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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

鳥見(とみ)神社 in 千葉県印西市本埜

2019年10月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

印西市萩原に鎮座される「鳥見(とみ)神社」。御祭神は『饒速日命(にぎはやひのみこと)、宇摩志麻治命(うましまぢのみこと)、御炊屋姫命(みかしきやひめのみこと)』

境内由緒に【この地は古来鳥見ヶ丘と呼ばれ、その名称はこの地域に関して記された江戸期の文献に多く登場している。かつて萩原村と近隣の松虫・荒野の鎮守であった鳥見神社の起源については、神社の由緒書のよれば「大五代考照天皇の御代大和国城上郡萩原村の鳥見山の神々の霊を当地に遷座した」と伝えられており、今日も地域の産土神として人々の宗敬を集めています。】

印西市の「鳥見神社」ですが、同名の神社が小林・大森・平岡・和泉・小倉・中根・浦部地区にも鎮座されています。 ネットなどで見ると、旧社格は小林地区の「鳥見神社」のみ郷社で、他は村社となっています。でも私たちには社格は二の次、良い狛犬、良い宮彫刻、御祭神が魅力的・・後は超有名かどうかも若干・・😆

拝殿前左右より神域を守護されるのは、明治7年(1874)建立の江戸流れ狛犬さん一対。台座には『石工:吉五郎』の銘。 阿形さんは手の下で仔狛を遊ばせていますが、仔狛はその手が邪魔だと言いたげ、きかん気の顔で親狛の顔を見あげています。

吽形さんの手は、牡丹の花が一杯刻まれた岩の上に乗せられており、さしずめ唐獅子牡丹😊 何と言うか随分と優雅に過ごしておられるようです。

神域は鬱蒼とした森の中にあり、差し込む光はとても穏やかで思わず深呼吸。 ここから数キロも離れていない場所に、ニュータウンと呼ばれる団地があるのが嘘みたい。

境内には沢山の摂社・末社があり、ささやかな石の祠もそこかしこに点在しています。 千葉県北西部の神社には必ずといって良いほど勧請されている「三峯神社」も、もちろん鎮座しています。 

「境内社:子安神社」。もとは、天平宝字三年(759)に時の帝の后が懐妊した際、その安産を願って創建。一般的には『木花開耶姫命』が祀られており、その範囲は日本全国に及びます。

「境内社:大山阿夫利神社」。関東総鎮護の霊山とされる「大山」に祀られる神を勧請したものと思われます。

石碑に刻まれた神名は「羽黒神社 月山神社 湯殿神社」、いわゆる「出羽三山神社」を言います。

境内入り口近くの碑には、それぞれ「二十六夜(陰暦正月・7月の26日の夜)」「二十三夜(陰暦の23日の夜)」「猿田彦大神」の刻。

参拝日:2019年3月17日


ご当地マンホール in 千葉県旧本埜村(印西市)

2019年10月10日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

旧印旛郡本埜村(もとのむら)は千葉県北西部、印旛沼の東に位置した村です。東部から北部にかけて栄町、東部の印旛沼は成田市、南部は印旛村、西部は印西市に隣接。首都東京から40km圏、県都千葉市から30km圏という都市近郊にあって恵まれた自然環境・生活環境を有しています。南部と北部は地質が関東ローム層からなる標高20~30mの丘陵地帯。北部と東部は、利根川や印旛沼によって造り出された沖積平坦地で、県立印旛手賀自然公園などを含む水田地帯となっており、冬には優雅な白鳥の姿も楽しめます。「村の木:ギンモクセイ」「村の花:菜の花・水仙」「村の鳥:白鳥・メジロ」「村の魚:鯉」を制定。

旧キャッチフレーズは「緑豊かな明るい本埜」

明治22年(1889)、町村制の施行により、印旛郡本郷村、埜原(やわら)村が発足。

1913年、本郷村、埜原村が合併、印旛郡本埜村が発足。

2010年、印西市に編入、印西市本埜となりました。

マンホールには村章を中心に、「村の木:ギンモクセイ」と「水辺に泳ぐ魚」が描かれています。

「村の花:水仙」を中心に、「村の魚:鯉」が左右に描かれています。 どちらも、汚水用と雨水用のマンホールがあり、デザインもそれぞれに同じものです。

大正2年(1913)4月1日に制定された村章は「束ねられた稲穂の中に「本」を配したもの」。個人的に好きな知章です。

「印旛広域水道」は、印旛地区7市1町1企業団の九団体に水道水を供給する事業。「長戸川水道企業団」に供給された水は、印西市の旧本埜村の一部にも給水されています。

「印旛広域水道」略して「印広水」・・・言葉の響きだけで実際の文字を見ないと、ちょっと危ない略語😅

撮影日2019年3月17日


ご当地マンホール in 千葉県旧印旛村(印西市)

2019年10月09日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

旧印旛郡印旛村(いんばむら)は千葉県北部、北総台地のほぼ中央に広がる印旛沼の北西側に位置した村です。東は印旛沼をへだてて成田市、南は印旛沼を境として酒々井町・佐倉市、西は印西市・八千代市、北は本埜村に隣接。昭和41年(1966)6月、印旛沼捷水路(しょうすいろ)工事でブルドーザーによる掘削作業中にナウマン象の化石を発掘。 当時日本でほぼ完全な化石が発掘されたのはこれが初めてで「ナウマン象の化石発掘の地」としても有名です。今現在、日本全国いくつの自治体が「ナウマン象の化石発掘地」を標榜しているのか、調べてゆくと面白そう😄 「村の木:大王松」「村の花:山百合」「村の鳥:カイツブリ」「村の魚:ナマズ」を制定。

旧キャッチフレーズは「自然豊か心豊かに育てあう印旛村」

明治22年(1889)、町村制の施行により、印旛郡六合村・宗像村が発足。

1955年、六合村、宗像村が合併、印旛郡印旛村が発足。

2010年、印西市に編入。

マンホールには「印旛沼捷水路に架かるアーチ橋」と「水路に泳ぐ魚」が描かれています。

旧印旛村域で見かけた街灯。印西市の魚で、印旛沼に生息する「鯰」。 ユーモアたっぷりの「鯰」が街灯の灯りに照らされたら、どんな表情になるのでしょう😃

昭和40年(1965)4月30日制定の村章は「頭文字の「印」を小円で象り、大きな円の中に「バ」を示したものです。」

上水道関連の「空気弁」と「仕切弁」、それぞれに「印旛村章」付き

千葉ニュータウン内と周辺の「仕切弁・双口消火栓」は、旧:千葉県水道局章。

撮影日2019年3月17日


ご当地マンホール in 千葉県印西市

2019年10月08日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

印西市(いんざいし)は千葉県北西部に位置する市です。柏市、我孫子市、白井市、八千代市、佐倉市、成田市、印旛郡栄町、酒々井町に、また県を跨いで茨城県北相馬郡利根町に隣接。市の北部を利根川が流れ、北西部には手賀沼、南東部には印旛沼があり、自然林に代表される豊かな植生など、自然環境に恵まれています。また、情報発信都市東京と国際空港都市成田を連絡する重要な地域にあり、印西商圏を形成する商業中心都市で、業務核都市に指定される千葉ニュータウンの拠点都市でもあります。「市の木:桜」「市の花:コスモス」「市の鳥:メジロ」「市の魚:なまず」を制定。 利根川、印旛沼、手賀沼等に囲まれた印西市では、「なまず」はとても馴染み深い魚だそうです。

キャッチフレーズは「ひと まち 自然 笑顔が輝くーいんざい」

明治22年(1889)、町村制の施行により、印旛郡木下町、大杜(おおもり)村、船穂村、永治(えいじ)村が発足。

1913年、大杜村が町制を施行・改称して印旛郡大森町が発足。

1954年、木下町、大森町、船穂村、永治村が合併、印旛郡印西町が発足。

1996年、印旛郡印西町が市制を施行、印西市が発足。

2010年、印旛郡印旛村と本埜村を編入、現在に至っています。

マンホールには、市章を中心に「市の花:コスモス」が写実的に描かれています。(カラーマンホールは、イオンモール千葉ニュータウン周辺の、歩道上。)

汚水・雨水、同じデザインですが、花の大きさが微妙に違う等、コレクター心をくすぐります。 基本的には汚水用のマンホールの方が、カラーの違いや親子蓋も含めて、種類が多いようです。

同じデザインの雨水マンホール。汚水も同様ですが緑部分の剥げ具合が残念。

上水道関連の「空気弁・消火栓」もマンホールと同じデザインでカラーとモノクロタイプを設置。

「制水弁」はカラータイプが一種類。

昭和55年(1980)10月1日制定の市章は「印西町章として制定されたもので、市制施行後に継承。印西の文字を図案化したもので、円は、市の融和を意味し、円満に力強く発展する姿を表しています。」公式HPより

上水道関連の「仕切弁」「空気弁」「量水器」

「東京ガス」の大型マンホール、中央のコーポレートシンボルは、1985年10月に、創立100周年を迎えた節目として制定。

印西市マスコットキャラクターは、市の花・コスモスと同じ色のサイの『いんザイ君』。「印」の文字の印鑑がトレードマーク。コスモス色ですが男の子です!、尻尾にコスモスの花が咲いていますが、男の子です!!😅

市内六ルートを走る「ふれあいバス」のマスコットキャラクター『ポン太』& コン助』。 同じルートなら何処まで乗っても100円なので、バスを利用して市内を巡る人には良いですね。

撮影日:2019年3月17日


妙法山:神宮寺 in 千葉県神崎町

2019年10月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

神崎町並木にある真言宗智山派寺院「妙法山:神宮寺」『阿弥陀如来・十一面観音』を本尊とします。

「阿彌陀如来第四十七番」と刻まれた石柱は、宝暦四年(1754)に建立されたもの。側面には「南無遍照金剛第四番神宮寺」とあります。二つの札所番号があるのは、それぞれのご本尊に対してのものでしょうか。

古くより「並木観音」と称され、「神埼神社」の別当寺として創建された「神宮寺」。 近世には四国八十八ヶ所を移した第九番札所として、近郷庶民の信仰を集めたと云われます。

【朱塗りの仁王門は江戸時代中期の建立で、間口十尺足らずの四脚門で木割が細く屋根は切妻造りになっています。本柱や冠木の形式が通常の四脚門とは違っており、また藁座を蹴放しから造り出しとする珍しい造りとなっています。】境内説明より

仁王門の両内陣には、経年に寄る傷みは有りますが、朱塗りの仁王像が境内を守護されています。下から見上げてしまったので、凄みではなく太みになってしまいました😔

寺伝によれば、『空海』がこの地を訪れ阿弥陀三尊を安置し、『円仁』が庵を結んだと云われますが、それ以上の詳細はわかりません。元禄10年(1697)に造営された「観音堂」は神崎町指定文化財に、本尊は県指定の文化財となっています。

扁額の「大悲閣」は、「観世音菩薩像」をまつってあるお堂、もしくは観音堂の事を指すそうで、寺巡りが増え始めたとき知りました。

御詠歌【ふだらくや 並木にひびく岸の音 迷いの夢を さますこの寺】

御本尊のお姿を見る事はできませんが、奉納絵馬には美しい「観世音菩薩」が描かれています。

参道石段の中ほどに祀られる小さなお堂は「子安堂」「文化十一(1814)甲戌」と記されています。 お堂の内陣には、膝の上に幼児を抱く慈母の『子安観音石像』が奉祭されています。

「子安堂」の隣には「地蔵堂」が祀られ、内には『地蔵菩薩石像』が奉祭されています。

観音堂の境内には、おだやかな姿の観音像や石仏群が、淡い緑の芝生の上で寛いでいます。

参拝を終えてもと来た道を引き返す途中、柵に囲まれた「並木の大梛(なぎ)」と呼ばれる木を見つけました。傍らの石碑には、明治四十年(1907)建立、「普門品供養塔」と刻まれています。

入り口付近に建立されていた碑は、偶然見つけた芭蕉句碑。全くの予想外で、嬉しさもひとしお。【刈可けし田つらの能鶴やさとの秋】貞亨四年(1687)芭蕉四十四歳

参拝日:2019年3月16日


神崎(こうさき)神社 in 千葉県神崎町

2019年10月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

神崎町神崎本宿に鎮座される「神崎(こうさき)神社」。 御祭神は『天鳥船命(あめのとりふねのみこと)、大己貴命、少彦名命』。配祀『面足命(おもだるのみこと)、惶根命(かしこねのみこと)』

一の鳥居の前にあって神域を守護されるのは、昭和10年建立の江戸流れの狛犬さん。 思わず二度見してしまいそうなユーモラスなお顔は、多分横に大きく広がった口の所為。

仔狛も含めてこの狛犬さんのお顔・・・つい最近、千葉のどこかで見た・・そうだ、銚子駅!  桃電に登場する「貧乏神」に似ていると思ったことは、くれぐれも内緒にして下さい😓

御由緒に【創建年代については不詳であるが、社伝によると白鳳2年(673)に常陸と下総の境界にある大浦沼の二つ塚からこの地に影向し遷座したものという。現在地は、小松村字神崎の双生山と云ったらしく、当社は、三代実録記載の子松神(小松神)であるという。明治維新に際し、「神崎神社」と改称。】

参道は広大な森に包まれており、神社全域が「神崎の森」として、天然記念物に指定されています。

参道石段の左右より神域を守護されるのは、下界を見下ろすように身構える狛犬さん一対。 基本的にこの形の狛犬さんはご亭主殿も私もかなりお気に入り。嬉しくて小さくガッツポーズ😊

ここで気になったのは、親狛が見下ろす崖下に、這い上がろうとする仔狛が居ない事です。 獅子山という程の高さではないので、獅子の子落としの構図では無かったのかもしれませんね。

拝殿の付近では、私達の参拝が早かった所為か、関係者らしき方たちが清掃の真っ最中。 そんな早朝に参拝に来た私たちを見て殊勝と思ってくれたのかどうか・・、いろんなお話を聞くことが出来ました。でもメインはやはり大きく聳えるご神木の事😄

「神崎神社」の拝殿横には「天然記念物:なんじゃもんじゃの木」が空を覆うほど大きく枝を広げています。 名前の由来は、延宝二年(1674)に『水戸光圀』が参拝した際、あまりにも立派な木であった為「この木は何というもんじゃろうか」と自問し感嘆したとか・・ それ以来「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれるようになったと、傍らに詳しく書かれています。 十三メ-トルの幹まわりも凄いのですが、樹齢約二千年と聞かされ、更に言葉をなくします。

【ここはこうざき森の下、舵をよくとれ船頭どのよ、主の心と神崎森は、なんじゃもんじゃで気が知れぬ】江戸時代、利根川を航行する船人たちの目印として唄われた「なんじゃもんじゃの木」。その樹勢は衰えることなく神域を見守っています。

「なんじゃもんじゃの木」に気を取られてしまいましたが、目的は一応狛犬さんがメイン。こちらの短足胴長の狛犬さんは、石段上がってすぐの境内の片隅に奉納されていたもの。 奉納された年代は不明ですが、かなりの長い時間をこの境内で過ごされたのだろうと思います。

「境内社:三峯神社」、秩父・三峯山と同じく『伊弉諾尊・伊弉册尊』をご祭神とします。

「境内社:地主稲荷」、古くよりこの地に祀られる『稲荷神』を祀ったものと思われます。

三つ並んだ祠には、それぞれに「鹿嶋神社」「香取神社」「かまど神社」の御名。

かっての神仏混合の時代の名残と思われる、「聖観音(しょうかんのん)」の祠もあります。

神崎神宿の「八坂神社」は正徳二年(1712)の創建とされ、古くは「天王様」として親しまれていました。 西側参道に鎮座されるこの「八坂神社」が、「神崎神社」の境外社なのか否か、詳細は不明。

石碑は一の鳥居の近くにあった石碑、刻まれた文字は大きく欠けて判読できません。 それでもきちんと碑として建立されている様子は、何か意味のあるものだろうと思えます。

参拝日:2019年3月16日


ご当地マンホール in 千葉県神崎町

2019年10月05日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

香取郡神崎町(こうざきまち)は千葉県の北端中央部、利根川の南岸に位置する町です。東は香取市、西と南は成田市に、北は利根川を挟んで茨城県稲敷市、稲敷郡河内町に隣接。都市雇用圏における成田都市圏に含まれ、平野部は関東平野に含まれる水田地帯となっています。江戸時代には利根川の水運で栄え、醸造関連遺産は近代化産業遺産に認定されています。「町の木:クスノキ」「町の花:バラ」「町の鳥:メジロ」を制定。

(久々に長い)キャッチフレーズは「自然と人とふれあいのまち 神崎町 発酵の里・健康笑顔のまち こうざき ―みんなで創る 健康・安心・子育て応援のまち―」 

明治22年(1889)、町村制の施行により、香取郡神崎村・米沢村が発足。

1890年、神崎村が町制を施行、香取郡神崎町(初代)が発足。

1955年、神崎町と米沢村が合併、神崎米沢町が発足。同日、改称し香取郡神崎町(2代目)となりました。

独自のデザインのマンホールはありませんが、消火栓には「利根川に架かる神崎大橋」が描かれています。

茨城県とを結ぶ利根川に昭和42年に開通した架けられた、下路3連アーチの「神崎大橋」。神崎町のシンボル的存在です。

昭和32年(1957)4月1日制定の町章は「町名のコウザキを図案化したもので「町の和」と「発展の願い」を込めて作成されました。」公式HPより

町章付きの「制水弁」

水道局関連の知章付き「制水弁」

神崎町PRマスコットキャラクター『なんじゃもん』。なんじゃもんじゃの木の分身で2000歳。お酒と発酵食品が大好物で大のお祭り好き。注連縄をされると願い事が叶うんだそうです。神崎町松崎にある「道の駅:発酵の里こうざき」では、立体的な『なんじゃもん』がお迎えしてくれます。

撮影日:2014年5月17日&2019年3月16日


大鷲神社:魂生明神 in 千葉県栄町

2019年10月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

「大鷲神社」境内から続く石段は、最初に登った石段とは別の場所に続いているようです。

石段の途中に建立されていた碑には長い文字が刻まれていますが、判読不能で詳細は不明。部分的に読めるだけに地味にイラッとします😅

参道の右手には『伊邪那岐・伊邪那美』の姿になぞらえた「縁むすび合体椎の木」が聳えます。 確かに二つの木の根元は互いに絡み合い、まるで神々を生みたもうた二神の姿に重なります。

こちらは「子授け乃大樹」、魂生明神が鎮座してから徐々に出現した自然の神霊の○○です。「「魂生明神」と共々ご参拝ください」と・・すでにその類の話には縁がなくなった二人ですが、子宝を願う人には切なる願掛けなのでしょう。

「子授け乃大樹」の側にも、達筆で刻まれた碑が建立されていますが、もちろん読めません😓  神社関係者の方にお願いです、ぜひ解説版を!!

そしていよいよ大本命😅の「魂生(こんせい)神社」。中に入るまで全く気がつかなかった「魂生」の意味。

それはもう・・・いえね!野島埼の「厳島神社」でも拝見しましたが、桁違いなのです😱

正面に鎮座される御神体は黒御影石の「魂生大明神」。その高さ2.5m・周囲2.3mと巨大。 「子授け」に非常に御利益があるそうで、子宝を望む人にとって「魂生様」はまさに頼みの🔴🔴。

「魂生大明神」の側には大小様々な「魂生様」。そして酉の市の「縁起熊手」。 熊手の購入者は、恵比寿・大国に大量の大判が飾られた「縁起熊手」に、運や福、商売繁盛を願うのです。毎年12月の「安食の酉市」は、関東地方で最も遅い時期の「酉市」として知られています。

「魂生神社」の隣に鎮座される「聖徳太子堂」、太子の碑は嘉永元年(1848)の建立だそうです。

こちらは石段参道の上にあった「境内社:御嶽神社」「境内社:石上神社」。 「御嶽神社」は江戸時代からこの地に鎮座されていたもの。また「石上神社」は、何と!「旧魂生神社」のお社だったそうです。何がそうさせたのか、「魂生様」の大出世を目の当たりにした感じです。

「麗峰神社」は最近建立されたもので、全ての山々に宿る全ての神々を奉祭。

この松は『日本武尊』が東征の折、当地を御仮所とした際にお手植えした松なんだそうです。 『日本武尊』ですよ😄  古代史における伝承上の英雄が植えた云千年前の松ですよ~😅 一体、何代目なんでしょう???

ラストは境内より出土したという「力石」。なんで埋まっていたんだろう?

参拝日:2019年3月17日


大鷲(おおわし)神社~其の一 in 千葉県栄町

2019年10月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

栄町安食に鎮座される「大鷲(おおわし)神社」。御祭神は『天乃日鷲命(あめのひわしのみこと)、大巳貴命、小名彦命、日本武尊』

主祭神である『天乃日鷲命』は、「麻植(おえ)の神」として、紡績の業を創始された神とされます。

境内の掲示より「創祀の年代は明らかではないが、日本武尊が東夷征討の際、錦旗を立て仮の御野立所とし租神を奉斉した旧跡という。文化文政の年代には「鷲宮(鷲賀岡神社)」と称していたが、明治二六年頃より「大鷲神社」と言うようになった。」

『徳川家光』の乳母『春日局』が、『竹千代(家光)』の出世を祈願した事でも知られている大鷲神社。見事、願掛けが成就した春日の局は、三代将軍となった祝いとして御座船の金色の鷲をもらいうけ、当社に献納したと云われています。

賽銭箱の大鷲は、春日の局が献納し社宝となったその大鷲を模しているそうで、色々と奥が深いです。

現存する本殿は刻銘から天保2年(1831)の造営とされ、栄町の有形文化財に指定。 本屋、向拝の軸部、縁廻り、柱間などの壁板一面には、極めて装飾的な彫刻が施されています。 宮彫刻師の名前が分からないのが残念ですが、千葉にはまだ掘り起こされない逸材が大勢います。

眼福ともいえる数々の彫刻の中にあって、「琴を奏する不思議な彫刻」には、ある特別なご利益があるといわれています。境内で毎年行われる酉の市の特設舞台で歌った無名の歌手達、なぜか売れっ子になって翌年の紅白歌合戦に出場できるという!!。歌手にとっては大出世とも言える凄いご利益ですね😊

後方の壁板は「司馬温公の甕割り」。大きな水瓶に落ちた友達を助けるために、父親が大切にしている瓶を石で叩き割る温公。割れた甕から這い出してくる子供の姿が見えます。

こちらは中国に伝わる述異記の中の「碁を打つ二人の童」の彫刻。垂井の南宮大社の彫刻にも同じ題材がありましたが、二人の子供の仕草が生意気なくらい様になっているのは、本当は彼らが仙人だから😊

本屋と向拝を繋ぐ海老紅梁は竜の丸彫りになっており、その躍動感は見る者を圧倒させ、一歩も動けなくなるほどその場に釘付けにされます。本当に宮彫刻の主の名が知りたい!!

本殿下羽目板にも細かな彫刻があり、これは「波に玄武」。左右の貫には阿吽の獅子もいます。

さらに本殿の階段には、地肌の彫までも丁寧に仕上げられた一対の小さな狛犬さんが鎮座。年代は不明、公式ページに記載が無いかと探しましたが、彫刻同様、詳細は無しでした。 本当に社宝といっても過言でない緻密さなんですよ!

「大鷲神社」の紹介は以上ですが、実はこちらにはもう一つ・・とても有名な神社があります。 さてさて、きちんと紹介できるかどうか自信がありませんが😅、その他の境内社なども含めて、続きは明日。

参拝日:2019年3月17日


千葉県立房総のむら~其の二 in 千葉県栄町

2019年10月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

昨日に続いての千葉房総村、今日は「商家の町並み」。県内に残る古い町並みを参考に再現された、17軒の建物で構成されています。 ここから先は有料ゾーンという事で、総合案内所で入場料300円を支払ってチケットを購入。

古い時代の映画のロケにでも使われそうな町並みは、全く知らない世代なのにどこかで見た筈・・と郷愁を誘います。 この不思議な懐かしさ・・何だろうと考えて思い当たったのが、京都太秦にある「映画村」😲

あそこはもっと時代劇風な景色だったけど、それでも道の両側の景色はとてもよく似てます。 これでお武家や町衆の姿があれば、完璧に時代劇の世界・・・って、ここは房総のむらですが😅

建物のいくつかでは、伝統的な暮らしや道具を作る体験が出来るそうで、申し込みも受付けています。 こちらでは古い鉄を鍛錬して「鎌」を作っている最中、ご亭主殿何度もカメラを向けていました。

真っ赤に焼けた鉄を打ち鍛えて折り返し、火を入れて焼き、また打ち鍛える・・その繰り返し。「村の鍛冶屋」という歌の中に「暫しも休まず槌打つ響き」という一節があったのを思い出します。でも「鍛冶屋」がいなくなったからと言うバカみたいな理由で、あの歌も唱歌から外されたんですよね。

商家の町並みの外れに鎮座しているのは、真っ赤な鳥居の「稲荷神」。横にちゃんと絵馬賭けもあります。

でも稲荷神なのに狐ではなく「赤いさるぼぼ」が、御幣を持って得体の知れぬ何かを祓っています。「病魔退散」と書かれているので、多分この得体の知れない何かは「病魔」なのでしょうが、何故か憎めない顔😅

気がつけばここは村の外れ、自分で何かを体験するとかで無ければ、あっという間に「商家の町並み」は終わり。もと来た道を引き返して、今度は上総、下総、安房地方の農家が再現された区域へ移動。

農家集落の入り口、頭上高い左右の木には縄が張られ、奇妙な何かがぶら下げられています。 傍らの説明によれば、これは「綱つり」とよばれるもので、村に災いが入るのを防ぐ為のもの。 藁で作られた「サイコロ・かしま人形男・えび・木札・たわし・たこ・かしま人形女」。ちなみに「かしま人形」の男女ですが・・・ちゃんとそれと分かるように微妙な違いがあります😅

災いよけの「綱つり」に守られた村は、緩やかな日差しの下で時間が止まったかのように穏やかに・・そこに立つ私は、まるでタイムスリップの気分。

ここでは昔懐かしい竹馬や独楽回しなどが用意されており、子供たちの賑やかな声が響きわたります。 年甲斐も無くご亭主殿も竹馬に挑戦、意外とちゃんと歩く事ができて、子供たちから拍手を貰いました😄

残すは「風土記の丘資料館」。県内各地の遺跡から出土した考古資料が収蔵・展示されています。とはいえ、流石にこの施設の為に費やせる時間は残されていません・・というよりも、完全にタイムオーバー😅 二度目の来訪にも関わらず、何故か初見の場所が多く、ついつい時間を忘れてしまいました。

という事で、房総風土記の丘資料館に住んでいる房総のむら:マスコットの『ぼうじろー』「館内で育てている野菜に付いた虫を食べる」ことがお仕事の、サラリーマンバードなのです。

「風土記の丘資料館」の一帯は「龍角寺岩屋古墳群」として、国の史跡に指定されています。 学術的な話は難しすぎて私には似合わないので、伝説の龍神の話を脚色込みで紹介します。

その昔・・もっと遠い昔、この地域一帯がひどい旱(ひでり)に襲われ、人々は必死に神様に雨乞いをしました。 それでも池も沼も干上がったままで、乾ききった大地に作物は実らず、人々は飢えと乾きに苦しんでいました。 天上からその様子を見ていた龍神は、自らの体を三つに分けて大地に雨を降らせました。 三つに分けられた龍の体から流れる血は、慈雨となって下界に降り注ぎ、人々を救ったのです。 龍の頭が落ちた地は「龍角寺」、胴の部分は「龍腹寺」、尾の部分は「龍尾寺」と呼ばれ、伝説は語り継がれています。

という事で、この「龍角寺岩屋古墳」のあたりは、龍の頭が落ちた場所だったようです。

訪問日:2014年5月20日&2019年3月17日