TRASHBOX

日々の思い、記憶のゴミ箱に行く前に。

007 カジノ・ロワイヤル

2006年12月31日 | 映画とか
Casino Royale

映画を見てはあれこれ小理屈並べてる俺ですが、007シリーズは理屈抜きでヨロシク!というスタンスであります。暮れの一日に見るにはちょうどいいやとポイントの溜まった銀座シネマカードでチケットを入手。サクッと楽しむつもりだったのだけど、それほどスッキリさせてくれなかったんだよな、これが。

ダニエル・クレイグはボンドというよりは悪役キャラのように思えるが、そこは目をつぶろう。ただ脚本のせいなのか、展開がもうひとつ。謎が十分解かれないまま「じゃ、次!」て感じで進行するし(せっかちなオッサンと飲みに行ってるみたいだ)、その割には恋愛がらみのシーンがかったるい。

まあジェームス・ボンド誕生前夜みたいな話なので、スーパーヒーローである前にその人間味を出そうとしているのかもしれないが、全体的にもっさりとした印象がつきまとう。

でももしかしたら、いまの世の中で007的設定は難しいのかもしれない。ふと「ボーン・スプレマシー」を思い出したのだが、あっちの方がスパイものとしての納得感がある(あくまで映画の世界としてではあるが)。非常な殺し屋となった背景にある哀しみ、とか描くよりは、銃とマティーニと美女にまみれた非現実的ヒーローでいてくれた方がスッキリ

硫黄島からの手紙

2006年12月30日 | 映画とか
Letters from Iwo Jima

"Flag of Fathers"に続いて硫黄島の戦いを日本側からの視点で描いたというこの一作、相変わらずイーストウッドらしいどっしりした映画だった。現代と過去の交錯する前作と違い、「手紙」では現在の位置づけは最初と最後の表紙くらいのもの。そのせいか、ストーリに感情移入できる度合はこちらの方が強かった。日本の役者たちも頑張っていて、構成的には地味ではあるが映画としての完成度はこちらの方が少し上かもしれない。

淡々とした展開ではあるが、演出的には興味深い点も多い。台詞はそのシーンの中心人物たちのものだけでなく、脇で聞こえてくる呟き(過酷な労働に「やってられないよなぁ」みたいな)は臨場感をふくらませるし、またそれがかなり今どきの言葉遣いで語られるところも試みとしては面白かった。日本語の演出に関しても上手くできている。

戦争映画の語り手としての一兵卒、西郷(二宮和也)の起用はなかなかスマートだ。教科書的ではない人間的視点を持ち込むことに成功していると思う。

でもちょっと気になったのは、日本の軍人の中で海外生活の経験があり語学もできる栗林と西の描かれ方。アメリカ的価値観に接したことと、リベラルな精神を持っていることが結びつけられているような印象を持ったのは俺だけだろうか。

しかしこの硫黄島の戦い、アメリカにとっては本土攻略の要であったのだろうが、日本はどんな戦略を持っていたのか、あるいはどの程度の勝算を見出していたのだろうか(玉砕前提の布陣という気がしないでもないが)。前作でも感じた「対立の本来の意味が忘れられたとき、戦いは無意味で悲惨なものになる」という感覚はここでもひしひしと感じられた。

アメリカ側でも「手紙」の評判は良いらしく(もっともそれはメディアによってまったく違ったりするのだが)アカデミー作品賞候補との声も。渡辺謙の次に世界に出るのはニノ?だったりして。

いぬのきもち―私、怒ってます!

2006年12月29日 | 雑感日記
先日のニューヨークタイムズでちょっとショッキングな記事を見つけた。日本で人気の変わった犬たち―青い目のチワワや白い色のダックスフンドなどーは、高値での売買をねらう一部のブリーダーたちの無茶な交配によって作られていて、その結果犬たちが障害をもって生まれてきたり、また生後すぐに死んでしまったりという悲劇を呼んでいるというものだ。

無茶な、というのはその多くが近親交配だということ。変わった遺伝子を残していくためのその手法は、同時に生体的な異常を招くことが多い。生き物はアクセサリーではない。そんな当たり前のことが忘れられているのは何故なのか。そう考えていると「子供がなつかない」と虐待したあげくに殺してしまうようなケースが思い浮かんだ。なんか狂ってるよ、マジで。

ふだんは自分なりに何か提言みたいなことを書こうとしているのだけど、いまの時点では腹はたつわ、哀しくはなるわで、ちょっと書くことができません。歳の瀬になんか嫌な記事だった。でも忘れるわけにはいかないので。

ただこの記事に限ったことではないが、欧米メディアのどこか「日本人という人種を観察する」という視点には違和感を覚える。たまごっちなどの例を引き合いに出して「可愛いもの好き」の日本人を分析するような文体にはちょっとオブジェクション、もあるのだが。

会話のカラオケ化?

2006年12月27日 | 雑感日記
外見的な印象(?)はともかく、基本的には話好きな方だと思う。馬鹿馬鹿しいネタ、真剣な話題、マニアックなトーク(知識がなくてもマニアの話を聞くのは面白い)、くだらないやりとり、下ネタ(もちろん状況は考慮するけど)等々、わりと守備範囲は聞き手としての広いはず。でもちょっと苦手な系統もあったりする。

それは内容ではなく、話のスタイルみたいなことなのだろうか。弁舌さわやかな名調子、おもしろいエピソードやレアな海外の話題など、中身はとてもレベルが高いのに退屈してしまうことがある。共通して思うのは、話し手がアナウンサー化して「情報を伝える」行為になっている場合。俺の場合、話を通じてその人となりを感じているのかもしれない。情報ではなく、あなたのことが知りたいのだ、という感じだろうか。

これってなんか、中途半端に上手なカラオケのようでもある。ももの凄く上手いか(Y君のオアシスは一聴の価値あり!)キャラクター全開の個性派唱法なら、聴いていても楽しいのだけれど。素敵な歌詞も、きちんと再現することだせに囚われていると何か伝わってこない。年末いろいろお誘いもあるけれと、せっかくなら楽しく充実したひとときが過ごしたいものだ。おっとこんな俺の話、退屈だった?(自らへの戒めもこめて書きました)

「嗤う」

2006年12月26日 | 気になるコトバたち
「わらう」―この言葉、お堅い保守系の雑誌の見出しなどで目にする程度ではあるがどうも違和感を感じていた。

「似非インテリの無知を嗤う」
「某○○の偽善者ぶりを嗤う」

こんな風な恐れ入っちゃうタイトルが基本パターンだろう。辞書の「笑う」の項には「あざわらう」という場合はこの字を使うとあるが、俺には正面から相手と向き合うのではなく、斜め上から(真上って感じじゃないんだよな)石を投げてるようなイメージがある。

なんだかこの感覚は「いじめ」に似ている気がする。いくら相手が嫌いでも、またその意見に反対でも、同じ土俵に立つことを避けながら攻撃するその様子はどこかの国の空爆戦略のようでもある。

論ずるに足らないほどくだらないのなら無視すればいい。社会的に放っておけなければ、評論として客観的な視点で書けばいい。議論をする気があるのなら、きちんと宣戦布告すればよい。でもそのどれでもないんだよな、こういう偉い人たち。

繰り返すけれど、この姿勢は日本人のいじめ体質(あーた学校だけじゃないんですのよ。職場とか近所づきあいとか、もう伝統芸みたいなもんです)と共通項があるように思えてならない。子供たちはその辺、きっと嗅ぎ取っている。

実は彼ら、心底では臆病なんじゃないんだろうか。正面から向き合えないから、妙にひねた格好のつけ方をしているだけ。賭けてもいいが、こういう人たちが欧米の論客と議論したらあっさりやられちゃうと思う。そのときには思いっきり嗤わせてもらいまっせ。