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TRASHBOX

日々の思い、記憶のゴミ箱に行く前に。

その人の物差し

2019年05月28日 | 創作

ある日、若者2人が電車の中で話をしていた。将来の話だった。安定した大企業に勤めたいとか、でもブラックや社畜はいやだとか、いっそ起業して自分の会社を経営したいとか、ミニマルライフで自由に生きたいとか、矛盾も何も気にせず楽しそうに語り合っていた。

実は俺は超能力者で、人の心が読める。ただその2人の頭のなかは極めてシンプルで、ただネットや雑誌で見聞きした話題や仲間から聞いた知識を適当に組み合わせて再生しているだけで、夢も欲望も志も見あたらなかった。ある意味、禅の境地かよ、と思ったくらいだ。 退屈したので、周りの人間の心を読んでみた。するとこっちはバラエティに富んでいる。分かりやすいよう、箇条書きでご説明しよう。

A(男、50台)ガキだな、今どきの若い奴は。会社、じゃなくて社会はもっと厳しいぞ。そんなんで入れる会社なんかあるもんか。

B(女、30台)あー、日本の若者って子どもね。私が住んでたアメリカだと、皆自分で目標立てて、しっかり行動してるのに。これじゃ、ますます世界に通用しなくなるわね。

C(男、40台)東京の若者って、やっぱりチャラいな。俺の田舎じゃ、親や親戚、地元の仲間とのつきあいや気配りで、そんな風に好き勝手やってられないよ。一度地方で暮らしてみればいいんだ。

D(女、60台)もう子どもでもないのに、自分のことだけじゃなくて国の将来を考えているのかしら。ちゃんと経済回して安全守ってくれないと、今までの私たちの頑張りが水の泡だわ。だから外から変な人がいっぱい来るのよね。

ふーむ、どうやら同じ風景を見ていても、それぞれの物差しで見え方が変わってくるんだな。ところで皆、さっきから通路に立っているお腹の大きな女性と、その隣の足が不自由で杖を突いたご老人の姿が見えてないのか。では少し離れているが、俺が席をお譲りしよう……おや?

(若者2人)あ、どうぞおかけください。気がつくのが遅れてすみませんでした!

なるほど、頭のなかはシンプルだが、人を思いやることは知ってるみたいだな。まあ、せいぜい頑張れよ。


定期券(東京メトロ ショートストーリー佳作)

2014年11月22日 | 創作
定期券

くたびれた皮ケースに張りついた私の通勤定期を、妻は羨ましそうに見る。
自宅で翻訳の仕事をしている彼女にとって、電車に乗ることは、
その都度お金を払うことでもあった(実際はプリペイドカードだが)。

「入谷から上野経由で虎ノ門。だから上野、神田、日本橋、銀座、新橋
どこでも乗り降りできるじゃない。私だったら、真っすぐ帰る自信がないな」

街歩きが好きで、気に入った場所について綴った彼女のブログは、
結構人気があるらしい。
仕事の合間を縫って四時間足らずの旅人となる彼女には、
定期券がパスポートのように見えるのだろうか。

ただそのパスポートも、有効期限が迫っている。
来月で定年を迎える私には、今の定期券が最後の一枚だ。

「もう定期券なくなっちゃうのね。残念」
「でも別に俺、途中下車なんかしないし」
「知ってる。あなたそういう人だもの」

当たり前じゃないか、と思う。
特に用事でもない限り、サラリーマンは無駄な乗り降りなどしない。
でも、口にはしなかった。そう思いたくなかったのかもしれない。

定年までの一ヵ月は、音を消した映像のように黙々と過ぎていった。
もう私に、降りるべき駅はない。

「今まで本当にお疲れさま。これ、私からのお祝いです」

それは上品な艶を湛えた、皮の定期入れだった。

「これって、いまさら定期入れ?」
「よく見て」

内側には、地下鉄を自由に乗り降りできる全線定期券が入っていた。
また私に、降りるべき駅ができた。
東京中どこでも、というのは、いささか多過ぎる気はするが。



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