TRASHBOX

日々の思い、記憶のゴミ箱に行く前に。

Spotlight (2015)

2016年04月28日 | 映画とか
子供への性的虐待を繰り返す神父たちと、
教会による組織ぐるみでの隠蔽。
実際のボストングローブ紙の取材活動に基づいたこの一本は、
見応えがあり、そして分かりやすい。

物語の語り方としては、直球過ぎるくらいかも。
しかし実際の出来事だからといって、
「そのまま映像化すればよい」ではないはず。
そう考えるとと、ノンフィクションを表現物に高めるための
クリエイティブということが気になってくる。

朝日新聞の「フロントランナー」には、
『監督や脚本家は2人や関係者に詳細に取材。
映画のセリフも実際の言葉をもとに作られた』とある。
その難しさは、具象画を描くことに似ているのだろうか。
作るというより、むしろ作らないこと、みたいな。

もし、これがドキュメンタリーだったらどうなっていただろう。
仮にこの現場をずっと撮影し続けたクルーがいたとして、
仕上がりは、映画とどこが、どう違ってくるのだろうか。

自分なりに考えると、それは「整理」と「編集」なのかもしれない。
映画の場合は、会話や人の表情、オフィスの風景をどう再構築するか。
ドキュメンタリーであれば、何を共著いうしていくのか。

例えば劇中のマイケル・レゼンデスのオフィスは
文具やPCなどの仕事道具や書類で雑然としていたが、
実際の彼のデスクは、割と綺麗に片付いているそうだ。
ここには、キャラクターを補足していくための演出がある。

カットについて言えば、ドキュメンタリーの場合は、
メモを取る手元や積み上げられた書類の束など、
ちょっとしたクローズアップが増える気がする。
それらは本物の映像だから力を持つのであって、
いくら腕のいいアートディレクターが担当したとしても、
「小道具」たちは、多くを語ってくれないのではないかと思う。

一方で、会話は映画の力の見せ所だろう。
何の根拠もないが、同じようなセリフでも、
見る人間を意識して書かれ、演じられる言葉は
その後の広がりが違ってくると思う。

もちろん、どちらが良いとか正確だとかいう話ではなく、
観客の頭に「事実」を残すのがドキュメンタリーで、
感覚的に「物語」を形作るのが映画なのかもしれない。

そういった点で、映画としての「整理」と「編集」への評価は、
アカデミー賞での作品賞と脚本賞受賞にもつながっているのでは
ーーというのは、なかなかの我田引水だと思うけれど(汗)、

ま、こんな話とはまた別に、ジャーナリズムのあり方について等々、
いろいろ考えさせてくれる力作でした。
日頃の報道などに、もやっとしている方は是非。

ところで撮影監督のマサノブ・タカヤナギ氏は、
日本の大学を卒業した後に渡米して、映画制作を学ばれた方だ。
しっかりした映像描写、(ちょっと筋違いな感慨だけど)嬉しいなぁ。


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バッファロー

バレエと太極拳

2016年04月25日 | 太極拳日記
NHKのSwitchインタビューで、バレリーナの上野水香さんの話。
「筋力がなくても、形が決まるとハマる」みたいな言葉に
太極拳で型の正確さの大切さを何度も言われることを思いだす。
動きの精度を上げるのは「お手本を真似る」という内向きな行為ではなく、
自分が持つ最高のパフォーマンスを引き出すことだと感じた。
その意識を持って練習に臨みたい。