地味ログ東洋硬化.うろつき雑記

寒い時も暑い時も、寒い場所も暑い場所も、処かまわず神出鬼没な東洋硬化の表面処理を、ポップに語ります。

20周年 その1

2006年06月11日 09時30分31秒 | 時事ネタ


「20周年迎えたペレストロイカの歴史的意味  ロシアの将来世代に正当な評価を」
とのタイトルで、「世界週報」5/30号にロシア東欧研究で著名な中澤孝之氏が寄稿さ
れています。

今年2006年でペレストロイカ(改革)開始から丸20年になりました。

長く停滞の時代だったブレジネフ政権下から、鋭敏ではあったが短命だったアンドロ
ポフ、凡庸な(どうしようもない)チェルネンコ、の2つの短い政権を経て、ゴルバ
チョフがソ連の最高指導者である共産党書記長の座についたのは、1985年でした。

当初の1年間は、すでに破綻寸前にまで落ち込んでいたソ連経済を再生させるべく
「ウスカレーニエ(経済の加速化)」が模索されましたが、奏功せず、ソ連国内経済
だけでなく、政治風土・共産党・米国を中心とした西側諸国との軍拡競争の有り様・
コメコン内でのブロック経済の改革等々を行なわねば、もはや破綻への道を逃れるべ
くもない、との結論にゴルバチョフは到りました。

そして、開始されたペレストロイカはまず、第一に,経済の改革を掲げ、停滞したソ
連経済を内部から活性化し、生産性を向上させるための政策として、共産主義社会に
有り得べからざる、個人経営、自由市場経済、企業の個別の社会的責任性の明確化、
諸外国との合併事業の導入などを取り入れました。

すなわち、レーニン以降数十年続けてきた共産主義的な枠組みをはずし、資本主義的
要素を取り入れる政策です。それまでの生産は、生産目標を中央で決定し、下へおろ
すトップ・ダウンの方式でしたが、企業がまず生産計画を立て、国がそれをもとに国
家計画を編成する方式、経済性優先への方式へと切り替えたのでした。

しかし、ペレストロイカの理論と現実とは、なかなか一致しませんでした。

活性化が遅々として、進まなかったのは、保守的傾向にあった官僚層の抵抗があった
からです。

旧ソ連の就業人口は1億3000万人、そのうち中央省庁や管理機関に就業する高級
官僚が、約300万人、その下の企業・農場の中間管理者層が1500万人、これら
の人々が、ペレストロイカの実施によって就業を追われる恐れから反抗し、改革を妨
げていたのでした。

時を追うごとに、ペレストロイカは経済面では未成功状態であることが判明していき
ましたが、むしろ、政治面・文化面・社会面で大きな進展をみせていきました。

政治面では,複数候補制や秘密投票性の実施、(フルシチョフが手をつけ、それが原
因で失脚をもしてしまった)スターリン批判の再開や、ソビエト史の再検討などが行
われました。

文化・社会面では、閉鎖的なマスコミ報道を改め、民衆の声をもっと政策に反映させ
るため、「グラスノスチ」と呼ばれる情報公開政策がとられました。この政策は、一
連のペレストロイカの中でも、特に重要な政策の一つとなり、言論・思想・集会・出
版・報道などの自由化・民主化が少しずつ実行される様になったのでした。

例えば,1986年チェルノブイリ原子力発電所での大規模な爆発事故が起こった際、
当初、現地の責任者は事件の真実を最高権力機関に秘密にしていました。現場にいる
者以外の誰も、破壊の度合の大きさを知らなかったこの大事故は、第27回共産党大
会で宣言されたグラスノスチにより,現実にソ連国内に報道されました。この報道を
契機に,社会問題をより真実に伝えようとの流れが、ソ連国内の報道機関に醸成され
始める様になったのです。

麻薬の乱用・犯罪・汚職・為政者の過ちなど、多数の記事が報道されるようになって
いきました。スターリンの新しい(ネガティブな)資料も公開され、批判が再燃しま
した。リベラルな作家・ジャーナリストが先を争って、自己の主張を堂々と発表する
様になり、ペレストロイカの一環として、グラスノスチが、ソ連社会の矛盾露呈に大
きな役割を果たしたのでした。

経済的には失速しつつも政治的・文化的・国際社会的に成功していく気配のあったぺ
レストロイカの流れをはっきりと対外的に印象づけたのは、「ブレジネフ・ドクトリ
ン」の否定です。

1968年のチェコスロバキア共産党書記長ドプチェクによる改革によってもたらさ
れた「人間の顔をした社会主義」。このスローガンの下、ドプチェクは言論の自由化
など「上からの改革」を推し進めました。それに呼応して様々な改革運動が展開して
いったのですが、これら一連の動きを総称して、当時「プラハの春」と呼ばれたも
のでした。チェコスロバキアのこの社会主義改革運動が、他の社会主義国にも波及し、
共産党体制の基盤を掘り崩すとの惧れ、さらにはソ連ブロック全体を揺るがす危険性
が察知されたことから、これを座視することができず、その当時、ソ連共産党の指導
者であったブレジネフは、ワルシャワ条約機構軍をプラハに投入し、「プラハの春」
は終わりを告げました。「社会主義を保護する」為に衛星国の国内問題に干渉する権
利があるとする主張は、「ブレジネフ・ドクトリン(制限主権論)」として知られるよ
うになりました。


(ブレジネフ書記長。西側首脳から高級乗用車のプレゼントを受けるのが大好きで、
ガレージには常時十数台の名車たちが並んでいたとか)

ゴルバチョフは、この「ブレジネフ・ドクトリン」を否定し、ソ連ブロック内であろ
うとも、場合によってはソ連国内であろうとも、各国家単位・自治体や民族単位での
政治活動に強圧的・武力的対応を行なわない、と明言し、事実実行し続けたのでした。

これが、各衛星国の政治的自主化やソ連国内の民族主義の勃興と先鋭化を誘発し、ひ
いては、ソ連の消滅という事態にまで進んでいく引き金となったのです。

●ポーランドの労働組合「連帯」の、西側労働組合的動き、を許容
●ハンガリーやチェコスロバキア共産党の独自性発揮、を許容
●東ドイツ共産党腐敗内部告発からの政権崩壊の許容
●西ドイツによる東ドイツ吸収の許容
●ルーマニアのチャウシェスク政権崩壊の許容
●バルト3国のソ連からの独立運動の許容
●ザカフカス(グルジア・アゼルバイジャン・アルメニア)の民族運動の許容
●ナゴルノ・カラバフ自治州の帰属をめぐるアルメニア・アゼルバイジャンの反目と
                              紛争に対する無視


(アゼルバイジャン共和国内にあるアルメニア人が多く住む「ナゴルノ・カラバフ自治州」の帰属を
めぐって両共和国が内戦を起こしました。グルジア共和国内でも、アブハジアやその他さらに
小さな自治州のグルジアからの独立をめぐって、今もまだ内戦は継続しています。大カフカス山脈の
北側には、旧ソ連崩壊後に民族運動が先鋭化した、「チェチェン」・「オセット」・「イングーシ」・
「ダゲスタン」などの民族共和国が林立しています。確かに旧ソ連領内は諸民族の牢獄の様相を呈して
いました)

ざっとあげるだけでもこんな感じで、当時、新聞紙上は旧ソ連関係の記事で毎日が
大騒ぎ。

ペレストロイカは、東側ブロック内での、強権的手法により、それまで封じ込められ
ていた政治的矛盾や弾圧に対するこれら反動を、激しく誘発したのでした。

と、いうか、それまでの軍事強圧的な共産党独裁政権が力でねじ伏せて押さえ込んで
いたものを、理性と相互理解で解決していこうとする高邁な(悪く言うと日和見的な)
ゴルバチョフの政権運営手法が、元々諸民族が持っていたエネルギーの蓋を、かえっ
て、開かせてしまったというのが、ほぼ正しい理解ではなかろうか、と思います。


バルト3国が「人間の鎖」により取り囲まれた後、ソ連から離脱し、ベルリンの壁が
壊されて西側諸国が沸きかえってからそれほどたたない頃、モスクワではクーデター
が発生してしまいました。

以下は、次回以降に。


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