TRASHBOX

日々の思い、記憶のゴミ箱に行く前に。

日本電産の初CM、だそうです。

2017年01月31日 | 広告とか

日本電産といえば、すぐに創業者永守重信氏の強いキャラクターを思い浮かべるのだが、正直この「創業初」のCMは意外だった。

えーっと、CMの企画制作は自分も関わりがあったりする分野で、その状況や事情がてんこ盛りなことや、関係各位やスタッフの方々の頑張りについては分かっているつもりだ。なのでちょいと汗かいちゃうんだけど、この拍子抜け感はなんだろう。時代の流れに、自分がついていけてないのだろうか。

もしかしたら、今後の展開にアイデアがあるのかもしれない。だがそれにしても、ファーストコンタクトのソフトな感じたるや。大きなお世話だけど、試写の空気はどのようなものだったのだろうか。

今回のCM制作、オンエアの目的は、将来を見据えてのリクルーティングだと聞いた。B2Bの産業だけにトップ企業であっても認知度がもうひとつ、というのも理解できる。しかし、いったいどんな人材を求めているのだろう。てっきり経営の志や姿勢に共感できる人が主軸なのかと思ったら、そんな気配ではない。

ところでこのCMを見て、あるクリエイターの方のことを思いだした。企業のトップと直接対話して、その根っこのところで太い答を提示していくその人のクリエイティブを、僕は本当に尊敬している。あの人だったら、どうしただろう。そんなことを考えていると、またCMの企画をやってみたくなるのでした。


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脳内麻薬/中野信子

2017年01月30日 | 読書とか

副題は「人間を支配する快楽物質ドーバミンの正体」。著者は、最近さまざまなメディアへの登場の機会も多い脳科学者の中野信子氏。

中野氏のことは、以前NHKの番組SWITCHインタビューを見て、とても気になっていた。ある種の「持っている人」(ある意味では持っていない人?)の気配が多分にあり、著作よりもご本人が気になったというのが正直なところだ。あ、でもこれ、女性としてとかあるいはオカルト的な話ではなく、あくまでタレントー天賦の才という意味でーについての関心ですから。

人間の行動とそれを「支配」する快楽物質の仕組みや関係性について、客観的に、かつシンプルで明解に著述したこの一冊、幾つも「そういうことだったのか!」と思うことがあった。

例えば過食についのて箇所では、こう書かれている。

『肥満の人はドーパミンの放出量が少なく、しかも受容体も少ないために、ドーパミンが満足できる量になるまで食べ物を食べると、カロリーの取りすぎになってしまうから太るのだ、ということになります』(p.95)

で、ここで興味深いのは、食べる報酬としてのドーパミンの分泌量が少ないのに、何故その人は食べることの快感を覚えたのか、という疑問。それに対して氏は、人間の脳は『この矛盾を巧妙な方法で解決』していると解く。それは、まさに食べたり飲んだりしようとする瞬間に報酬系の機能が大きく活動するという『「見掛け倒しご褒美」システム』なのだそうだ。

これ、ときどき感じる「物事、実際にやっているときより、やろうとする瞬間が楽しい」という理由が分かった気がする。旅行の計画時とか、飲み会の乾杯の瞬間とか、まあ気持ち良い時間のあれこれで、「とりかかる前が一番ワクワクする」訳はこうだったのか、と。

また、恋愛依存症など物理的、医学的な快感につながらない場合は、より心理的な要因が指摘されている。この辺りの分析はやや定型的というか、ここに関しては「学者さんだな」と感じる点がないでもないが、なんていうか、「非合理的な行為ほど、それを飾る美学が必要」な理由が見えてきた気がする。

また、人から人への報酬という点では、「Youメッセージ(あなたは素晴らしい)」より「Iメッセージ(私はあなたの素晴らしさを認めています)」の方が、より社会的報酬として価値が高いという話は、自分の価値をいかに感じられるかということにつながるのだろう。自分という存在が、誰かにとって「価値のあるコンテンツ」と感じられる、みたいなことでもあるのだろうか。

他にも「社会的報酬としての愛や友情」や「支配者のゲーム」など、興味深い内容が多々あった。どれもが冷静な科学的視点で語られているのに、非人間的というか冷たい響きがないのは、著者自身の純粋な知的探究心からくるものだろうか。逆にある意味、とても人間的な本であるとも言えるだろう。

で、気になった箇所を抜き書きし始めるときりがないのだが、これは印象的だった。社会的報酬について語られた章の後半には、こんな記述がある。

『明確な金銭的報酬というのは視野を狭め、心を集中させるものです。それは単純な作業では効果を発揮します。それに対して平均時間を知るために協力してほしいという要請(※この章の前半でとりあげられている実験の依頼事項として)は、相手の感謝と評価という社会的報酬を予想させるものです。こういう動機付けは、答えがあるのかないのかわからないような、知的な課題に向いているようです』(p.146)

今の世の中、「答えがあるのかないのかわからない」課題解決の重要性はすこぶる高い。社会的報酬という抽象的な概念ではあるけれど、ここは自分のような文系の人間が頑張れる余地があるはずだ。ここで述べられている、何というか預言的な物言いが心に残った。もしかしたら中野氏は、無自覚な巫女なのかもしれないなぁ。

(ところでメタル系のロックが好きとどこかで読んだ気がするが、特にはどのバンドなのだろう)

脳内麻薬 人間を支配する快楽物質ドーパミンの正体 (幻冬舎新書)
中野信子
幻冬舎
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対談「アートと社会とメディア」@ICC

2017年01月29日 | ♪&アート、とか

1月28日の土曜、ICCで開催された、エキソニモの千房けん輔氏とメディア・アーティストで東京芸大教授の藤幡正樹氏のトークイベント。お二方についての説明や対談実現への経緯などはここでは省いて、覚書的に記します。

まずは現在ニューヨークで創作活動を行っている千房氏から、当地(および世界)のメディアアートシーンについて。まず「メディアアート」という言葉自体がそれほど一般的ではなく、またその活動も意外に限られている。作品を扱うギャラリーや団体も限定的で、NYでもジャンルとしてはメジャーではない、という話。コンテンポラリーアートとメディアアートの間にも差があるそうだ。

こういった話は他でも見聞きしたこともあるのだが、日本におけるメディアアートの位置付けや、逆にここから遡って日本におけるアートの位置付け、捉えられ方を考えるにあたって、興味深い論点だと思う。

そしてこの辺から、日本の個人主義(というかそれが確立されていない、という視点で)への考察など、藤幡氏からのコメントが続く。これがすこぶる圧倒的。グサッと印象に残った言葉を羅列しようとしても、ちょっと切りがない感じだ。

例えば『個人主義を選択することは、孤独を選択すること。アートは孤独からしか生まれない』ーもともと「自分は他の人とは違う」の表明がアートだとすると、他者との違いを疎んじる社会では本来のアートは棲息しづらい。

また個人主義への認識などの流れで千房氏がコメント。『ニューヨークで創作活動をしていると、MacOSでMicrosoftのOfficeを動かしているようなぎごちなさを感じる』という言葉には実感がこもっていた。

さらに松宮秀治氏の「ミュージアムの思想」という本を取り上げて、西欧における近代はミュージアムとパラレルで発展してきたこと、そしてそれは芸術が宗教を置き換える過程で起こったことなどが明解に語られた。

そして話はいろいろ展開するのだが、個人的に印象的だったことのひとつが、アートやカルチャーに関する日本語の訳の問題。「美術」「芸術」「文化」など、漢文を扱えることでインテリとされた当時の識者が行った翻訳への指摘は、日本の「文化」の土台作りに大きく影響していることを改めて考えさせられた。

訳については、千房氏が日本語の「面白い」について発言。FunもInterestingも含まれた語彙は通用しづらく、また本質の正確な評価を妨げている、といった指摘は(好きな表現ではないのだが)目から鱗だった。

それから技術と表現の話。『産業化されない技術を「自由にする」のがメディアアートの役目』という藤幡氏の言葉にはハッとさせられた。話の流れは異なるが、千房氏の『ニューヨークのアーティストがビジネス的なこと(Googleの仕事など)をやると、「魂を売った」みたいに見られる』といったビジネスとアートの境界線の話を絡めて、興味深い。

で、あれこれとりとめなさ過ぎる覚書になってしまったけれど、最後の「境界線」は今回のキーワードではないだろうか。日本と、その外の世界との根源的な成り立ちの違いを、良し悪しではな、寄って立つ部分として知ったうえで創作や批評に臨まなければ、勘違いの継ぎ足しになってしまう。

ま、それはそれでユニークな面白さに辿り着く場合もあるのだろうが、ただ無邪気にCool Japan!なんて言ってはいられないし、もしかしたらそれはCold Japan(お寒いJapan)に転んでしまうかもしれない。

あー、それにしても自分が学ぼうとしているコミュニケーション論、メディア論との関わりもしっかりあって(久し振りにオングの「声の文化と文字の文化」の話に触れた)、内容の濃いセッションだった。このイベントが無料とはいうのは素晴らしすぎる。フリースペースの展示の充実も含め、今後ICCに通うことになりそうだなぁ。
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人と「機械」をつなぐデザイン/佐倉統(編)

2017年01月19日 | 読書とか
人と「機械」をつなぐデザイン
佐倉統(編)
東京大学出版会

人間と機械のあり方をついての、示唆に富んだ刺激的な記述の数々。この「テクノロジーの時代」に読まれるべき一冊だと思う。母体となっているのはオムロン・グループ系のシンクタンクと佐倉氏の研究室の共同研究で、三部構成全14の記事からなっている。『内容も、形式も、きわめて雑多で多様(佐倉氏)』かもしれないが、さまざまな分野における人と機械の関係性の「肝」があざやかに示されていて、冗長さはない。

もしかしたらそれは、編集的な巧さもあるのかもしれない。例えば最初の暦本純一氏の章は、「笑わないと開かない冷蔵庫」という掴みのあるトピックから入りつつ、着地はしっかりと学際的。同氏の『マクルーハンの非常に先駆的なところは、メディアをコミュニケーションやインタラクションの手段というよりも、第一義的には人間のエクステンション=拡張だととらえたところだと思います』というコメントは、「冷蔵庫」とメディア論をきちんと結びつけている。こういったオムニバス的著作としては、強力なトップバッターだ。

こういったカジュアルな学術本(?)のおいしいところは、送り手がふと漏らす、物ごとに深く関わった人ならではの知恵みたいなものに触れられることだろう。例えば「03 サイエンス・エンジニアリング・デザイン・アートの行方」での八谷和彦氏のひと言『浅いレイヤーと深いレイヤーの話も同じで、大将に応じて対応を変える必要があるんじゃないかなと思います』は、メディアーティストや研究者であると同時に「ポストペット」や「オープンスカイ」などのプロダクト化を実現した人ならではの知見だ。思わずメモってしまった。

また門外漢にはあまり馴染みがない、しかし思考の盲点を気づかせてくれるような知識を得られるのもありがたい。「07 歩きやすさと都市環境の行方」で述べられている、人間の健康と環境との関連性を扱う「医療地理学」の存在などは、この時代にもっと知られるべきなのでは。

こういった、リラックスして語られる質の高い記事の数々は、ある意味で「知のお宝」と言ってよいだろう。その幾つかは、今後の私たちの物差しとしても機能する。「12 ロボットと心/身体の行方」冒頭の『ヒューマノイドなどのロボットは、人間が人間を理解するための新たなプラットフォームとなっているのである』という一文などは、我々はロボットを創る理由と目的を見失わないための的確な問いとなっているのではないか。

いやホント、響いた一節を抜き書きして紹介していったらキリがない。テーマが幅広い分、読み手の興味関心に合わせて得るものがあるはずだ。随所に出てくる佐倉氏の文章はスムーズで、センスの良さを感じる。読みやすいこともお薦めの理由だが、ただそれだけではない。

冒頭の『はじめに:人と機械の関係とは』には、こんな一文がある。
 
潜在的に大きな力をもつものには、なんであれ、事前の準備が必要だ。その備えを怠ったことの悲劇を、福島第一原発事故で、ぼくたちは嫌というほど突きつけられたではないか。

タイトルには「デザイン」とあるが、それは私には「覚悟」を意味しているようにも思えた。折を見て、再読したい一冊だ。
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クラーナハ展@国立西洋美術館

2017年01月15日 | ♪&アート、とか

最終日前に飛び込んだクラーナハ展、
実はよく知らなかったのだが、日曜美術館で見て興味を持った。
絵画そのものよりも、画家のあり方、みたいなものが気になったのだ。

印象としては、「高い技巧と優れたマーケティング力を持った工房経営者」。
芸術としての絵画ではなく、売れる商品の制作を追い求めたように感じた。
言っておきたいのだけど、それは絵画としての良し悪しとは関係ない。
フェラーリ社が企業であるのと同様、どう届けるかの問題だ。

『ホロフェルネスの首を持つユディト』や『ルクレティア』、
または『マルティン・ルターの肖像』で描かれた眼差しに接すると、
彼らの命や意志が自分の脳の中で立ち上がってくる。
この描写力は、有無を言わせない凄さだ。

一方で顧客のニーズに上手く応えた題材を
効率的に生み出していくその仕組みを見聞きすると、
画家よりもひとつ上のフェイズで制作にあたっていたのではないだろうか。

付随して感じたのは、「工芸品」と「芸術作品」の境界線。
クラーナハの場合は、両方うまい具合兼ね備えている気がする。
絵画としての魅力と同時に、所有する満足も提供する、みたいな。

正直、絵画自体の力に心を奪われる、とはいかなかったが、
クラーナハという人物の絵画を通しての営みにはとても惹かれる。
そういう点では予習というか文脈を知っておくのは大切だなぁ。

ただ、今回音声ガイドの機械を借りたのだけど、
もう少し掘り下げた話が聞きたかった。
後、阿川佐和子氏のコメントは微妙だったなぁ……。
取材に際して事前のリサーチなどされたのだろうか。

東京はこのブログを書いている本日(1月15日)が最終日だけど、
大阪の国立国際美術館では1月28日から。
機会のある方は、是非どうぞ。



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