昨日、一昨日、転載したアーネスト・スタングラスは不評だったようだ。
しかし、スタングラス論文は、私の反原発運動の原点なので、これを再確認することと、日本の大半の人々が、とてつもなく被曝を甘く考えているので、どうしても繰り返し掲載せざるをえない。
まさか、フクイチ事故の放射能で、全世界で億という単位の胎児(周産期以前も含む)・新生児が殺されている現実があると理解できている人は、ほぼいない。反原発活動家のなかでさえ、それを認識している人は、わずかしかいない。
この真実を最初に学問的に明らかにしたのがスタングラスである。だから、どんなに評判が悪くとも、私はスタングラスに立ち返るしかないのである。
私は、スタングラスの指摘どおり、通常稼働の原発が、どれほどたくさんの市民を殺戮してきたか明らかにしてきた。だが、反応は、絶望的に少ない。まだ、みんな半信半疑なのだ。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1361.html
私は、みんなが信じようとしない被曝被害の真実を、執拗に書き続けることが責務だと思っている。別に嘘つきと思われてもかまわない。
真実は一つ、放射能は、誰も気づかないうちに無数の命を奪っている!
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正月早々、鬱病的、自閉的な心の停滞があって、新しい文章を書けないでいた。
何もかも気が乗らない。筆が進まない(キーボードが打てない)。こんなときは、風呂に入って全身の血流を活性化させれば、多少は、いろいろな思索が湧いてくるはずだった……。
だが、たいした効果はなさそうだ。
年末は、乗鞍高原温泉に二日間ほど滞在したのだが、どこもかしこも消毒とマスク、人と人との距離感で、どうにも落ち着けなかった。水虫のような真菌症が一発で治るほどの強烈な酸性硫化水素泉だが、マスクやら消毒やらの手続きが多すぎるのだ。硫黄泉なのに消毒薬の臭いがする。
酸性硫化水素泉の殺菌力は、アルコールなみに強烈なんだから、消毒なんていらないんだが、何か過剰反応に追い回されているような気がする。
普段歩いてる公園(高峰湖遊歩道)も、入り口にバリケードが置かれて、立入自粛という張り紙が鎮座している。
おいおい、利用者の少ない山の公園遊歩道なんか三密になりようがないだろう。立入禁止にするよりも、日光を浴びながら森林浴した方が、コロナ対策としては何百倍も有効じゃないか?
なんで、こんな不合理な過剰反応ができるんだ?
無視して歩いていても気が滅入ってくる。降り積もった雪の上にアベックの足跡があった。「ああ、主体性を持って行動できる人もいるんだ……」と、多少は憂鬱が晴れる。 でも、去年まで、たびたび見かけたカモシカ・熊・猪の足跡は、今年は一度も見ていない。そういえば、昨年後半、公園全体に大規模な整備、手入れが入っていた。
去年まで、獣道のような遊歩道で笹をかき分けて歩いていたのに、今年は車でも通行できそうなほどの整備された「道路」になってしまった。だから、動物たちも怖がって近寄らない。
それなのに、市民に対して「入るな」と看板を立てている。いったい、この矛盾は何なのだ?
私は、こうした行政の混乱や不作為は、たぶん竹中平蔵が小泉政権時代に持ち込んだ「格差主義」から来ていると思う。
正規職員と派遣労働者の区分と差別は、市役所職員全体に大きな差別意識をもたらすのが明らかだ。市役所窓口業務や市道・公園管理などの(正規採用がやりたがらない職場)現場実業の大半が、今や派遣労働者に押しつけられているという。
正規職員は、市民から見えない奥の部屋で管理職業務を行っているようだが、人間同士の格差・差別がある職場では、雇用や労働条件が守られるのは、正規職員だけで、派遣採用は、派遣元企業(竹中平蔵が会長を務めるパソナのような)の社員でありながら、その待遇は「ルンペン・プロレタリアート」にすぎない。
竹中自身が「クビを切れない社員がいては困る」と述べているように、会社の都合で、いつでもクビを切られ、何の保証もない、その日暮らしの生活を強いられている。
こうした二種類の、一方だけ恵まれ、他方は奴隷のような待遇を強いられる差別のある組織で何が起きるかと言えば、それは正規職員の「事なかれ主義」と、非正規職員の「無責任、アリバイ証明的勤務」である。
そこには、かつて 日本の自治体職員が平等であったときのような「三人寄れば文殊の知恵」イノベーションシステムも成立しないし、労働者から人生の喜び、労働の喜び、笑顔が消えてゆくのだ。
人は対等であってこそ、本来の実力を発揮できるようにプログラムされているのだ。
組織というものは、差別のない、思いやりのある、笑顔に溢れた組織のなかで、人々は、人間同士の触れあいを喜びとして、生き生きと活動することができる。
だが、その職場が不条理な差別と抑圧、事なかれ主義に貫かれていたなら、誰がイノベーションを生み出すものか?
毎日、言われた通りのことだけをやり、差別の冷たい視線に耐え、安い奴隷労働で最低の生活しか保証されない環境のなかで、誰がやる気を出すというのだ?
差別は、すべての組織をダメにする。すべての人々から笑顔を奪う。すべての人々からイノベーション、主体性を奪ってゆく。
差別・格差こそ、この世の諸悪の根源なのだ。
みんなが、相手の笑顔に癒やされて、毎日が楽しくて仕方ない生活を保証することが、この世の、あらゆる合理性、善、快適を生み出してゆく根源なのだ。
差別意識があるから、私に対して、心の底からドロドロに腐ったような誹謗中傷する輩が出てくる。しかも信じられないほど執拗なのが共通点だ。
彼らは、自分が他人より優れていると勘違いしてしまいながら、心の底では、健全な心を持っている人に強烈な劣等感を持っている。それが妬みの根源だ。
そして、他人に対する妬みの感情だけに動かされて生きている。ここまで愚かな人間を生み出したのは、差別・格差の社会である。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1350.html
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新型コロナは、日本をどのように変えてゆくのか?
菅義偉政権の超愚策=GOTOイートという世紀の愚策によって、あまりにも必然的に、新型コロナの正真正銘のパンデミックに突入した。
これは、すでに昨年3月段階から、そうなるだろうと分かりきっていたことだ。
理由は、菅義偉政権も、厚労省の官僚たちも、科学的にものごとを判断できる人材が皆無に等しかったからで、彼らの視野に入るものといえば、「メンツと利権」だけしかなかったからだ。
PCR検査のローラー作戦が必須だったのに、厚労省は、いまだに、感染群だけにこだわった官僚のメンツを最優先させて絨毯爆撃検査を妨害している。これは、昨年はじめに児玉龍彦が、そうなると指摘していた通りだ。
未だに、絶対に必要な、コロナ専門大病院も計画さえしていない。彼らが、どれほど愚かで甘い見通ししか持てていないかを如実に示すものだ。
安倍晋三・麻生太郎以来、トップにバカしかいない日本では、このような小学生でも俯瞰できる感染症パンデミックの対策がまるでできないのだ。
私は、これまで当ブログで繰り返し指摘してきた。
昨年12月には、爆発的拡大が起きること。そして多重感染が猛毒変異種をもたらすこと。医薬品・ワクチン対策も、厚労省の利権とメンツに阻まれて、まともに実現できないこと。
最初から特効的作用が明らかだった、アビガン・イベルメクチンも、厚労省の偏狭なメンツから、いまだに認可されておらず、逆に、致死的副作用(腎障害)が指摘されている、米国防省推薦のレムデシビルだけが認可された。
外国で勲章までもらっている日本製PCR自動化検査機械も、自分たちの間違いを認めたくない厚労省の嫌がらせを受け続け、国内では利用できなくされている。
客観的な必然性に関しては、羽鳥モーニングショーで、玉川徹が主張してきた通りだ。
こんなバカしかいない政府役人が、この凄まじい新型コロナ抑制に成功するかといえば、100%失敗が約束されている。結局、100年前のスペイン風邪の二の舞になるしかない。
100年前に起きたことは、ほぼ全人類に感染が行き渡り、多重複合感染になった高密度居住区で、パンデミック二年目に死亡率が10%に達する猛毒変異種が蔓延し、まるで中世のペストのように、次から次へと、バタバタと人々が倒れて死んでいった。
大半の死亡が肺炎であり、恐ろしい間質性肺炎の後遺症が残った。
生き残った人、無症状の人も、致死的後遺症に晒されたのだ。
だが、RNAウイルス独特の変異性により、三年目には軽毒化、消滅プロセスに入り、ただの風邪へと変化していった。2022年には、嘘のような平和を取り戻す可能性が強い。
スペイン風邪では、過疎地方の集落が全滅したようなケースがあり、私の祖母は、人口減少に危機感を抱いた地方首長の招請に応えて、三重県の豊かな海岸集落から岐阜県の山奥に家族ぐるみで移住した。
一家の大黒柱が死亡し、弱者だけが取り残された家庭が無数に出た。こうなれば、一夫一婦制家族を単位とした集落生活は成立しなくなる。
小さな集落で互助的な共同体を作って、「助け合い集団」によって生き延びてゆく以外の道はない。
今回の新型コロナ禍も、そうした孤立家族社会に大きな変革をもたらすことになるだろう。
人々は、個人的蓄財の空しさを思い知るだろう。どんなに大きな土地、大きな家を所有しても、高級車を保有しても、どんなに巨額の財産を溜め込んでも、死という大津波の襲来に抗うことはできない。
そんなものより、身近な生活のつきあい、助け合い、思いやり、目の前にいる人の笑顔が、どれほど大きな価値か思い知ることになる。
私は、新型コロナ禍に肯定的な意味が産まれるとするなら、きっとこのことだろうと思っている。
むしろ、天は、大切な価値を忘れてしまった人々に、それを思い出させるコロナ禍を与えたのではないのか?
コロナ禍の前には、学歴も地位も、財産も役に立たない。
必要なものは、病気に負けない健全な免疫であり、問題の本質を見抜く心である。
しかし、スタングラス論文は、私の反原発運動の原点なので、これを再確認することと、日本の大半の人々が、とてつもなく被曝を甘く考えているので、どうしても繰り返し掲載せざるをえない。
まさか、フクイチ事故の放射能で、全世界で億という単位の胎児(周産期以前も含む)・新生児が殺されている現実があると理解できている人は、ほぼいない。反原発活動家のなかでさえ、それを認識している人は、わずかしかいない。
この真実を最初に学問的に明らかにしたのがスタングラスである。だから、どんなに評判が悪くとも、私はスタングラスに立ち返るしかないのである。
私は、スタングラスの指摘どおり、通常稼働の原発が、どれほどたくさんの市民を殺戮してきたか明らかにしてきた。だが、反応は、絶望的に少ない。まだ、みんな半信半疑なのだ。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1361.html
私は、みんなが信じようとしない被曝被害の真実を、執拗に書き続けることが責務だと思っている。別に嘘つきと思われてもかまわない。
真実は一つ、放射能は、誰も気づかないうちに無数の命を奪っている!
*******************************************************
正月早々、鬱病的、自閉的な心の停滞があって、新しい文章を書けないでいた。
何もかも気が乗らない。筆が進まない(キーボードが打てない)。こんなときは、風呂に入って全身の血流を活性化させれば、多少は、いろいろな思索が湧いてくるはずだった……。
だが、たいした効果はなさそうだ。
年末は、乗鞍高原温泉に二日間ほど滞在したのだが、どこもかしこも消毒とマスク、人と人との距離感で、どうにも落ち着けなかった。水虫のような真菌症が一発で治るほどの強烈な酸性硫化水素泉だが、マスクやら消毒やらの手続きが多すぎるのだ。硫黄泉なのに消毒薬の臭いがする。
酸性硫化水素泉の殺菌力は、アルコールなみに強烈なんだから、消毒なんていらないんだが、何か過剰反応に追い回されているような気がする。
普段歩いてる公園(高峰湖遊歩道)も、入り口にバリケードが置かれて、立入自粛という張り紙が鎮座している。
おいおい、利用者の少ない山の公園遊歩道なんか三密になりようがないだろう。立入禁止にするよりも、日光を浴びながら森林浴した方が、コロナ対策としては何百倍も有効じゃないか?
なんで、こんな不合理な過剰反応ができるんだ?
無視して歩いていても気が滅入ってくる。降り積もった雪の上にアベックの足跡があった。「ああ、主体性を持って行動できる人もいるんだ……」と、多少は憂鬱が晴れる。 でも、去年まで、たびたび見かけたカモシカ・熊・猪の足跡は、今年は一度も見ていない。そういえば、昨年後半、公園全体に大規模な整備、手入れが入っていた。
去年まで、獣道のような遊歩道で笹をかき分けて歩いていたのに、今年は車でも通行できそうなほどの整備された「道路」になってしまった。だから、動物たちも怖がって近寄らない。
それなのに、市民に対して「入るな」と看板を立てている。いったい、この矛盾は何なのだ?
私は、こうした行政の混乱や不作為は、たぶん竹中平蔵が小泉政権時代に持ち込んだ「格差主義」から来ていると思う。
正規職員と派遣労働者の区分と差別は、市役所職員全体に大きな差別意識をもたらすのが明らかだ。市役所窓口業務や市道・公園管理などの(正規採用がやりたがらない職場)現場実業の大半が、今や派遣労働者に押しつけられているという。
正規職員は、市民から見えない奥の部屋で管理職業務を行っているようだが、人間同士の格差・差別がある職場では、雇用や労働条件が守られるのは、正規職員だけで、派遣採用は、派遣元企業(竹中平蔵が会長を務めるパソナのような)の社員でありながら、その待遇は「ルンペン・プロレタリアート」にすぎない。
竹中自身が「クビを切れない社員がいては困る」と述べているように、会社の都合で、いつでもクビを切られ、何の保証もない、その日暮らしの生活を強いられている。
こうした二種類の、一方だけ恵まれ、他方は奴隷のような待遇を強いられる差別のある組織で何が起きるかと言えば、それは正規職員の「事なかれ主義」と、非正規職員の「無責任、アリバイ証明的勤務」である。
そこには、かつて 日本の自治体職員が平等であったときのような「三人寄れば文殊の知恵」イノベーションシステムも成立しないし、労働者から人生の喜び、労働の喜び、笑顔が消えてゆくのだ。
人は対等であってこそ、本来の実力を発揮できるようにプログラムされているのだ。
組織というものは、差別のない、思いやりのある、笑顔に溢れた組織のなかで、人々は、人間同士の触れあいを喜びとして、生き生きと活動することができる。
だが、その職場が不条理な差別と抑圧、事なかれ主義に貫かれていたなら、誰がイノベーションを生み出すものか?
毎日、言われた通りのことだけをやり、差別の冷たい視線に耐え、安い奴隷労働で最低の生活しか保証されない環境のなかで、誰がやる気を出すというのだ?
差別は、すべての組織をダメにする。すべての人々から笑顔を奪う。すべての人々からイノベーション、主体性を奪ってゆく。
差別・格差こそ、この世の諸悪の根源なのだ。
みんなが、相手の笑顔に癒やされて、毎日が楽しくて仕方ない生活を保証することが、この世の、あらゆる合理性、善、快適を生み出してゆく根源なのだ。
差別意識があるから、私に対して、心の底からドロドロに腐ったような誹謗中傷する輩が出てくる。しかも信じられないほど執拗なのが共通点だ。
彼らは、自分が他人より優れていると勘違いしてしまいながら、心の底では、健全な心を持っている人に強烈な劣等感を持っている。それが妬みの根源だ。
そして、他人に対する妬みの感情だけに動かされて生きている。ここまで愚かな人間を生み出したのは、差別・格差の社会である。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1350.html
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新型コロナは、日本をどのように変えてゆくのか?
菅義偉政権の超愚策=GOTOイートという世紀の愚策によって、あまりにも必然的に、新型コロナの正真正銘のパンデミックに突入した。
これは、すでに昨年3月段階から、そうなるだろうと分かりきっていたことだ。
理由は、菅義偉政権も、厚労省の官僚たちも、科学的にものごとを判断できる人材が皆無に等しかったからで、彼らの視野に入るものといえば、「メンツと利権」だけしかなかったからだ。
PCR検査のローラー作戦が必須だったのに、厚労省は、いまだに、感染群だけにこだわった官僚のメンツを最優先させて絨毯爆撃検査を妨害している。これは、昨年はじめに児玉龍彦が、そうなると指摘していた通りだ。
未だに、絶対に必要な、コロナ専門大病院も計画さえしていない。彼らが、どれほど愚かで甘い見通ししか持てていないかを如実に示すものだ。
安倍晋三・麻生太郎以来、トップにバカしかいない日本では、このような小学生でも俯瞰できる感染症パンデミックの対策がまるでできないのだ。
私は、これまで当ブログで繰り返し指摘してきた。
昨年12月には、爆発的拡大が起きること。そして多重感染が猛毒変異種をもたらすこと。医薬品・ワクチン対策も、厚労省の利権とメンツに阻まれて、まともに実現できないこと。
最初から特効的作用が明らかだった、アビガン・イベルメクチンも、厚労省の偏狭なメンツから、いまだに認可されておらず、逆に、致死的副作用(腎障害)が指摘されている、米国防省推薦のレムデシビルだけが認可された。
外国で勲章までもらっている日本製PCR自動化検査機械も、自分たちの間違いを認めたくない厚労省の嫌がらせを受け続け、国内では利用できなくされている。
客観的な必然性に関しては、羽鳥モーニングショーで、玉川徹が主張してきた通りだ。
こんなバカしかいない政府役人が、この凄まじい新型コロナ抑制に成功するかといえば、100%失敗が約束されている。結局、100年前のスペイン風邪の二の舞になるしかない。
100年前に起きたことは、ほぼ全人類に感染が行き渡り、多重複合感染になった高密度居住区で、パンデミック二年目に死亡率が10%に達する猛毒変異種が蔓延し、まるで中世のペストのように、次から次へと、バタバタと人々が倒れて死んでいった。
大半の死亡が肺炎であり、恐ろしい間質性肺炎の後遺症が残った。
生き残った人、無症状の人も、致死的後遺症に晒されたのだ。
だが、RNAウイルス独特の変異性により、三年目には軽毒化、消滅プロセスに入り、ただの風邪へと変化していった。2022年には、嘘のような平和を取り戻す可能性が強い。
スペイン風邪では、過疎地方の集落が全滅したようなケースがあり、私の祖母は、人口減少に危機感を抱いた地方首長の招請に応えて、三重県の豊かな海岸集落から岐阜県の山奥に家族ぐるみで移住した。
一家の大黒柱が死亡し、弱者だけが取り残された家庭が無数に出た。こうなれば、一夫一婦制家族を単位とした集落生活は成立しなくなる。
小さな集落で互助的な共同体を作って、「助け合い集団」によって生き延びてゆく以外の道はない。
今回の新型コロナ禍も、そうした孤立家族社会に大きな変革をもたらすことになるだろう。
人々は、個人的蓄財の空しさを思い知るだろう。どんなに大きな土地、大きな家を所有しても、高級車を保有しても、どんなに巨額の財産を溜め込んでも、死という大津波の襲来に抗うことはできない。
そんなものより、身近な生活のつきあい、助け合い、思いやり、目の前にいる人の笑顔が、どれほど大きな価値か思い知ることになる。
私は、新型コロナ禍に肯定的な意味が産まれるとするなら、きっとこのことだろうと思っている。
むしろ、天は、大切な価値を忘れてしまった人々に、それを思い出させるコロナ禍を与えたのではないのか?
コロナ禍の前には、学歴も地位も、財産も役に立たない。
必要なものは、病気に負けない健全な免疫であり、問題の本質を見抜く心である。