TRASHBOX

日々の思い、記憶のゴミ箱に行く前に。

『日記の魔力』表三郎(2004年)

2019年06月16日 | 読書とか

また自己啓発ものかよ、といわれてしまいそうだけど、かなり実用的な一冊ではあった。何が実用的かというと、「日記を書こう」と思わされること。それだけ?ともいわれそうなので書いておくと、「書く意味への納得感」が、この一冊にはあった。以下、ちょっと気になった箇所を抜き書きしていこう。(※ページ数は単行本のもの)

セルフイメージは「真実の自己」とズレていく(32-33)

→人間、意外に自分のセルフイメージにしばられている。特に反省する傾向の強い人間は、他者から見ると「そこまで悪く考えることないんじゃね?」みたいなこともしばしば。これ、シンプルにもったいない。

事実上の自分を発見したときに感じた「落胆」は、真実の自分に対する評価ではない。虚像を実像だと思い込んでいたことに対する「落胆」に過ぎない。(38)

→この「落胆」を起点にすると、次の方向性が間違っちゃうんだよね。

ある日突然変わるというのは、実は変化でなく他人の意見を受け入れたに過ぎない。(54−55)

→「人は少しずつ変わる」という話なのだけど、急に極端な意見を言い出す人には多そうだ。SNSで「あれ、この人こんな偏った考え方する人だったってけ?」という場合は、誰かの影響を短絡的に受けている可能性も大きい。

日記で一生懸命内省しても、人は変わらない。(68)

→うーん、これあるよなぁ。日記という名の後ろ向きなマスターベーションになってる場合もあるだろう。

「具体」ということの中心は、実は「肯定」することにあるのだ。(69)

→この「肯定」は、何も「何でもOK!」ではなく、あるがままに、に近い視座だと思う。

事実記録を残すうえで大切なのは、「時間」を必ず記憶しておくということだ。(95)

→これは時間の使い方の下手くそな自分にも効果がありました。レコーディングダイエットに通じる気がする。

生活が乱れているから、心に迷いが生じるのだ。(127)

→教条的だけど、自分の「型」をもつことの大事さでもある。イチローのルーティーンみたいな。この辺は、『ぼくたちは習慣』の土台になっているのでは。日記は自分のコンディショニングでもあるのだろう。

日記を「書く」のが客観化であるならば、日記を「読む」のはそれを再び「主観化」する作業だといえる。(150)

→後は読み返すことの意味。未読だけど前田裕二氏の『メモの魔力』の、検証を重ねる思考にも通じる気がする(というかタイトルも似てるし)。

後は物事を楽しむためには『つなげていく過程』を楽しむ」みたいな話は、学術理論を音楽に置き換えるとある種のDJみたいな行為であり、そういう意味ではどちらもクリエイティブな営みなのだと思う。

まあここで語られている日記は、どちらかというと「日誌」。同著作にも書かれているが、人生の航海日誌みたいなもの。肩肘張らず、淡々と粛々と、でも誠実に、というところだろう。

でも、その継続が与えたくれるものはなかなか魅力的だ。 ということで日記を付け始めました。ところで先日『ぼくたちは習慣』で書いたブログが一週間ぶりになってしまったのだが、せめて日記はきちんとつけなくちゃ……。


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