TRASHBOX

日々の思い、記憶のゴミ箱に行く前に。

羊をめぐる冒険/村上春樹(再読)

2007年02月24日 | 読書とか
ふと思いついて文庫本を手に取ったら、一気にいってしまった。いま読むとある種のお伽噺のようにも思えるのだが、要所要所での描写はやはり鋭い。(列車の中で眠る彼女に止まった蝶が)「飛び去ってしまうと、彼女は少しだけ歳をとったように見えた」(うろ覚えです)という暗示的な文章のちりばめ方なんかは、やはり天賦の感覚なのだと思う。

以前川上弘美が村上氏について「あの人は天才だから」と述べていたことを思い出す。氏がそのように語られることが、そのときはピンとこなかった。天才という言葉の持つ切れ味や狂気とは異なるタイプの才能だと思っていたからだ。でもあらためて思う、村上氏は紙一重のところにいるのだと。それは自らも書き手である川上氏だからこそ気がついたことなのかもしれない。

しかし今回の再読は単に「村上春樹再発見」というわけではなく、同時に小説としての腰の弱さみたいな部分も感じたりした。ときおり出くわす解決されない謎みたいなものがちょっとアンフェアに思えたりとか。どことなく昔足繁く通った店を久しぶりに訪ねて「こんな感じだったっけ…」と戸惑うような気分でもあった。

ちなみに週末は勢い余って(?)、「僕と鼠」シリーズの最終作でもある「ダンス・ダンス・ダンス」も読了。ちなみに「ダンス…」は村上氏が手書きからワープロに変えた第一作とのこと。登場人物の輪郭がくっきりしている反面、味のある曖昧さがないようにも感じられるのはそれと関係があるのだろうか。(著者自身は道具が変わっても関係ないと述べていたけれど)

しかし自分でこんな文書を書いておいてなんだけど、巷の村上春樹研究はどうしてことごとくつまらないのだろう。たまに手にとると「そういうことじゃないんだよなぁ…」と思えて、やれやれ、と春樹的に呟いてしまう。村上春樹を研究することは、三浦りさ子が何故カリスマ主婦なのか調べるのと同じなのかもしれない。幻影を追い求めている、つーかね。

不思議な国会答弁

2007年02月24日 | 雑感日記
昨日たまたまテレビをつけたら国会の予算審議の中継に出くわした。まず冒頭の首相質問を行ったのが深谷隆司議員だったのだが、話はいきなり自民党が野党だった時代の思い出から。意気消沈する自民党員の中で鋭く当時の細川首相を追及したことから話題は首相の父親安部晋太郎氏のことなどへ。そして首相への質問は「ついに天下を獲った」いまの政治にかける思いを聞かせて欲しい、というものだった。

それに対して安部首相、初当選時の自民党は野党であり質問者の深谷議員の姿を感服し眺めていたことなどの思い出をイントロに、「しっかりやっていかなくてはいけない」という実体のない答弁。このやりとりだけで、すでに5分ほど経過していたと思う。

しかしね…誰かの結婚式に呼ばれて、当人たちとは関係なく自分のことだけ話してして帰る議員の話を聞いたことがあるけれど、まさにそんな感じだろうか。一応税金を納めている身としては、ああいう話は議員の親睦会で話すことにしか思えない。(できれば自腹でね)

でも国によって作法というものあるのだろう(そういう意味ではイギリスの国会討議なんかもちょっと面白いし)から、第一問は許そうとか思ってみていたら、深谷議員の次の質問も「心境をお聞かせいただきたい」みたいな展開…そんなこと聞いてどうすんですかね?

この後を見ていないのでなんともいえないのだけれど、記事として取りあげられるような内容はほんの一部で、後はこんな調子なんすか?ほんの10分程度の視聴で物申すのもなんだけど、随分と無駄でくだらない話に時間を使っていることに愕然、つーか呆れた、つーか哀しくなった。

まあ政治に詳しい人には今更の話なのかもしれないが、変なものは変だ。日本のビジネスが好む好まざるに関らずグローバル化の波をかぶって随分と効率的、合理的なやり方を身につけてきた(一部ではあるけど)のに対して、この様子にはちょっとクラクラする。それともこのスタイルなりに何かメリットがあるのだろうか。(それにしてもテレビの話題続くなぁ)

独創と模倣、あるいは創造と改良

2007年02月20日 | 雑感日記
テレビ東京のWBS(ワールド・ビジネス・サテライト)をよく見ている。経済トピック中心ではあるが、視点が明解なせいか結構面白い。そのキャスターがあるとき「日本人に創造性はあるんでしょうか?」という質問をゲストに投げかけていた。(たぶん技術革新とかに関する話の流れだった)

「日本人はオリジナルを作るのは苦手」という一般的な認識に基づいていたものなのだろうが、その口調はかなり断定的だった。「無理でしょ、日本人には」、みたいな。でもそういう一面はあるかもしれないけれど、そう決めつけるなよ、という気がしてあまり愉快じゃなかった。

先日のNHK「プロフェショナル」(テレビばっかり見てるみたいだ…)にMIT(マサチューセッツ工科大学)教授の石井裕という人か出ていた。へぇー、あそこで教えている日本人がいるなんてスゲーッと思って見ていたのだが、「自分は凡人」という思いの元に斬新で唯一のものを求めて奮闘する姿には感銘した。

石井氏のことが知りたくて覗いたサイトにこんな記述があった(以下引用)。

『クリアボード(石井さんたちが開発表したネットワークの新技術)は、海外で高い評価を受け、やがて日本でも評価を得ました。面白いと思ったのは、注目のポイントが違ったことです。日本が技術の中身、回線スピード、仕様や価格などに注目したのに対し、欧米では「クリアボード」の裏にあるシームレスというビジョンに注目が集まりました。裏側にある哲学や美学に言及するコメントが非常に多かったんです』

物理的成果に注目するか、根っこにある発想や思想に目を向けるか―もしかしたら「創造性」って、この違いに関係があるんじゃないだろうか。日本人は云々と言う前に評価の基準をもう一回見直してみるべきかもしれない。

自分の経験でいうと、海外のクリエーターは「コンセプトがOKなら後は任せろ」というスタンスを取る場合が多い。物事の具体性はもちろん大事なのだが、より新しく広いアイデアを生み出すためのフレームを変えてみてはどうだろう。何人か海外のスタッフと仕事をしてみたけれど、決して日本人が発想力で劣っているとは思ったことはなかったし。

もしかしたら僕たちには「独創性コンプレックス」があるのかもしれない。あっさり決めつけちゃう前に、あれこれ手を出してみる方がきっと面白いはずだ。

ハーバードMBA留学記/岩瀬大輔

2007年02月18日 | 読書とか
副題が「資本主義の士官学校にて」。梅田望夫氏のブログでこの本のことを知り、まずは著者が留学時代に書いていたブログを覗いてみた。はやりの若手起業家系ビジネスものかと思ったのだが、むしろエリートたちの集団(著者自身もれっきとしたエリートなのだが)に飛び込んだ若者の青春記のような熱さに引きつけられた。特に前半のprincipleに関する日記(カメルーン代表の項)では、心をかきたてられた。ビジネススクールに学ぶ人間たちのマネーゲーム・プレーヤーとは異なる顔を見たような気がする。

確かに能力にも環境にも恵まれた人たちの物語であるとも言えるだろう。でも誰でも自分の生きる場所それぞれでの競争や葛藤はつきまとうわけで、学べることは大いにあった。それにこの人、音楽(大のジャズファン)や日本の古典芸能(文楽好き)にくわえて飲み食いをこよなく愛するキャラクターはなかなか魅力的だ。行間から溢れてくる著者の若さにどこかで似たようなものに触れたな、と思っていたのだが、それは先日読んだブコウスキーの「くそったれ!少年時代」だった。書き手のタイプは180度異なるのだけど、どこか共通した青っぽい熱さが青春ってヤツなんだろうか。うーん、ちょっと眩しいぜ。

ところでこの下の部分が妙にツルンとしている表紙、店頭で帯がついている状態では完結したデザインに見える。売りのねらいとしてかもしれないが、なんか帯を外した後の本の存在感という点では、どーなんでしょ日経BPさん。

マイカップを連れて

2007年02月15日 | 雑感日記
企画なんかを考えるとき、最近は会社のデスクよりも外に出ることが多い。だってワサワサして落ち着かないんですもの。で、よく行く場所のひとつがちょっと離れたスターバックス。先日の出張で買ってきたカップを持ち込むのだけど(「パーソナルでお願いします」って言うんですね、お店の人)、これが割と評判がいい。

「カワイイですねぇ!」「ステキ、日本にないですよね」となかなかの人気者。この感覚、なんか犬を連れていて「まあカワイイ、何歳ですか?」とか聞かれている感じ(注:犬は飼ってないのであくまで想像)みたいだ。とするとこの愛犬、というか愛カップ、何か名前があった方がいいのだろうか。名案のある方はどしどしご応募ください。

でもスタバで「このカップ、○○って言うんだ」と言った瞬間の店員さんの顔、見たいような見たくないような(つーか、次回から行けなくなりそうだ)。