨らみが復活していて、
個人的には今までで一番良い音だという気がしました。

『ドライブ・マイ・カー』で濱口竜介監督が拡張させた音と演技の可能性



ザ・ライダー

2021年04月10日 | 映画とか
先日の「ノマドランド」に感銘を受けて、クロエ・ジャオ監督の前作「ザ・ライダー」をNetflixで観た(こちらは4月6日で公開終了、Amazon Primeでも観られます)。映画自体については、以下「シネマトゥデイ」から引用します。

「舞台はアメリカ中西部のサウスダコタ。実際にロデオで活躍していた青年、ブレイディ・ジャンドローが自身の身に起きた出来事を北京出身の女性監督、クロエ・ジャオのもとで演じている。ジャオが別の企画でリサーチ中だった2015年にジャンドローと知り合った後に彼が事故に遭い、再会したジャオが彼の物語を映画化した」
出演者たちは、名字こそ違えど実際の人物。どこか「本人による(ほぼ)再現ドラマ」みたいでもあるが、そうではない。事実に基づく物語を本人が演じることで生まれた、れっきとした「創作」だと思う。
言い換えれば当事者と制作者が、映画という枠組みを通じて物語を再構築する試みであり、ジャオ監督の緻密な筆さばきが、事実とフィクションの間の繊細な線を上手く描ききったということなのではないだろうか。
またそのためには、監督は登場人物と同じ地平に立つと同時に、物語全体を見渡す視点ももたなくてはならない。この2つの対岸を行き来するやり方は、新しいクリエイティブであるようにも思える(イーストウッドの『15時17分、パリ行き』は観てないのだけど、なんかそれとは違う気がする、のですよ)。
この辺、ジャオ監督が北京の生まれ、ロンドン、LA、そしてNYCで学んだというクロスカルチャーな背景を持ち出す手もあるのかもしれないが、僕はそんな単純な話ではないと思っている(なんらかの寄与はあっただろうけれど)。ホント、気になる監督だ。
またドラマチックではない、という見方もあるようだけど、そうは思わない。主人公ブレイディの中で大きなドラマが動いていて、それを遠くから双眼鏡で眺めるように見せてもらった、という印象がある。離れているけれど、かなりドキドキしっぱなしだった。
たぶん自分は、映像世界と物語の距離感、みたいなことが気になっているのだと思う。どちらかが、もう一方をなぞるのではなく、演奏と作曲が同時に進んでいくような創作のあり方は心に刺さった。小さいけれどよく研がれて切れ味のよいナイフのような1本だと思う。

公式サイト(英語)はこちらです。特設サイトじゃないのがインディーズ的だけど、コンパクトにまとまっています。