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全米オープンテニス2018の雑感〜その1:錦織圭は何を待っていたのか

2018年09月11日 | 雑感日記
僕はそれほどテニスに詳しいわけではない。大昔、マッケンローやレンドルが活躍していた時代は結構マメに中継を見ていたのだが、ここ最近はスポーツニュースのダイジェストを覗くくらいだ。なので、きわめて浅い情報と理解での言い草であることは自覚しつつ、でもちょっと書いておきたいことがあった。

男子の準決勝、錦織選手はジョコビッチ選手に敗れた。「ジョコと戦うエネルギーが残っていなかった」と題された記事には、錦織の「(いつもなら)よみがえってくる自分のテニスが、あんまり来る気配がしなかった」というコメントがある。この「よみがえってくる」や「来る気配」が気になったのだ。彼は、何か「もっと強い本当の自分」の到来を待っていたのだろうか。

もちろん、前々日のチリッチ選手とのフルセットマッチの疲労の影響は無視できない。よく言われることだが、プロとしては小柄な身体への負担は、他の選手以上に大きかったことだろう。またジョコビッチのテニスも、ある意味で厭らしいくらいの精度を見せていた。ああいった攻撃は、目の覚めるようなスーパーショットとは違って、メンタルにもじわじわと効いてくるのではないだろうか。

たとえば、やられたのに笑って拍手してしまうくらいのスーパーショットなら、逆に気分を切替えることもできるだろう。しかし「どこに打っても返ってくる」タイプの反撃は、「何をやっても効かないのか」という凹みを招き始める。錦織はそんなダメージも蓄積させていったのではないだろうか。

思い起こせば(といいつつ記憶はかなり曖昧なのだけど)、2014年の同大会でジョコビッチに勝った錦織は、コート上で牛若丸のように見えた(古い例えでスンマソン……)。あの元気ハツラツな自分を、2018年の彼は待っていたのだろうか。もしそうだとすると、その感覚が危うく、残念に思える。

もっとも、スポーツメディアのもう少し詳しい記事では、錦織は試合を振り返って「さらに上書きされて鋭い球が飛んできたので、なかなか主導権を握ることができなかった」等の客観的な感想を述べており、実際にはそんなふわふわした気分だけで戦っていいた訳ではないのだろう(あたりまえだけど)。

ここからは、自戒を込めた物言いになる。「あのとき良かった自分」を呼び出そうとする気持ちは、目の前の出来事からの逃避にもつながりかねない。配られたカードが悪くても、それでなんとか戦うしかないのだ。人並み外れたタレントを持つ選手であるがゆえに、幾多の普通のプレイヤーよりはその思いが強かったのかもしれない(以前松岡修造氏が述べた、「圭は才能ではフェデラーと並ぶレベルで、ジョコビッチよりも上」は分かる気がする)。

それでも、前述の記事にあった「(昨年はプレーできなかった)ニューヨークに来られて、再び準決勝まで進めて本当にうれしいです。いいテニスで、この2週間やりきれたとは思います」というコメントには希望をもたされる。このポジティブな視点もまた、錦織選手の才能だと思う。ちょいと気になることはあったけど、やはり素晴らしいプレーを見せてもらった今年の全米、お疲れさまでした。