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TRASHBOX

日々の思い、記憶のゴミ箱に行く前に。

『ノマド 漂流する高齢労働者』

2021年07月04日 | 読書とか
『ノマド 漂流する高齢労働者』を読んだ。映画『ノマドランド』の原案ともなったノンフィクションだけど、こちらも素晴らしかった。映画にも本人役で登場するリンダ・メイを主軸にさまざまな人々——ノマドという生き方を選んだ、あるいは選ばざるをえなかった——の姿と、その背景にある現代アメリカ社会の一面を描いている。

著者のジェシカ・ブルーダーは、取材の中で自らもキャンピングカー を駆って彼らと寄り添い、またビート(甜菜)の収穫やアマゾンの出荷設備での重労働も経験(ある程度働いて辞めてはいるが、取材としては充分だったのだろう)。まさに「渾身」の作ではあるのだけれど、その語りはどこか軽やかでもある(読んだのは日本語版です。鈴木素子氏の翻訳は、スムーズで読みやすかった)。

各自の状況としては割と悲惨な話が多いのだけど、それを嘆く、あるいは遮二無二立ち向かうというのではなく、現実を受け入れつつ自らの道を拓いていく姿は、クリエイティブでもある。僕はこれが、資本主義、あるいはグローバリズム経済を抜け出す新たな道でもあるように思えた。
本書冒頭には「資本家たちは、自分たちの経済網から抜け出す者を嫌う」(『azdailysun.com』論説委員とのこと)という言葉が引用されている。ネット上の記事などでも指摘されているけれど、リンダ・メイたちは、ほぼヒッピームーブメントと重なる世代だ。これは自分たちのルールで現代を生きていこうとする開拓者たちの姿でもあるのだろう。作品全体に感じるほのかな希望の気配は、そこから醸し出されているのではないだろうか。そんな風に考えると、この物語がとても身近なものに感じられる。映画も素晴らしかったが、この一冊はその根元を鮮明に見せてくれる。

※もちろん物事には多面的な見方があり、彼らに対しても異なる視点もあるのだろう。なんせ僕は、この本をアマゾンのKindleで購入して読んでいる。こんなことも、正誤という話ではなく、世の中の構造を照らすための別の角度として捉えたい。僕も頭のなかで、その辺りをもう少し彷徨ってみようと思う。

あなたの脳のしつけ方/中野信子(2015)

2019年10月18日 | 読書とか
脳科学者の中野信子氏による、ある種の「脳のトリセツ」。でも脳という器官が人間の思考や行動におよぼしている影響を考えると、「人間のトリセツ」と呼んでもいいかもしれない。ただ著者が「はじめに」の章で「自分自身のありように苦しみながら、なんとか脳科学の知識を使って、自分の脳を『しつけ』てきた、その結晶」と述べるように、このベースとなっているのが中野氏自身のかなり高性能の脳だと思うとちょっと身構てしまう……が、実際のところ、なかなか面白くて読みやすい一冊だった。

もの凄く乱暴にいうと、自分の悩みや問題を、性格や気質のせいにするのではなく、「だって脳ってこういうもんだもん」と考えてみよう、という提案。この視点設定が、我ら日本人の苦手な部分では。以下、自分で気になった箇所を抜き書き的に。

集中力って奴は、それ自体を鼓舞するよりも、集中をそぐものを減らす方のが有効。机の上を片付けて、SNSのアプリは閉じておこう。そして継続した作業の場合、あえて中途半端で止めるとより強い印象として残る(リトアニアの学者の名前から「ツァイガルニク効果」というそうな)。そして他の論者も口にすることだけど、「ともかく始めてみる」のが大事。

「ジョハリの4つの窓」理論は面白かった。他人は知らないであろう秘密を指摘されると(本人の自覚の有り無しに関わらず)、指摘した人間への親密度が高まる(「モテる」状態)という話。これ、村上春樹氏が小説の執筆にあたり、人間の自我を家に例えて「近代的自我のさらに下にある地下2階に降りていく」と述べた話につながる気がする(川上未映子氏との対談『みみずくは黄昏に飛びたつ』の91ページ)。

右脳と左脳。前者は全体像を、後者はディテールを見る。だからといって、創造性との関わりは科学的には確認されていない、という話。で、ときどき「エセ脳科学」的な分かったような話を耳にするのだけど、人間の脳というか意識と行為なんて、やたら変数が多い話なので、科学的には確認されていないといった留保をつけてくれるのはありがたい、というかこれが科学者としての誠意だと思う。随分前に飲み屋で近くに座っていたカップルの男の方が、「だから女性は脳科学的に管理職に向いてないんだよ」みたいなことをいってたけど、そんな男とはさっさと別れた方が未来が開けると思うぞ。

「努力」は「才能」、というか脳の構造の違い。それは「報酬」をイメージできる能力であり、逆に「面倒くさい」のも才能。だいたい便利なシステムとか、面倒くさがり屋の発明だったりする。そして「ネガティブな感情の方が駆動力は大きい」というのも気に入ったなぁ。自己啓発的というか意識高い系というか、薄っぺらいポジティブ思考ってしっくりこないんだよね。

そして、努力をゲームにする。あるいは「ゲームを変える」という発想。これこそ「脳のトリセツ」の実践編なんじゃないだろうか。これ、気に入った。「頑張らなくちゃ」や「カイゼンしよう」とか呟くよりも、「ゲームを変えるぞ」という方が楽に動ける気がする。ちなみにこれ、先日の「SWITCHインタビュー 達人達 沢則行×宮城聰」で、いじめといったネガティブな事態に対して「台本を変える」といういい方をしていたことを思い出させる。日本人って、自分も含め、ちょっと1カ所に根を生やしすぎなのかもしれない。

とまあ、こんな考えや気づきを受け取りながら読み進めたのだけど、気持ちが軽くなる読後感がナイスでした。これはマーケティング的な観点も含め、編集者のディレクションの上手さともいえるだろう。

ところで余談的に考えて、脳のトリセツがあるなら、逆トリセツというか、間違った運用もありえるのではないだろうか。世間では良い人とか真面目で誠実な人、みたくいわれていた人間が「なぜあんな酷いことを」といった出来事の背景には、脳の使用法を間違って「最初は(本当に)しつけのつもりが、どこかで虐待にすり替わった」みたいなこととか、もっといえば、意図的に相手を間違った方向に操ることも可能ではあるのだろう。もちろんその手の言説もけっこうあるし、その辺としては中野氏も共著として名を連ねている『脳・戦争・ナショナリズム : 近代的人間観の超克』も読みたい一冊だ。

ま、ともかく脳について考えることは面白くもある。さて、今日もよく働いてくれた脳にリラックスしてもらうために、ビールでも飲みますかね。


『日記の魔力』表三郎(2004年)

2019年06月16日 | 読書とか

また自己啓発ものかよ、といわれてしまいそうだけど、かなり実用的な一冊ではあった。何が実用的かというと、「日記を書こう」と思わされること。それだけ?ともいわれそうなので書いておくと、「書く意味への納得感」が、この一冊にはあった。以下、ちょっと気になった箇所を抜き書きしていこう。(※ページ数は単行本のもの)

セルフイメージは「真実の自己」とズレていく(32-33)

→人間、意外に自分のセルフイメージにしばられている。特に反省する傾向の強い人間は、他者から見ると「そこまで悪く考えることないんじゃね?」みたいなこともしばしば。これ、シンプルにもったいない。

事実上の自分を発見したときに感じた「落胆」は、真実の自分に対する評価ではない。虚像を実像だと思い込んでいたことに対する「落胆」に過ぎない。(38)

→この「落胆」を起点にすると、次の方向性が間違っちゃうんだよね。

ある日突然変わるというのは、実は変化でなく他人の意見を受け入れたに過ぎない。(54−55)

→「人は少しずつ変わる」という話なのだけど、急に極端な意見を言い出す人には多そうだ。SNSで「あれ、この人こんな偏った考え方する人だったってけ?」という場合は、誰かの影響を短絡的に受けている可能性も大きい。

日記で一生懸命内省しても、人は変わらない。(68)

→うーん、これあるよなぁ。日記という名の後ろ向きなマスターベーションになってる場合もあるだろう。

「具体」ということの中心は、実は「肯定」することにあるのだ。(69)

→この「肯定」は、何も「何でもOK!」ではなく、あるがままに、に近い視座だと思う。

事実記録を残すうえで大切なのは、「時間」を必ず記憶しておくということだ。(95)

→これは時間の使い方の下手くそな自分にも効果がありました。レコーディングダイエットに通じる気がする。

生活が乱れているから、心に迷いが生じるのだ。(127)

→教条的だけど、自分の「型」をもつことの大事さでもある。イチローのルーティーンみたいな。この辺は、『ぼくたちは習慣』の土台になっているのでは。日記は自分のコンディショニングでもあるのだろう。

日記を「書く」のが客観化であるならば、日記を「読む」のはそれを再び「主観化」する作業だといえる。(150)

→後は読み返すことの意味。未読だけど前田裕二氏の『メモの魔力』の、検証を重ねる思考にも通じる気がする(というかタイトルも似てるし)。

後は物事を楽しむためには『つなげていく過程』を楽しむ」みたいな話は、学術理論を音楽に置き換えるとある種のDJみたいな行為であり、そういう意味ではどちらもクリエイティブな営みなのだと思う。

まあここで語られている日記は、どちらかというと「日誌」。同著作にも書かれているが、人生の航海日誌みたいなもの。肩肘張らず、淡々と粛々と、でも誠実に、というところだろう。

でも、その継続が与えたくれるものはなかなか魅力的だ。 ということで日記を付け始めました。ところで先日『ぼくたちは習慣』で書いたブログが一週間ぶりになってしまったのだが、せめて日記はきちんとつけなくちゃ……。


『億男』川村元気(2014)

2019年06月08日 | 読書とか

読み終えて(というか終盤にさしかかっての)感想が「やられた!」だった。そこに至る伏線は十分にあったのに、なぜ気づかなかったのだ、と自分の阿呆さ加減が嫌になると同時に、著者の川村さんの上手さにまんまと転がされた(褒め言葉のつもり)と思った。これが先日のインタビュー番組でご本人が仰っていた、「肩書きが分からない」人がもつ技なのかもしれない。

文体としては妙な癖がなくスムーズで巧み。前半は何ていうか、なで肩の伊坂幸太郎氏風でもあり、程よい心拍数のドキドキ感をかき立てられた。最後の方で主人公の一男の別居中の妻や娘の描写は、どこか村上春樹氏の筆跡を思い起こさせる。けれどもそれらは借り物のようでもなく、きちんと大きな流れのなかで機能している。そう考えると、やはり川村氏の土台は「プロデューサー」なのだなぁと感じた(といいつつ、その後のご活躍をフォローできていないので何とも言えないのだけど)。個人的には、今度は『どちらを選んだのかはわからないが どちらかを選んだことははっきりしている』を観たいです。

 


『ぼくたちは習慣で、できている。』佐々木典士(2018)

2019年06月07日 | 読書とか

人は困ったときに自己啓発本を読む生き物だ。もしそうでないなら、少なくとも自分はそうだ。というわけで、今回もいろいろ困ってました。問題はあまりに時間の使い方が酷すぎて、仕上げるべきことがまったく進まない。今までの失敗したプロジェクトの記憶が頭をよぎる……なんだか借金返済のために馬券を買ってるような気がしないでもないが、溺れる者はいろいろ手を出すのですよ。

とはいえ、(今のところ)収穫はあったと思う。簡単に言えば「意志や情熱で生きるのではなく、まず習慣を作り上げ、それに身を任せろ」みたいな話だ。ふーん、で、そんな収穫あったの?と言われそうだが、この本なかなかよくできている。

何がよくできているかというと、単なる習慣づくりのノウハウではなく、習慣の有効性の背景が「構造」として書かれてあるからだ。たとえば「不安が意志力を減らす」という項目には、こんな風に書かれている。

自分が決めたやるべき習慣ができないと、自己否定感や不安が生まれる。そして意志力が失われるので、なおさら次の課題に取り組めなくなるという悪循環にハマってしまう。(p.43)

またあるいは、「不安は消えない、不安とうまくつきあう」には、以下の一節がある。

フリーランスになって仕事や貯金残型の不安が襲ってくるのは「実際に減った」ときではなく、「手応えのある仕事ができず、ダラダラしてしまった1日の終わりに襲ってきた」「ぼくが後悔したことをきっかけに、不安は襲いにきたのである」。(p.310)

つまり、「どう習慣を作るか」というHowではなく、「なぜ習慣が有効か」というWhyを述べることで、読者は自ずと自らの習慣を作る必要を感じる流れを作っている。で、「あー、やっぱり自分も習慣を作らなくては。どーすれば良いのか、早く知りたい!」となったとろに、いわゆる「実践編」である3章の「習慣を身につけるための50のステップ」がくれば、待ってました!となるわけだ。

ところで最初に「手っ取り早く『習慣化のコツ』だけ知りたいという人は3章だけ読むのもオススメです(p.11)」とあるが、実際にそう読む人は少ないのではないか。で、1章で「意志力の問題」を考え、2章で「習慣とは何か」を考えることで、この本を読むこと自体が疑似的な習慣体験として、その達成感を味わえるというメタ構造になっているとも言えるだろう。もちろん、著者がこういった手練手管を考えていたというよりは、担当編集者の勘のなせる技では、と想像している。

それから要所ごとに配置されている引用の絶妙な距離感(ベタすぎず、かけ離れすぎず)や硬軟の加減も技ありで、この辺は著者自身の編集者としての勘所なのだろうか。腕のいいDJがいい感じのリフをインサートするみたいでもある。

ということで、自分も常々アウトプットしなくちゃと思いつつ放置プレイだったブログにこんな感想を書いてみた。はたしてこれは習慣化するのか!?

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