ふと思いついて文庫本を手に取ったら、一気にいってしまった。いま読むとある種のお伽噺のようにも思えるのだが、要所要所での描写はやはり鋭い。(列車の中で眠る彼女に止まった蝶が)「飛び去ってしまうと、彼女は少しだけ歳をとったように見えた」(うろ覚えです)という暗示的な文章のちりばめ方なんかは、やはり天賦の感覚なのだと思う。
以前川上弘美が村上氏について「あの人は天才だから」と述べていたことを思い出す。氏がそのように語られることが、そのときはピンとこなかった。天才という言葉の持つ切れ味や狂気とは異なるタイプの才能だと思っていたからだ。でもあらためて思う、村上氏は紙一重のところにいるのだと。それは自らも書き手である川上氏だからこそ気がついたことなのかもしれない。
しかし今回の再読は単に「村上春樹再発見」というわけではなく、同時に小説としての腰の弱さみたいな部分も感じたりした。ときおり出くわす解決されない謎みたいなものがちょっとアンフェアに思えたりとか。どことなく昔足繁く通った店を久しぶりに訪ねて「こんな感じだったっけ…」と戸惑うような気分でもあった。
ちなみに週末は勢い余って(?)、「僕と鼠」シリーズの最終作でもある「ダンス・ダンス・ダンス」も読了。ちなみに「ダンス…」は村上氏が手書きからワープロに変えた第一作とのこと。登場人物の輪郭がくっきりしている反面、味のある曖昧さがないようにも感じられるのはそれと関係があるのだろうか。(著者自身は道具が変わっても関係ないと述べていたけれど)
しかし自分でこんな文書を書いておいてなんだけど、巷の村上春樹研究はどうしてことごとくつまらないのだろう。たまに手にとると「そういうことじゃないんだよなぁ…」と思えて、やれやれ、と春樹的に呟いてしまう。村上春樹を研究することは、三浦りさ子が何故カリスマ主婦なのか調べるのと同じなのかもしれない。幻影を追い求めている、つーかね。
以前川上弘美が村上氏について「あの人は天才だから」と述べていたことを思い出す。氏がそのように語られることが、そのときはピンとこなかった。天才という言葉の持つ切れ味や狂気とは異なるタイプの才能だと思っていたからだ。でもあらためて思う、村上氏は紙一重のところにいるのだと。それは自らも書き手である川上氏だからこそ気がついたことなのかもしれない。
しかし今回の再読は単に「村上春樹再発見」というわけではなく、同時に小説としての腰の弱さみたいな部分も感じたりした。ときおり出くわす解決されない謎みたいなものがちょっとアンフェアに思えたりとか。どことなく昔足繁く通った店を久しぶりに訪ねて「こんな感じだったっけ…」と戸惑うような気分でもあった。
ちなみに週末は勢い余って(?)、「僕と鼠」シリーズの最終作でもある「ダンス・ダンス・ダンス」も読了。ちなみに「ダンス…」は村上氏が手書きからワープロに変えた第一作とのこと。登場人物の輪郭がくっきりしている反面、味のある曖昧さがないようにも感じられるのはそれと関係があるのだろうか。(著者自身は道具が変わっても関係ないと述べていたけれど)
しかし自分でこんな文書を書いておいてなんだけど、巷の村上春樹研究はどうしてことごとくつまらないのだろう。たまに手にとると「そういうことじゃないんだよなぁ…」と思えて、やれやれ、と春樹的に呟いてしまう。村上春樹を研究することは、三浦りさ子が何故カリスマ主婦なのか調べるのと同じなのかもしれない。幻影を追い求めている、つーかね。