TRASHBOX

日々の思い、記憶のゴミ箱に行く前に。

ドーン/平野啓一郎

2013年09月24日 | 読書とか

ここのところ続けて読んでいる、平野啓一郎氏の著作。
あらためて、「分人」というのは気になる考え方だと思う。

で、先日読んだ『空白を満たしなさい』の約3年前に書かれたこの小説は、
その分人思想(?)の初期の著作と言えるのかもしれない。
Wikipediaには、「分人主義3部作」という呼称があった)

でも考えてみれば、これって小説家にとっては迷惑な話かもしれない。
別に氏は分人の啓発活動をしている訳ではないし、
全部そのフィルターで読まれちゃうのも気の毒な気もする。

えーっと、全く荒唐無稽のそしりを免れないと思うのだけど、
読み終えてふと、『風と共に去りぬ』を思いだした。
時代も場所も価値観も異なる時代を舞台に
人間の「希望」を見出そうとする物語、
というのは苦しいこじつけかもしれないけれど、
何だかその壮大なスケールと(素直に凄いと思う)、
もうひとつピンとこない感じが似いる気がするのだ。

ただこの2作、設定が過去の分『風と共に』は有利かもしれない。
例えば「散影」といった架空の技術を風景として読むのは、
SF志向のない自分には辛かった(ま、そういう問題じゃないかも)。

といって小説としてグッとこなかったという訳ではなく、
ここで描かれている人の姿は魅力的だ。
大統領選挙をめぐる候補者の丁々発止や主人公と妻との会話は、
著者の聡明さと情感の豊かさを、これでもかと示している。
いや、ホント「うまいんだなぁ、これが」なんですよ(分かります?)。

なんだか、ちょっと素人には難解なオペラの楽曲を
歌のうまさで最後まで聴かせてしまう歌手のような。
美しくて少し切なく、そしてどこか釈然としない耳鳴りが残っている。

ドーン (講談社文庫)
クリエーター情報なし
講談社

空白を満たしなさい/平野啓一郎

2013年09月23日 | 読書とか

先日読んだ、『私とは何か 「個人」から「分人」へ』と視点を共有する小説。
主人公の土屋徹生は、3年前の死から突然蘇った「復生者」。
自殺とされている自己の死に疑問を抱きながら、
唐突に蘇ってきた“死者”に困惑する家族や周囲の人々と向き合う物語。

これ、設定としてはかなりのハイレベルで、
概要を聞いただけで興味をそそられた。
このテーマであれば、社会の矛盾に光をあてるとか、
人間存在の意義といったものを掘っていくのか、
あるいはトリッキーな設定で「愛」について語るとか、
なかなか強いカード引いたなぁ、と感じた。

小説としては、文句なく面白い!
著者の作品は正直得意ではないのだが
(「日蝕」は途中で挫折しました……)、
ホントこの人、上手い書き手だと思う。
特に主題との距離の取り方
-疎遠過ぎず、入り込み過ぎず-は絶妙だ。

面白いと感じたのは、ある意味で
この設定が変形のタイムパラドックスになっていること。
時間を遡っての心理の探求や検証など、
現実としては不可能な角度から物語を作っていける。
結構扱いにくい設定を使い切れる力量は素晴らしい。

一方で、少し残念に感じたのは、「分人」にまつわるエピソード。
この辺りだけ、なんか理念ありきで語られているように感じた。
決して分人思想の啓発を目的に書かれた小説ではないと思うが、
その部分だけ、書き手としてのモードが
「小説家」から「評論家、思想家」に変っているように感じた。

でも、この混じり具合を含めて、
今の時代に読んでおくべき小説だと思う。
さて、次は「ドーン」にいってみようかな。

空白を満たしなさい
クリエーター情報なし
講談社

私とは何か 「個人」から「分人」へ/平野啓一郎

2013年09月16日 | 読書とか
先日、とあるインタビュー番組で平野啓一郎氏の話を聞いた。
そこで氏が熱心に語っていたのが「分人」というコンセプト。
「個人」の原語"individual"は"in-dividual"-これ以上分けられないという意味。
そこに人としての単位があるという視点に疑問を投げかけるものだ。

人間は、その時間を共に過す相手によって違う顔を持つ。
これは「ホントの自分」と「表面的な存在」という差ではなく、
そのどれもが真実であり、「個人」とは、その集積であるという発想。
(違ってたらスミマセン。でも、そんな複雑なことは提唱していないと思う)

これ、古代ギリシャ科学の「原子論」が
後の科学で書き換えられていく様とダブっても見えるのだが
(あ、専門じゃないのて細かいことは……汗)、
物事の最小単位を見つめ直すことで概念の地層をもうひと堀りしていく、
なかなか新鮮な考え方だった。

人としてのあり方というより、社会的存在としての人間としての指針を持って、
「この手があったか!?」と知らしめてくれる。
俺は「目から鱗」という比喩が嫌いなので使いたくないのだけど
(同時に、これを多用する人もちょっと苦手かもしれない……)、
使うのであれば「今でしょ!」(赤面……)なのだろう。

そう、人としてのプラットフォームを考える上で斬新な一冊で、
基本的には社会科学的な文献と言えると思うのだが、
同時にマーケテングにも全然使えるなという助平心も覚えた。
そう、製品やサービスがもたらす「体験」は、
ターゲット分析で見えてくる「個人」ではなく、
「アニメマニアの外資系ファンドマネージャー」や
「ゴルフ好きのロックスター」のどの部分に響くのか、
その辺に繊細に、謙虚になっていくことが、
これからのビジネスのヒントになるのかもしれない。
(これ、インバウンドマーケティングにも通じるのだろうか)

えーっと、敢えて気になるところを言うとすれば、
「分人」というワーディング。
この響きは、人に語り伝えていく言葉として若干微妙な気がする。
例えば「超個人(ハイパー・インディビジュアル)」とか、どーだろう。
(「素数」と「人」で「素人」てのも考えたけど、「シロート」って読んじゃうし……)
ま、平野氏は単なるバズワードになることなど望んでいないだろうし、
そんなの浅薄な業界周辺人の思いつきとか言われるかもしれないけれど、
この視点が世間に広まって欲しいという気持ちはマジなのさ。

ともかく、色々な人に読んで欲しい一冊です。
よかったら、ここからどーぞ。

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)
クリエーター情報なし
講談社

桐島、部活やめるってよ/浅井リョウ

2013年09月01日 | 読書とか

2009年の小説すばる新人賞受賞作品。作品もヒットして映画も好評(見てませんが)。ま、今更感はあるけれど、読んだからには書きとめておこう。

まずこの文体、正直あまり得意ではなかった。でも一方で、著者の言葉を扱うセンスは図抜けていると思う。筆まかせ(筆は使ってないか……)でありながらスパイスと抑揚の効いた、まあ才能ですね。これ、伊坂幸太郎氏の『重力ピエロ』を読んだときの感覚に近いけれど、伊坂氏の練った感じとは違って、反射的に発せられたような印象がある。なんていうか、若者という生き物に対する動体視力が素晴らしい。

読後1日ほど経って思いだしたのは、田中康夫氏の『なんとくクリスタル』。ま、随分前に一度読んだ記憶で書いちゃうけれど、いわゆる「若者の生態」を題材とするにあたり、その描き方自体が時代性を表している作品なのではないだろうか。『なんクリ』の書き込まれた感じと『桐島』のポイントをはぐらかす感じの表現は、バブルな時代とデフレの時代それぞれの文体のようにも思える。でも、どちらも独特の輝きを放ってるって、やっぱりいいですね、若いって(そうまとめるか?)。

も少し書くと、『桐島』の上手さって、書かれていない部分にあるような気がする。輪郭を上手に書いておいて、「後は埋めといてね、よろしく」という投げ方の優雅さはさりげないし、匠でもあるような。他の作品が気になる作家さんであることは確かだなぁ。

桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)
朝井 リョウ
集英社