ときぶーの時間

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2つの理由

2011-11-22 07:55:00 | 日記
NO-7                                              昨日の夜、横浜の友人から突然「今年いっぱいで解雇される事になった。」と電話がきて、「えっ、嘘だろー!」とそのあとの言葉が、なかなか見つからなかった。                                                             
円高に苦しみ、体力の消耗が激しい日本の企業の一面を覗いた感じだが、友人の部署の全員が解雇を言い渡されたようで、友人はマンションのローンもあと20年くらい残っているから、「最悪は自己破産して、生活保護で・・・・」なんて言い出した。                                                                                彼の子供も立派に成人し、二人とも結婚してそれぞれに幸せに暮らしているから、気が抜けちゃったのか?それくらいショックだったのだろう。震災で僕も仕事を無くしたから、良く分かる。                                                             それでも何とかなるから心配するなと声をかけ、近いうちに会う約束をして電話を切った僕だったが、中高年の就職の厳しい現実を知っているから穏やかでいられなかった。                                                           
明日が見えない不安があると、人は消極的になってしまうのだけど、相変わらず積極的に動く彼の事を今日も書く。   
                                                 みなさんも、何故、強制避難区域で放射能汚染の脅威に晒されながら彼が富岡町に残ったのか、知りたいと思うのでここで彼のあの日からの事を振り返ってみたい。                                                                         震災直後、富岡町の町民が避難指示を受け、みんなが一斉避難する中で、彼ら一家は富岡町を避難しなかった。驚くのは、彼の親戚や友人達の一部の人も避難しないでいた事だ。これには本当に驚いた。                                                       放射能が怖くなかったのだろうか?改めて聞きなおしたいと思った僕であったが、言葉を変えてストレートに「何故、避難しなかったの?」と聞いてみた。                                                           
彼は、少し間を置いてこう言った。81歳になる彼の母が、「あんな所に行きたくねえ!あんな所に行ったら、おら死んじまう。もうこの歳になって、どこにも行きたくねえ!おら、ずっとここに居たい!」と言ったという。                                                                                            彼はその言葉に、母の気持ちを汲んで出来るなら、少しでも報いてあげたいと思ったのだと。僕から見ても、彼には避難所生活は無理だろうと感じてはいたが、彼は正直悩んでいた。                                                       
自分の年老いた両親の事を考えると、年も歳だし避難所の方がいいのかもと迷っていた。その時に、母親からのその一言で、思いっきり方向転換した彼であった。                                                               
母の思い通りにしてあげようと決意し、自分だけ逃げることは絶対にしないぞ!と。彼はここに残っていたいと言う父母を、自分が絶対に見ると心に決めた。                                                            
そして彼は僕に「うちのおふくろは、体が丈夫じゃないんだ。」と言った。それが、富岡町に残る理由の第一番目であった。それでも僕には、自分の母がここに残りたいと言ったら、一緒に残れただろうか?・・・                                                 
みんなはどうですか?放射能で被曝するかも知れない場所に親と一緒に住めますか?小心者の僕には出来ないことだと思う。僕は彼の決断がとてつもなく、ゆるぎない芯の入った信念の元に行動したのだった。                                                
次の日から、町は廃墟の町になるのだが、彼は前日まで大手建設会社に、仕事で出入りしていたが、その日仕事場に行ったら、当然ながら無人の仕事場になっていた。                                                              
仕事は無くなり、家路に向かう彼であったが、町を車で帰ってくる時に、あちこちで「ワン、ワン」と犬の鳴き声が聞こえてくるではないか。

この時に、ペットたちがたくさん残されているのを知り、このままではみんな死んでしまう!と餌を配る事を決意したのだった。                                                                                         これが彼が町に残った2番目の理由だ。一番目の理由と二番目の理由が、彼の中でがっちりと絡み合い、被曝する事よりも責任感みたいなものの方が、大きくなっていったのだろうと思う。                                                             
僕自身、この事故は2~3日で収まり、すぐに家に帰れると思っていたくらいだから、町のみんなももそう思ったに違いない。いや、全員がそう思っていた。避難所で出会った人達が僕と同じ考えでいたのだ。                                                     だが、それは大間違いであり、こんなひどい事になるとは、誰も予想しなかった。原発が爆発するかも知れないから、町民全員で避難しますという話だったのに、まさかの原発の爆発!僕らはこれで、決定的に家にも町にも帰れなくなる。                                                                                         僕の家は、爆発した原発から10kmしか離れていない。彼も、ペットを置き去りにしたみんなの事を、ひどい事する奴らだと思わなかった。                                                                                    僕も含めて全員がすぐに帰れると思っていただろうし、本当に原発でこんな爆発事故が起きるなんて、僕らには青天の霹靂だったし、とても信じられなかった。                                                                    
彼は、この日から本格的に、犬や猫、鳥や豚などの生き物たちの世話をする事になる。そして、この頃は友人の買い置きしたペットの餌を貰い集めながら、ペットに餌をあげていたと言う。                                                              僕はあの時に、彼の父母やそのほかに何人かの人間がいたなんて、信じられなかった。僕も、あの原発が爆発した時に自宅にいてボーンという大きな爆発音を聞いた人間だ。                                                           
あの時の大きな音が、原発の爆発だなんて僕は夢にも思わなかったね!本当に。その時は、電気も無くTVも見れなかったから、原発事故が起きた事を知らなかったのだが、僕はずっとサラリーマンをしながら、養蜂にも取り組んでいて4月の桜の花の開花前の、みつ蜂の管理をするために、その爆発した時間に外で作業していた。                                                                                       
水も出ない、電気も無い、情報も入らないという3悪状態の2日目。風呂は入れず、ご飯も炊けず、トイレのロータンクの水も無くなり、2日目ですぐに生活困難に陥り「もう、だめだ!」と避難所に向かったのだが、一回目の避難所は人で溢れていて入れなかった。                                                                        それから、郡山の避難所を目指すが、その途中にある小野町の町民体育館に、縁あってかどうにかその場所に、身を寄せる事が出来た。その避難所に着いて、僕はおなじみのお客様であったカットサロンのIさんに「昨日でなくて、何で今頃来たの?あんた、絶対に被曝しているんじゃないの?」と言われたのだ。                                                                                
そう言われて一瞬ドキッとした僕であったが、そんな状況の時、彼は親とともに故郷、富岡町にいた。彼は山から出ている湧き水を、料理と飲料用と洗濯に使っていて、プロパンのガスボンベがあり、ガステーブルが使えたので、飲食には困らなかったという。                                                                                         
夕方には、友人たちを「困っている時は、お互い様!」と自宅に呼び毎日、食事をさせていたと言うから、本当に面倒見がよい男である。ほんとに彼は、開けっぴろげのいい性格だよ。文筆に疎い僕だからそれをうまく表現出来なくて申し訳ないと思っている。                                                                               今日はここまで、また会いましょう。                               
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