寅の子文庫の、とらのこ日記

本が読みたいけど本が読めない備忘録

バアバのお見舞い

2006年12月15日 21時41分03秒 | バアバの生活手帳


母が伯母を見舞いに行きたいと言う。

ずいぶん世話になったからねえ、
ひと目、顔を見るだけで気が済むんだ、
先生がね、どこも悪いところはないんだって、
でも歳だからねえ、年内持つかどうか、
最後のお別れになるかも知れない・・・

そう言って近所の八百屋で苺とバナナを買い
冷たい雨の中、私は車を出した。
80歳の母が98歳の伯母を病院に訪ねる。

母は太平洋戦争の末期、自分の母親を亡くした。
私の祖母にあたる人だ。
昭和19年の夏を過ぎた頃から急に腰が痛いといって病み
沼津の海軍病院で診て貰ったときには原因は分からず、
明けて昭和20年4月、わずか40歳で還らぬ人となった。
その後、B29の沼津空襲で母は家と家財道具の全てを失う。

伯母は10人兄弟の上から2番目で、死んだ母親は長女だった。
長女を亡くす前後に三人の弟を戦争で失った。
一家三人国難の犠牲に殉じて、誉れ高き家と称えられた。
残った家族は昼を気丈に振る舞い、夜に人目を忍んで泣いた。
伯母は嫁いだ先がたまたま母の家の近所で
亭主の他に小舅が7人も居て、それは苦労を積んだらしい。
母は母親が死んでから18歳年長の伯母に助けられた。

私は最近、母のそんな遠い昔話を懐かしい響きで受けとめている。
授業の代わりに海軍工廠に旋盤要員で駆り出された、
戦争で亡くした若き伯父たちの眩しい横顔、
母親の看病で女学校の卒業式に出られなかったこと、
家を焼かれ、橋の下で泣いて一夜を明かしたこと、
戦後の復興で人に薦められて応募したコンテストでミス沼津になった。

楽しさ、辛さを天秤にかければどうであったかと問えば
もうちょっとお母ちゃんと一緒に暮らしたかった、
お母ちゃんにお料理をいっぱい教わりたかった、
お母ちゃんが元気で居たころが一番楽しかった、
あの時代はね、あれで仕方なかったんだよ、
誰が悪いんでもない・・・そう言って口をつぐんだ。

母は今、母親の倍の歳を生きている。
戦争中の体験や幼い頃の思い出をあれこれ聞いていると
病気で死んだ母親や戦争で死んでいった伯父たちが
母や伯母に自分たちの分まで生きなさいと
命を与えているような気がしてならない。

私は遠慮して階下の駐車場にいた。
伯母は母にニッコリ笑って、『またね』と頷いてみせたそうだ。
相が良いからじきにお母ちゃんが迎えにくるよ・・・

母も母親も伯母も精一杯自らの命をまっとうし
生死を越えてまた同じ来世に必ずや生まれ会えるだろう。