第2問:日本の市民は、だれによって戦争が起きることのないように決意したのか?
今日、憲法改正手続き(国民投票)法案に反対する集会に参加したときに、元読売新聞記者山口正紀さんの講演を聞いて思いついた質問です。いずれも、日本国憲法の前文(←クリック)に答があります。
第1問の解答は、前文の2段落目にあります。
【日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。】
そうです、第1問の答えは、【諸国民の公正と信義に信頼して】、です。
重要なのは、「諸国」ではなく、「諸国民」だということです。私たちは、北朝鮮政府を信頼することはできませんが、北朝鮮市民は信頼するべきなのです。圧制のもとで苦しんでいる北朝鮮市民は、果たして戦争を望んでいるでしょうか?彼らは、十分な食事と政治的自由を望んでいるはずです。そして、北朝鮮市民が望むことが実現されること=北朝鮮の民主主義化なわけです。北朝鮮が民主主義国家になれば、核兵器の開発をするような選択もしなかったでしょう。私たちは、戦後、北朝鮮市民を圧制から解放するために何をしてきたのでしょうか。肝心なことをしないで、対立関係を煽ることは我々が政府に望むべきことでしょうか?戦前の日本とアメリカの関係を考えることは、今の日本と北朝鮮の関係を考えることに役立つのではないでしょうか。
第2問の解答は、前文の1段落目にあります。
【日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。】
第2問の答えは、【政府の行為によつて】です。
戦争は、「政府」によって起こされるのです。冒頭の写真は、「あゝ祖国よ恋人よ きけわだつみのこえ」(上原良司・信濃毎日新聞社)(←クリック)の著者で特攻攻撃で「殺された」上原良司さんが兄たちとピクニックに行ったときに写されたものです(同書扉からの転載)。昭和15年5月11日、奇しくも上原良司さんが特攻した昭和19年5月11日の4年前だった。この写真を撮影したとき、写真の中のだれが、米国を相手に戦争をしようと、あるいはしなければならないと思っていたのだろうか?上原良司さん(後列右)は、このとき、一緒に行ったみえ子さん(前列中央)が好きになり、後に日記に「夕べみえ子ちゃんを見たとき、私は抱擁の衝動にかられた。私のみえ子ちゃん、たびたび来てください」と書いている。青春を謳歌していた上原良司さんが、特攻に行かされることになったのは、まさに、【政府の行為によって】だったのです。だからこそ、第2次大戦後、当時の人たちは、この前文を受け入れ、憲法を大切にしてきたのではないでしょうか。
自民党の新憲法案前文からは、この2つの要素が9条とともにすっかり抜け落ちている、と山口さんは指摘した。抜け落ちたものを受け入れることは、私たち一人ひとりが、もう一度、上原良司さんのように昭和19年5月11日を迎えることにつながるでしょう。少なくとも、わざわざ抜け落ちさせる側がそう考えていることは明らかです(じゃなきゃ、落とさないでしょ)。
いま私たちは、昭和15年5月11日を謳歌しています。昭和19年5月11日にもピクニックに行きたい。そのためには、相手の国の市民にもピクニックに行ってもらえるように心がけないといけないはずです。私は戦争を起こさないために、北朝鮮の市民が幸せになることを願う。そのためにできることをしたいと思う。
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