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寅の子文庫の、とらのこ日記

本が読みたいけど本が読めない備忘録

曽野綾子~ある神話の背景。

2007年05月21日 06時44分45秒 | 15年戦争
最近、アマゾンで本を売らなくなった。
売れるまで多少時間をかけても、良い本はマイサイトで丁寧に売りたいのだ。

これからまた、暑い夏を迎える。
陽射しが強くなればなるほど、15年戦争の本が読みたくなる。
2年越しで、読みたかった本が入手できた。


【ある神話の背景~沖縄・渡嘉敷島の集団自決/曽野綾子】
PHP文庫/1992年


《参考になった関連記事のサイト》
ある旅人の○×な日々~「ある神話の背景」を読んで(05/8/11)
本からの贈り物~『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実―日本軍の住民自決命令はなかった!』 曽野 綾子(06/5)

◎追記/関連記事のサイト(09年4月2日)
その『神話』の背景の、サイト

15年戦争の本棚毎日更新中。

2007年03月17日 09時23分25秒 | 15年戦争
買い取りのお声掛けを続けざまに2件、ご辞退申し上げた。
3年目を迎える寅の子文庫では、『売れない本棚』も自サイトへの呼び水(検索ヒットに掛かるキーワード)として撤去しない方針で残してある。その本棚をご覧になられて買い取り打診のメールを頂戴するのだが本当に申し訳ない。

古本屋たるもの、本来ジャンルにこだわり門戸を狭めてはいけないと思う。
しかし店舗を持たぬゆえ、どうしても己が守備範囲を得手として偏ってしまう。『売れない本棚』こそ今はそこまで手が回らぬが、時間をかけてコツコツと積み上げたい。それがいざという時の保険になる。きっといつか息を吹き返し、芽を出す時があると信ずる。

少し乱暴な言い方になるが、「遺品整理」のような形で戦記・戦史ものの買い取りが続いている。気がつけば昭和という時代もだんだに遠くかけ離れていく。その激動の昭和にあって、15年戦争 に運命を翻弄された先人たちの大いなる人間苦のドラマを読み、拾いたい。死中に活を見出すが如く、人間本来の姿は生死を彷徨い歩かなければ明らかにされない。その姿こそ最も純粋で尊貴なものだと思う。

15年戦争の本棚 毎日更新しています。

※3月23日現在、235冊更新中。


※追記(3/24)

62年前の今日3月24日、沖縄に米軍の艦砲射撃が始まる。
鉄の暴風は吹き荒れ、軍民合わせて約19万人が戦死した。
正規軍とは別に当時の沖縄県民の三分の一が命を落とした。



サイト内関連投稿記事
暑い夏に沖縄を読みたい~昭和20年6月19日

九十三式中間練習機~赤とんぼ

2007年03月05日 08時34分15秒 | 15年戦争


コテツが車の後部座席でなにやらコソコソ作っていると思ったら、
チョコエッグという食玩の九十三式中間練習機(フィギュアモデル)だった。

箱の中に説明書があった~
『戦前、戦中を通じて日本海軍の練習機分野を独占した九十三式中間練習機。総計5589機という日本練習機史上最多の量産を記録し、海軍の搭乗員が一度は乗ったと云われる代表練習機。昭和13年、各種練習機は最も目立ちやすい橙黄色に塗る事が航空本部より通達、規定された。その特徴的な色から、「赤とんぼ」の愛称で親しまれた。』

しかし、この説明書ではあまりに不本意なので、文章の終わりにもう1行付け加えたい~

『戦争末期には250kg爆弾を装着して、敵艦に体当たりする特攻機(特別攻撃機)にも多数使われたが、時速200kmにも満たない低速のため、その殆どは無残にも目標到達以前に撃ち落され、多くの若い搭乗員が戦死した。』とー。

中間練習機の「中間」とは昼間飛ぶからで、「夜間」飛ぶ場合と区別した。海軍に九十三式あれば、陸軍にも九十五式一型という練習機があり、15年戦争を通じて日本陸海軍における複葉機最後の傑作と謳われた。九十五式のほうは2618機が量産されて、ともに最後は無謀なる特攻作戦に使われている。

今、食玩は巷に溢れ、格好良さでもてはやされているが、総じて【兵器】と呼ばれるようなモノを小さい子供向けに作るのはよくない、やめたほうがよいと思う。

忠霊録を買う~昭和35年発行/静岡県駿東郡裾野町

2006年10月19日 06時53分48秒 | 15年戦争
愛鷹山の共有林の会合に出る。
ヒノキの間伐も来年が最後になるという。
山林の価値は二束三文で手のつけようがない。
封筒が手渡され2年間分の報酬を貰う。
中をあらためると弐千円入っている~有難いやら申し訳ないやら。
親子三代の血と汗が浸み込んだ弐千円で、記念に残るような古書を買った。



【忠霊録】静岡県駿東郡裾野町(現裾野市)昭和35年1月発行/非売品
B5判上製本/丸背溝付きホローバック、表面クロス張り338ページ函入り



山はさけ
海はあせなん
世なりとも
君に二心
吾れあらめやも

巻頭に実朝の歌が出ているが虚しい。
わたしたちの父或いは祖父たちは一片の召集令状により国難に殉じた。
この一冊に郷土の英霊六百五十柱が静かに眠る。
出征した若者らの気持ちを防人歌に拾う。

防人に
立ちし朝明の
金門出に
手放れ惜しみ
泣きし児らはも(万葉集巻14、3569)

本に挟まっていたもの~1枚の愛読者カードから

2006年10月16日 06時05分00秒 | 15年戦争
私は玉砕しなかった―グアムで投降した兵士の記録

中央公論新社

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本を整理していると投函前の愛読者カードが挟まっていた。
1葉にびっしりと綴られた戦争への思い。

~戦争末期を学徒勤労動員の中で過ごし
敗戦を予期させられ死ぬのは嫌だと内心決め込んでいた
逃げられぬ島国 最終的な運命を予感しつつ
文学の中へ逃避し学業は完全に捨てていた
厳しい戦線で自己を見つめ投降された作者に敬意を表します
また最後まで戦争を語れなかった心も理解できます
私自身の生き方 或いは今日に至るまでの生活の中に
口にすることを憚るものを多く持つ者として
本当のことを語る 語りたいと考える
しかし いつの日 それに手をつけられるだろうか
真に自分を見つめ 本当のことが書けるか まだ心を決めかねている
語る者も語られる者も傷つく ささやかな抵抗を秘めて死ぬべきだろうか?
埋もれている人間の真実の手記がまだまだ沢山ある筈です
発掘発刊して下さい~

*男性/59歳団体職員・差出人有効期間/ 昭和65年6月10日まで
*挟まっていた本/ 改訂前初版【玉砕しなかった兵士の手記/横田正平/1988】


愛読者カードは投函されず挟まれていた。
15年戦争の傷は癒えることなく生涯命の底に暗くよどんで晴れることがない。
貴重な体験は語られずして、埋もれていく人生は多い。
はがきを書かれた人の人生もまたいつしか忘れ去られる。
しかし皮肉にも極限に置かれた人間の真の姿こそ最も崇高で
きら星とばかり輝やいていると知らなければならぬ。

終戦の日の午後~盆中墓参り

2006年08月15日 23時01分16秒 | 15年戦争
終戦の日の朝、広島の神鳥書店から本が届いた。
『一億人の昭和史/毎日新聞社刊』で戦争の本が15冊。
凄惨な写真が随所に掲載してある。
しかし目を背けてはならぬ。

皇軍は生きて虜囚の辱めを受けず、死を選ばされた。
玉砕とは、わざと身をさらけ出して敵の銃座の的となる。
万歳を叫びながら徒歩で突進して果てるのだ。

終戦の日の午後、八十になる母の供をして
年若く戦死した叔父たちの墓参りをした。

命令で万歳を言いながら走ったのかもしれない。
しかし倒れながら最後には、お母さん!と叫んだのだ。


【昭和万葉集巻四、大陸の戦火/講談社/昭和54年8月28日初版】から三首紹介。

討たれたる兵の臨終にたらちねの母を呼ぶありあはれ人の子 /佐藤徹

銃剣を抜きしかば胃袋よりふき出づる黄の粟粒を見たり /香川進

軽々と吾を抱きし看護婦の胸の温みを感じつつをり /勝山慎一



暑い夏に沖縄を読みたい~昭和20年6月19日。

2006年06月19日 06時51分29秒 | 15年戦争

また、暑い夏に沖縄を読みたい。

昭和20年6月18日夕刻、
南風原陸軍病院第三外科壕のひめゆり学徒隊に解散命令が出される。翌19日未明、壕を脱出しようとする寸前、米軍に包囲されガス弾を投げ込まれた。壕の中にいた職員生徒45名中、40名が戦死した。


学校別女子学徒隊員と犠牲者の数
*沖縄師範学校女子部 122名中104名戦死(ひめゆり学徒隊)
*県立第一高女 200名中86名戦死(ひめゆり学徒隊)
*県立第二高女 67名中34名戦死(白梅学徒隊)
*県立第三高女 10名中1名戦死(なごらん学徒隊)
*県立首里高女 83名中50名戦死(ずいせん学徒隊)
*積徳高女   55名中28名戦死(積徳学徒隊)
*昭和高女   44名中31名戦死(悌梧学徒隊)

計581名中334名の女子学徒隊が戦死
(資料/ひめゆりの乙女たち展・1980)




別れの曲(相想樹の歌)昭和20年 詞/太田博 曲/東風平恵位

真剣勝負で読む本~15年戦争の本棚から

2006年06月17日 13時34分05秒 | 15年戦争
ハラを据えないとページをめくれない写真集があります。
さあ、今から読むぞ!と気合を入れないと読めない本があります。
【15年戦争の本棚】にはそんな、真剣勝負で読む本たちがあります。
日頃の我儘な自分を叩き直してくれる、
命を磨いてくれる本たちがあります。

手放したくは無いのだけれど・・・笑顔で送り出しました。
東京北区のKさん、宜しく頼みます。



今日売れた本たち~
*大日本帝国の戦争1/満州国の幻影1931-1936
*大日本帝国の戦争2/太平洋戦争1937-1945
*1945年/日独伊全体主義の崩壊~日本の空が一番青かった頃
(毎日ムック~シリーズ20世紀の記憶)

*日本植民地史1/朝鮮
*日本植民地史2/満州
(別冊一億人の昭和史)

埋もれた戦記~15年戦争の本棚より

2006年04月27日 00時16分11秒 | 15年戦争
15年戦争の本棚、から本が売れると嬉しい。
コツコツと集めていた高木俊朗さんの戦記も、だいたい売れてしまった。

今、明日の発送を前に高木俊朗、の『抗命』にパラパラと目を通した。15年戦争の戦史の中でインパール作戦、ほど無謀な作戦行動は無かった。ただ一人の指揮官の名誉心の為に幾万の将兵が命を落とした。撤退途上、雨期のアラカン越えに倒れた将兵は、たちまち生きながらにして蛆に食い尽くされ、その光景は白骨街道と呼ばれた。異常な作戦指揮は軍史上稀に見る師団長の抗命事件に発展、勇気ある単独撤退をした第31師団佐藤幸徳中将は軍法会議の直前に精神異常のレッテルを貼られ更迭された。佐藤中将は自己の回想録の中で述べている。~15軍の各兵団は決して英印軍に負けたのではないぞ、我々は軍司令部に負けたのだ。軍司令官牟田口中将に負けたのだ・・・。インパール作戦の悲劇は作戦中止後、誰も責任を取る者がなかったことにあると高木さんは言う。15軍を束ねるビルマ方面軍の河辺正三軍司令官は何のお咎めも受けず翌年には陸軍大将に進級している。高木さんは本書の最後でこう結ばれている~『戦争責任を歴史の立場から、改めて厳正に追及することを、戦記、戦史は忘れてはならない。』

渋谷区神南のNさん、日付けが変わり今日送ります、よろしく頼みます。

15年戦争の本棚紹介

2006年04月09日 23時45分07秒 | 15年戦争
今も昔も男の子たちは戦車や戦闘機や航空母艦が大好きのようですが、恰好良さや上っ面ではなく戦争のほんとうの姿をありのまま見てほしいと思います。
【戦争と庶民[3]1940-49/空爆・広島・敗戦/朝日歴史写真ライブラリー/定価2300円】が売れました。この本はちょっと勇気が無いとページを開けません。心臓の弱い人は見ないほうが良いかも知れません・・・そういう写真が随所に出ているからです。

昭和20年8月6日午前8時15分、B29「エノラ・ゲイ」は人類史上、初めて広島に原子爆弾を投下しました。上空600mで炸裂した原爆による死傷者は約14万人と伝えられています(20年12月末)。当時、中国新聞社写真部員で広島師団司令部報道班員の職にあった松重美人さんはこの日午前11時過ぎ、爆心地から僅かに南南東2、2キロの御幸橋付近で大変貴重な原爆投下直後の市街の惨状をカメラに収められています。松重さんはまた本書179頁に『5枚しか写せなかった地獄絵図』と題して8月6日のご自身の体験を詳細に語られています。

15年戦争の本棚、は見ていても決して気持ちは晴れませんが、寅の子文庫のメッセージを込めた大切な本棚です。これからも冷静にいろいろな本を揃えていきたいと思います。

戦争と子どもたち

2005年12月25日 17時39分48秒 | 15年戦争
戦争と子どもたち 6冊セット

日本図書センター

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【写真・絵画集成 戦争と子どもたち】 6冊揃いを出しました。

1巻 戦火の中の日々
2巻 教室から自由が消えた日
3巻 戦時下の暮らし
4巻 小さな戦士といわれて
5巻 家族と離れて生きる
6巻 焦土から立ち上がる



子どもたちも険しい戦争への道を歩いた。厳しい戦時下を或る者は生き、或る者は死んだ。昭和17年3月、遺児部隊(靖国の遺児)の子どもたちを楽しませた上野動物園の象のトンキー君。翌18年夏、空襲に備えて動物園の猛獣が毒殺されていく中、象のジョンは最後まで毒のエサを食べず飢え死にした。

*古本寅の子文庫~15年戦争の本棚

最近買った本~艦長たちの軍艦史

2005年12月18日 23時56分32秒 | 15年戦争
艦長たちの軍艦史

光人社

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本来、この類の本は自らの中に一線を設けてなるべく読まないように心掛けていたが店頭で手に取った瞬間、不覚にも衝動買いをした。昨日12月17日封切られた角川映画、男たちの大和の影響を多少なりとも受けたせいかも知れない。映画はさておき、戦艦大和は史上、世界最大また最強戦艦として昭和16年12月に竣工した。しかし最早、戦闘の主力は戦艦を擁した艦隊決戦から航空母艦と飛行機を重視した機動部隊への戦いに移行し、大和自慢の46センチ主砲が敵艦隊に火を吹く機会はなかった。昭和20年4月6日、天一号作戦が発動され沖縄へ向け、軽巡洋艦矢矧、駆逐艦8隻を従え燃料片道分の水上特攻を試みるが翌4月7日九州坊の岬南方沖合いにて米機動部隊の数次にわたる艦載機の波状攻撃を受け、午後2時23分海底深く沈んだ。艦と運命を共にした者2740名、生存者わずかに266名。

戦艦をはじめ水上艦艇に乗り込む者は沈没時に運良く波間から救い揚げられる可能性がある。しかし潜水艦の場合そうはいかない。沈没と同時に艦長以下乗組員の全員が艦とともに戦死する。太平洋戦争中、海軍では190隻の大小潜水艦が参戦し127隻が沈没、その乗組員約10000余名が艦と運命を共にした。潜水艦の各艦履歴は読むに痛ましい。*なお本書は片桐大自氏の【聨合艦隊軍艦銘銘伝~全860余隻の栄光と悲劇】と合わせ読まれると一層感慨深い。

著者外山操氏は昭和14年陸軍航空隊入隊、昭和56年【陸海軍将官人事総覧】陸軍篇、海軍篇を出版、平成10年5月没。

忘れてはならない12月8日~1942年ニューギニアにて。

2005年12月09日 01時04分19秒 | 15年戦争
12月8日と言う日は何かと取り沙汰をされる。
遠い昔に南海の島、ニューギニア東部バサブアにおいて激しい戦闘があった。
バサブア日本軍守備隊800名が玉砕した。

無謀極まりないポートモレスビー攻略作戦には陸軍約8000名、海軍約3430名、他に台湾義勇軍と朝鮮義勇軍各500名他が陸軍第17軍指揮下、南海支隊に配属され、1942年8月18日作戦は開始された。ジャングルに覆われた2000メートル級のオーエンスタンレー山系の峠を幾つも越えなくてはならない・・・一人50kgの兵装を担いで・・・自らの2本の足が動力の全て・・・地図上の行程だけでも220kmある。9月23日、突如第17軍司令部よりガダルカナル島奪回を優先させるとの理由から全軍に撤退命令(転進命令)が発令、言語に絶する激闘の末、険しい山脈を越えポートモレスビーへあと50kmまで迫りながら、恨みを飲んで元来た道を再び戻る、こんな過酷なことがあろうか。追撃するオーストラリア軍に追い討ちをかけるように飢えとマラリア、赤痢に兵は倒れた。12月8日、日本軍の拠点のひとつ、バサブアが激闘の末、守備隊800名は玉砕する。翌1943年1月2日ブナ守備隊が全滅、同18日、最大の拠点ギルワも陥落して南海支隊は壊滅した。

*今夜読んだ本*
【昭和の歴史7・太平洋戦争/木坂順一郎/1994年新装/小学館ライブラリー/文庫】

岩波新書530【あの人は帰ってこなかった】を読む

2005年08月22日 23時55分57秒 | 15年戦争
岩波新書530 【あの人は帰ってこなかった/菊地敬一・大牟羅良編/1964年第1刷】を読みました。

本書は先の戦争で尊いご家族を亡くされた、ご遺族たちの生の声を集めています。
第一部では【勲章の裏に刻む】と題し、9人の戦争未亡人たちの談話を聞き書きとしてまとめられています(通称、『北どおり』 と呼ばれた岩手県和賀郡横川目村のあるでは、わずか93戸の中から125名の出征兵が出て32名が戦死、11名の戦争未亡人が生まれた)。この未亡人たち、一人一人の命の叫びは、同じように戦争で夫をまた家族を失った全てのご遺族、とりわけ、未亡人と言う特異な形に当てはめて見たとき、全国に何十万と辛い生活苦の中で更には古い家族制度に縛られつつ、多くを語らず埋没して行った未亡人たちを代表する声として、切実にわたしたちへ語りかけています。次に続くわたしたちはさらに子供たちへと語り継ぎ、日本人の家族の有り方と社会生活の規範、営みまで含めて、もう一度考えてみる必要のあることを問い掛けています。 第二部は【叫ばずに来た二十年】として9名の戦争未亡人の聞き書きの他にも、共通すると思われる戦争体験の思い、心の叫びを取り上げて17話を掲載しています。その中から1話を紹介してみます。


【路傍にある墓石】

和賀町のからへ通ずる道端に、道路に面して戦死者の墓石が一つ建っています。これは一人息子の千三(25才、ニューギニヤで戦死)のため、その母・高橋セキさん(本書刊行1964年当時71才・一人暮らし)が建てたもの。セキさんは【戦争体験を語る会】で道端に墓石を建てたわけをつぎのように語っています。『ベコ(牛)や犬の死んだようにしたくねェと思って、ながい間すこしずつためたお金で墓作ってやったンス。オレ死ねば、戦死した千三を思い出してくれる人もなく、忘れられてしまうべ、と思って、人通りの多い道端に建てたノス。その道通った人たち、墓石みて、戦死した息子、千三を思い出してけるベェ。知らねェ人でも、戦死者の墓だと思えば、戦争を思い出すベナス。そして、お念仏となえてくれる人もあるかもしれねェと思ってナス、~中略~ 墓へ行くつもりでなくとも、墓のそば通れば、なんとしても足よどまるナス。誰だか知らねェども、草花コなど上げてくれてあるのみると、わが子さ、お菓子もらった時よりありがたく思うもんだナス。』 
セキさんは千三が2才の時、夫に病死されるとともに婚家を出され、実家の藁葺き小屋に母子ひとつ身を寄せ合い、セキさんの日雇いで千三を育て上げたそうですが千三22才の時、昭和17年に召集令状を受け出征、昭和20年4月に戦死、後に遺骨が届けられました。
『息子の遺骨来たとき、おまえ、こんな姿になって来たかって、箱さかぶりついたス。箱の中さ、小指ぐらいの骨ッコがたったひとつ入ってたったンス。ほんとうに息子だべか?そうだんべか?と思って、その骨ッコなめてみたったンス・・・』 こう語ってくれたセキさんもやがては死んでゆき、セキさんが建てた墓石だけ残るでしょうが、その墓石も、何時までセキさんの祈りを伝えてくれるのだろうか、と結んでありました。

戦後60年、こうした話はまだ全国のあちらこちらにあると思います。私の母も昭和20年7月16日夜半の沼津空襲で家を焼失し、足元を焼夷弾のかけらがシュルシュルと音を立て燃えさかる中、狩野川の堤防を目指して走り逃げたそうです。年を経て世代が移れば、こうした話も次第に忘れられてしまうことでしょう。しかし今、もう消えかかっている貴重な戦争体験の数々をわたしたちはどんな小さなことでも確りと受け止めて、さらに子供たちに語り継ぎ、決して埋れさせてはならない・・・戦後60年を迎えた暑い夏の終りに1冊の埃をかむった本が胸に刻まれました。

戦後60年の節目に、護国碑を読んだ~沼津市柳沢の桃沢神社にて。

2005年08月15日 21時28分10秒 | 15年戦争

赤野観音堂を1キロほど下った沼津市柳沢の集落の真中あたり、高橋川が堀のように取り巻いて流れている桃沢神社で、お昼の弁当のゴザを敷いた。このあたりは愛鷹茶の栽培がさかんなことと、時を経ても昔と変らない静かな村の佇まいが忙中閑あり、心を洗わせてくれる。


社の傍らに先の戦争で亡くなった人を記録した護国碑と彫られた慰霊石塔を見つける。
こんな、のどかな村落からも多くの若者が出征して、尊い命を落としている。
今日もまた昼休みを返上して碑文を指でなぞる。



護国碑は昭和29年8月10日、愛鷹村柳沢区民之建とある。沼津市に合併される前年に区民有志の寄付で建てられた。寄付と建立に携わった92名の名前が台座に刻まれている。柳沢のからは日支事変から終戦までに延べ80名が出征された。53名は生還したが27名が戦死。内訳は陸軍21名、海軍1名、陸軍航空兵1名、開拓団2名、警察官2名、その27人には氏名の下に年月日と戦没場所が刻まれている。多くは陸軍の一兵卒として召集され、戦没場所も本土を南に遠く離れた比島レイテ、ニューブリテン島ラバウル南方、そしてさらに遠いブーゲンビル島、西に転じてみれば南京、満州、ビルマ、ソ連、(戦没場所不明2人)に至るまで、当時日本が主張していた大東亜共栄圏の隅々まで行き渡っている。

先日、寅の子文庫で【墓標なき八万の死者~満蒙開拓団の壊滅/角田房子著】と言う本が売れた。角田さんの言葉を借りれば、『~人間が平常の感情、常識を失えば狂人と呼ばれる。しかし生きぬくことに精魂を傾けつくす状態におかれた人々は、狂ったのではない。極度の疲労が人間の心をすりへらし、感情を枯らして、それを自分以外のものに向けることを不可能にしたのである。子供も妻もまた、自分以外のものであった~。』 とあるが、満州では昭和20年8月9日、ソ連軍の参戦により虐殺や集団自決という狂気が日常のように繰り返され、開拓団の多くはこの世の地獄を見て壊滅する。この柳沢からも開拓団として海を渡った鈴木儀作さんと石渡さきさんの2名が終戦の前と後、20年7月5日と21年2月23日に亡くなっている。また小野力雄さん春枝さんご夫妻は警察官として終戦直後の20年9月20日に満州吉林省で一緒にお亡くなりになられた。理由を知る術もない。陸軍に召集された小野豊さんはソ連ブリヤードモンゴル自治州ブカチャ収容所で同じく終戦後20年12月25日に亡くなられている。人生半ばも行かず不本意にも命を落とした方たちの無念と残されたご遺族の無念。故郷を遠く5000キロも離れた南の島で、バンザイと叫びながら自ら命を落さねばならなかった青年たちが居たことを忘れてはならない。日本の全国の郷土にはこのような招魂碑、あるいは忠霊塔と言われる供養塔の類が幾千幾万と建立されているのだろう。今日八月十五日、暑いセミの声に打たれながら自らには経験の無い60年前の戦争を思い、手を合わせた。

【昭和万葉集巻六、太平洋戦争の記録/講談社/54年2月8日初版】から三首紹介。

玉砕の命下りし夜の北の空四人の吾子の姿映りぬ /平出孝行

ソロモンに往き戦ひし大き掌がわが掌をつかむさらばといひて /水上すゞ子

夏の月すずしく照れりわれは聞く云はぬこころの限りなき声 /窪田空穂