TRASHBOX

日々の思い、記憶のゴミ箱に行く前に。

ちくま日本文学全集 深沢七郎

2006年01月31日 | 読書とか
不思議な作風だなぁ、という第一印象。特に「べえべえぶし」や「極楽まくらおとし図」などに流れている、呪術的なうねりは、他の日本の文学作品では得られない感覚だ。ちょっとナイジェリアの作家エイモス・チュツオーラの「やし酒飲み」を思い出した。

「作られた物語」ではないが、リアリズムや、まして私小説でもない。語り口は素朴だけど、決して教科書用の毒抜き話でもない。でも実は日本人って整理整頓されてしまうまではこうだったのかもしれないなと思う。

「田舎の人は素朴で親切」なんてのは、幻想もいいところだと思っている。自分の親戚たちを見ていて、もちろん皆真っ当な人間ではあるのだが、情も嫉妬も好き嫌いも優しさも好奇心も、ひと通りの感情が人格の中で区別なく交じり合っている姿は、どぶろくのように濃い。「まるでワインみたい!」なスッキリした日本酒ばかり飲んでいると、ちょっと面喰っちゃうだろう。そんなことを考えたりする読後の俺でした。

そんなプリミティブな濃さに魅かれる部分が自分の中にもある。どこか「山へ帰れ!」と言われているような。でもその前に「楢山節考」読まなくっちゃ。

※たまたま見つけたこのサイトはなかなか示唆に富んでいる。あらためてスゴイ人だったのだなぁ(知らなすぎ?)

アナタノ日本語、ダイジョーブデスカ?

2006年01月30日 | 雑感日記
ATOKの日本語検定なるものをやってみた。結果は「ふつう」。やれやれ、一応物を書くのが好きだったり、コピーの仕事(ゼロックスじゃないよ)も手がけたりしてるん割にはこの有様。確かに日本語の正確な用法や表記はなかなかトリッキーだし、しまいにゃ中国発の四文字熟語まで聞かれちゃあ、ささやかな自信も揺らぎっぱなしだ。文章力のの強度偽装あるいは取引法違反に問われても仕方ないかも。

しかし被告、じゃなくて俺は思うのだけど、こういう正確さと言語としての豊かさの関係は、運転で言えば縦列駐車の上手さと街中でのスムーズかつ安全なドライブみたいなもので、両者はばっちりイコールではないはず。正しい知識を知っておくことには賛成だけど、もっと大きなところでの言葉のナガレやチカラを感じることが大事なのだと。

…とか言っても、これはゲームみたいなもの。言うだけ負け惜しみみたいになるから止めとくけど、考えてみれば実はATOKの広告なんだよな。そこにハマったところが広告屋として複雑でござった。

写真展岡本太郎の視線/東京都写真美術館

2006年01月29日 | ♪&アート、とか
岡本太郎が写真すると一体どーいうことになるのか。展示タイトルは、この主旨を忠実に反映していると思う。そう、従来の企画が「作品としての写真」であったなら、今回はそれを生み出す「視線」の展示であるように感じられた。土門拳に素人の写真だと言われて「それは自分にとって誉め言葉だ」と返した岡本の作品は、技術ではなく物事を感じるチカラを爆発的に問いかけてくる。

縄文土器、秋田のなまはげなど日本各地のプリミティブな祭り、そして大阪や沖縄の匂ってくるような人の姿。ずんずん対象に迫って撮られた作品群には、ある種ジャーナリスティックな印象もある。それが結局は、写真という手法の本質を示しているようにも思えるのだ。岡本は「偶然をとらえて必然にするのが写真」というような言葉を残しているが、芸術も報道も関係なく、そこにある命を写し撮ることが写真のすべてだ、と考えていたのではないだろうか。

そのスタイルはさすが、という気がする。しかし反面、視線をとらえる引力のないものには興味がわかなかったのか、その写真世界の幅はそれほど広くないような印象も残った。なんていうか、ワンパターンな感じがしないでもない。その辺の突っこみが、ちょっと展示者側の視線として欲しかったなぁ。まあそう感じる人間は少ないのかもしれないけど。

ところで岡本は、ファインダーを覗いた印象のまま素早く撮れるカメラを好み、後半では露光機能をそなえた一眼レフを愛用していたらしい。いまの進歩したデジタル一眼レフを手にしていたら、どんな写真を撮っていたのかちょっと気になるなぁ。

僕のニューヨークライフ

2006年01月28日 | 映画とか
Anythig Eles(2003)
Director and Writer: Woody Allen / DP: Darius Khondji

日本で上映されるウディ・アレンの新作―ではあるが、製作されたのは3年前。前回の「メリンダとメリンダ」(2004)の方が後の作品なんだけど、まあそんなことはいいか。ここのところ老化が目立つ(70歳だし)ウディ、恋愛沙汰を演じるのはさすがにキツイなと感じていたのだが、今回のちょっと変わり者のベテラン作家という役は割とイケている。いままで彼が演じてきた男が、年を取ったらこうなるのだろうというイメージに近い。ユダヤ人関係のネタは少々かたくなかな、という気はしないでもないけど。

才能はあるけれど優しすぎる作家のジェリー(ジェイソン・ビッグス)は、アレンを今風にこざっぱりさせたようなキャラクター。強烈な役柄ではないけれど、ダニー・デビーやクリスティーナ・リッチなどの芸達者のいい受け皿になっている。まあ往年(っていつなんだ?)の切れ味みたいなものはちょっとないけれど、ニューヨークの風情も楽しめるし、サクッと笑える佳作ってところだろうか。

しかしこの邦題、他になかったのかね。企画物のパンフレットに使われている「僕のトーキョーライフ」みたいな話とかKIHACHIとのタイアップで、ジャズを聴きながら無国籍料理(それがNY風とのこと。違うような気がするけど)を楽しむイベントとか、なんだか取り扱いが気恥ずかしいのだ。次回作のMatch Pointはロンドン移住後の作品だけど、今度はどういう風に盛りあげる気なのだろう。

亀田興毅の脆さ

2006年01月27日 | 格闘のお時間
興味のない人にはまったく関係ない話題かもしれないけれど、ボクサー亀田興毅。強気でイケイケのキャラに着実な戦績でメディアへの登場もふえてきたので、名前を聞いたことくらいはあるだろう。「大阪に元ボクサーの父親が教えているオモロい3兄弟がいる」というあたりから知ってはいたのだけど、長男興毅はもうWBAの世界ランキング4位(byジョー小泉)。今年の世界戦に向けての展望も明るい。あと1、2戦経験をつんでから良いコンディションで臨めれば、チャンピオンの座も夢ではない、というところまで来ている。

しかしWOWOWでのインタビューなど見ていると、ちょっと気になることが。この兄ちゃん、一般的なイメージとは裏腹に、けっこう物事考えるタチで、他のボクサーの分析などもなかなか的確だ。言い方は「あいつはアカン、根性なしや!」みたいに感覚的ではあるが、思考回路は非常に論理的である。そのクレバーさもまたよし、なのかもしれないけれど、どうもその理路整然さに疑問を覚えるのはワシだけなんかいな。

父親曰く、「興毅は泣き虫や」の言葉どおり、彼には繊細な一面があると思う。それを乗り越えるべく練習や研究を積み、さらに自ら鼓舞べくビッグ・マウスをかましていくのは全然ありなのだけど、その奥に垣間見えちゃう生真面目さがちょっと危ういというか。

人間、物事をわかっていれば安心するところがあって、「コイツはこうや」と断定してしまうと結構気が楽になる。その反面、事態がその読みを外れた場合(いわゆる「想定の範囲外」やな)の対応は後手にまわってしまう。今後の強敵と相対する際には、その辺よーく考えてみてもエエかもしれんで。

とはいえ今の日本のボクサーの中では、実力もキャラクターも期待できる存在であることは間違いない。兄ちゃん、ひとつ頼んまっせ。