TRASHBOX

日々の思い、記憶のゴミ箱に行く前に。

きことわ/朝吹 真理子

2011年01月29日 | 読書とか
きことわ
朝吹 真理子
新潮社

えーっと、前に書いた「苦役列車」と同じですが、
これも新潮の掲載誌で読みました(9月号)。
そういえば今回は新潮が二冠(?)なのだなぁ。

貴子(きこ)と永遠子(とわこ)という幼なじみの女性が、25年後に再会。
2人の現在の生活と過去の記憶が溶け合うように語られていく、
一見静かな筆致の中に実験的な企みの配された新しい小説……。

えーっと、かなり受け売り入ってます。なんか難しいのですよ、説明が。
それは磯崎憲一郎の「終の住処」を読んだときの感じと似てるのだけど、
評論などで言われる「小説は時間を自由に扱える表現」みたいなことなのかもしれない。

確かに「言葉が織りなす不思議な感覚」という楽しみは味わえました。
一方でそれは、境目のない遠近両用レンズの便利さのように、熱を帯びてはこなかった。
俺の受信力が至らないのだろうか(皮肉でも卑下でもなく、プレーンに思う)。
もしかしたら同時受賞作の「苦役列車」に続いて読んだせいもあるのだろうか、とか
ちょっと迷子になった感じの一昨でした。他の作品も読んでみましょうかね。

スモーク@恵比寿ガーデンシネマ

2011年01月23日 | 映画とか

ご存じのように、恵比寿ガーデンシネマは1月28日で閉館。
で、最後にもう一本見たい、というタイミングで見に行きました。
ハーヴェイ・カイテル、ウィリアム・ハート、フォレスト・ウィテカー、
そしてストッカード・チャニング(よっ、大統領夫人!)など
役者が揃っているだけあって、見応えのある一作。
(若干「いいお話でしょ」的なトーンを感じなくもないのだけど)
粗筋などはこちら等見ていただければ。

しかし何とも奇遇な感じを受けたのは、
物語の中心に据えられたタバコ屋と、
地味ながらいい映画を紹介してきたこの場所の対比。
ひと癖あるけれと情の深いタバコ屋のオヤジと、
劇場のスタッフの人たちの映画愛が重なって、
うーん、煙が目にしみるぜ、みたいな感慨です(いやマジで)。

大切な場所だっただけに、いい形で締めくくれたような気がします。
その後?もちろんガーデンプレイスのビアホールで、
しこたま食べて飲みましたとさ。






追悼・黒岩比佐子さんDVD上映会

2011年01月22日 | 読書とか

先日読んで感銘を受けた「パンとペン」の著者であり、
昨年末、52歳の若さで癌で亡くなった黒岩さんを偲ぶ催し。
ブログ「古書の森日記」で見つけ、さっそく申し込んだ。

会場は神保町の東京堂書店
黒岩さんの著作をを評価して積極的にプロモートした本屋さんで、
「日本でいちばん『パンとペン』を売った書店」なのだそうだ。

担当編集者の方の挨拶、そして親しかったフリーライター岡崎武志氏のコメントのあと、
昨年10月16日に同書店で行われたトークを中心とした映像が流された。
画面上ではお元気そうにも見えたが、わずか1カ月後に亡くなったことを思うと
この頃の病状はかなり厳しいものだったのだろう。複雑に、悲しい。

しかし悲しさばかりを言い立てるのは、ご本人の望むところではないだろう。
「パンとペン」自体の感想は昨日書かせてもらったので、会場で感じたことなど、
本という形を通じて出会ったご縁を、少しでも他の人と共有できれば……。


氏は大学卒業後、PR会社のUPU(懐かしい)を経てフリーライターに。
自分の著作物を出したいという思いはあったが、現実はなかなか厳しかったそうだ。
自腹で取材して書き上げ、数社に持ち込むも断られていた第一作の
「音のない記憶」が文藝春秋からの申し出で出版されたのち
(絶版後、角川ソフィア文庫で復刊)、さまざまなノンフィクションを手がける。
会場の後ろには遺品のノートなどが展示されていたが、
資料の抜書きページなどを見ると、その丁寧さがとてもよく分かる。

また、トークイベントなど人前で話すことは大の苦手だったそうで、
同じく展示には、そのためのメモも並べられていた。
ただこれは、話が苦手というよりも、
誰かに伝えるという場面にも誠心誠意向き合った
著者の人柄を語るものだと思えた。

※撮影に関しては会場の方の許可をいただきましたが、
掲載が不適当であればコメント欄にご連絡いただけますでしょうか。
よろしくお願いいたします(内容は非公開にいたします)。


DVDで見る著者は、語るべき思いに突き動かされているようで、
その静かな熱が会場に広がっていった。
教科書的な歴史の中では忘れられてしまうような存在に
丁寧に光をあてて、立ち上がらせていく。
以前ドキュメントで見た絵画修復家の仕事を思いだした。
ああ、この人は本当に、愛情に満ちたプロフェッショナルだったのだなぁ。


会場を出ると、悲しさがそれまで感じていたものとは違っているように思えた。
素晴らしい仕事を遺したひとりの人を亡くした、という以上に
その人が抱えていた人間という存在へのまなざしへの気づき。
著者はもうこの世にはいないけれど、その思いは我々も持つことができる。
語弊があるかもしれないけれど、清々しい悲しさでもありました。

この、思いのこもったイベントを企画、実行された方々に感謝。
そしてあらためて、ご冥福をお祈りいたします。

苦役列車/西村 賢太

2011年01月19日 | 読書とか
苦役列車
西村 賢太
新潮社


えーっと、最初にお断りしておくと、これを読んだのは
単行本の方ではなくて雑誌「新潮」2010年の12月号。
内容に違いがあるとは思えないけれど、念のため。

どちかというと、作品自体よりも西村氏自身のキャラクターや
受賞インタビューでのやりとりが話題になっているようだけど、
それはあくまで副産物として楽しみたい。(気になる方は、この辺など)

読んで意外に思えたのは(全部読んでる訳ではありませんが)、
他の作品のようなドロドロ具合が希薄だったこと。
確かに食えない奴ではあるけれど、救いの無さはそこまでではない。

それは、主人公の北町貫多がまだ19歳と若いことや、
設定が約25年ほど前の話であることも関係あるのだろうか。
その頃は俺の回りにも、こんな感じの兄さんが1人か2人はいた。
どこかに、彼らのための隙間のような居場所があったのだと思う。

ネットなどのコミュニケーション・ツールは、裏返せば「孤立の確認装置」。
貫多が今の時代の19歳だったら、思いっ切り置いていかれただろう。
唯一の友人的存在、日下部との距離も、こう近くはならなかったかもしれない。

……と書いているうちに、秋葉原歩行者天国での事件を思いだした。
悲しくショッキングな事件であり、知ったような話をするのは避けたいけれど、
この主人公が置かれた状況にも、少し通じるものがあるような気がする。
しかし貫多の人生は、ああいう展開にはならなかったと思う。
それは、良くも悪くも生き物としての力を感じるからだ。

貫多のような転がり方、実はエネルギーがないとできない。
まったく褒められた方向ではないのだけれど、
あれはあれで生命力が向かったひとつの道なのだと感じる。

こんな言い方すると冷や汗がナイアガラ状態なのだけど、
小説というものは、どんな形状であっても
生命の道行きを書いていくものだという気がしていて、
その点、西村氏の物語はとても小説であると思えるのだ。

かつては普通の子供でもあったのに、
父親の事件などをきっかけに影を濃くしていくひとりの男。
ある意味、西村サーガの「青春編」みたいなこの一冊、
嫌な感じの甘酸っぱさが、とても強く香る小説でした。


慶楽@有楽町

2011年01月18日 | 雑感日記

思えばかなり昔から行ってるなぁ、このお店。
中国風のソーセージとかが珍しかった頃、あれで随分ビールを飲んだ。
その頃から変わらない(多分)雰囲気は、
「ずっとこんな感じですが、何か?」みたいな当たり前具合。
妙に渋くならないところが、また落ち着くというか。

で、「発祥の地」とか言われているらしい名物のスープ炒飯。
こちらも構えることなく、堂々としている。
なんつーか、こういうのを大人の食い物っていうのかも。
蘊蓄垂れてないで、食べてみそ、みたいな。

実は他にも惹かれるメニューが多くて、
いつも迷うことしきり、なのではありますが。
場所などは こちらをどうぞ。