国道122号沿いの音楽喫茶 『ドルフィン』

さぁ、音楽を聴け!
コーヒーは自分で沸かして用意して…
そんな仮想の音楽喫茶

ある1人のミュージシャンに対する憧憬

2010年11月27日 | マスターの独り言(ジャズ以外音楽)
ふと気が付いてみれば後1ヶ月ほどで今年も終わる。
まだ今年を振り返るには早すぎるが、
それでもこの音の洪水を聴くと自ずと振り返ってしまうのだ。

ボブ・ディランの『偉大なる復活』
これはバイク事故、自主レーベル設立など様々な環境変化の果てに
1974年にザ・バンドと久々に行ったコンサートの記録だ。
今年の3月にディランは68歳で日本のライブハウスでのライブを行ったが、
このアルバムでは最も脂がのりきり、かなりの注目が高かったころの
エネルギッシュなディランを聴くことができる。

スタジオアルバムに比べるとあの独特のつぶれたようなしゃがれ声ではなく、
かなりはっきりと歌っているディランがいる。
つまりディランの第1関門である声の聴きやすさという部分ではかなり聴きやすい。
どの曲もアレンジをしているが、骨格はしっかりと残っている。
しかしディランのエネルギーは、何かをぶちまけるかのように刺々しい。
声は怒気を含んでいるかのようであり、
演奏も渦巻くかのようにスピーディーで、かつ乱暴だ。

会場のオーディエンスはディランを待ち望んでいた様子が分かるほど盛り上がっている。
今でこそロンドンで「ビートルズ・ツアー」に参加をしても
気づかれなかったという冗談のような話まであるディランだが、
このころのディランはアメリカを代表するような存在だったのだろう。
このコンサートのチケットは郵便で応募、抽選が行われたが、
予定枚数を遙かに超える応募があったそうだ。

僕は運良く3月に生のディランを聴くことができた。
そこには還暦を過ぎてもまだかっこよく歌い続けるディランがいた。
ディラン自身が歌うことを楽しんでいる様子が伝わってきた。
まぁ、僕にディランの何が分かるのかと言われればそこまでなのだが、
『偉大なる復活』の声はどこか性急で、
型にはまった自分をふるい落とそうとする若かりしディランだと思う。
どちらがいいという問題ではない。
「ボブ・ディラン」という1人のミュージシャンが
歩いた軌跡にただ魅了されているだけなのだ。