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特別史跡・閑谷(しずたに)学校~其の一 in 岡山県備前市閑谷

2021年11月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

備前市閑谷にある「特別史跡:閑谷(しずたに)学校」。江戸時代前期、岡山藩によって設けられた藩士の為の「岡山学校」に続き、庶民の為の教育施設とするべく、約30年の歳月を費やし、元禄14年(1701)に完成しました。

紹介するほぼ全ての画像が、国宝・もしくは重要な文化財として登録されている「閑谷学校」。まずは、芝の手前に広がる長方形の「泮池(はんち)」に架かる「石橋」。橋の上で立ち止まると色とりどりの鯉が餌を求めてやってきます。

学校全体を取り囲むのは元禄十四年(1701)に完成した、総長765mにも及ぶ「石塀」。「切り込み接ぎ式」の工法により、ゆるやかな曲線を見せる石塀は『河内屋治兵衛』を棟梁とする石工集団によって築かれました。

石橋を渡りきった先に見える荘厳な佇まいの門は、聖廟の正門として貞享三年(1686)に造営された「校門」。両脇に花頭窓のある付属屋など、中国の建築様式を模した作りとなっており、中国最古の詩集である「詩経」の中の詩に因んで「鶴鳴門」とも呼ばれます。

左右を「楷(かい)の木」に守られるように延びる石段参道。その突き当たりに儒学の祖、孔子を祀る「聖廟(せいびょう)」。孔子廟、西御堂とも呼ばれ、最も重要な施設として中央の一番高い所に配されています。

秋が深まると共に見事な紅葉を見せる「楷の木」。中国山東省曲阜の孔林から種子を持ち帰り、苗より育てられた内の2本だとか。初秋の時期ではこの程度ですが、季節になれば言葉に出来ないほど見事なコントラストが一帯を染め上げます。

「聖廟」の向かって右手には「閑谷神社」の神門があり、正面から真っ直ぐに石段、拝殿、幣殿へと続きます。幣殿の先には閑谷学校の創始者である『池田光政公』が祀られる「閑谷神社」本殿が鎮座されます。

かっては「東御堂」、または光政公の謚をとって「芳烈祠」とも呼ばれていた社殿。その本殿内には御神体として光政公の座像が安置されているそうです。

閑谷学校を代表する建築物で「学問の殿堂」とも称される「国宝:講堂」。入母屋造り、しころ葺きの大屋根と火灯窓が壮重な独特の外観を形作っており、圧倒的な存在感をはなっています。創建当時は「茅葺き」でしたが、その後改築され現在の「閑谷焼瓦」に葺き替えられました。

講堂内部は十本の欅の丸柱で支えた内室と、その四方を囲む入側とで構成。拭き漆の床は生徒たちによってよく磨かれており、火灯窓から入る光をやわらかく反射させています。

その昔、私もこの講堂で、社会人となるための心構えを学ぶ為に社員研修を受けた事があります。備前地方の学校に籍を置いた学生なら、おそらく殆どの人が同じ体験をしたのではないでしょうか。

講堂に隣接する「小斎(しょうさい)」は、藩主が臨学の際に使用する「御成の間」。屋根はこけら葺きで簡素な数寄屋風に作られており、現存する建造物の中では、最も古い姿を残しています。

左手前に見える建物は「習芸斎(しゅうげいさい)」。毎月三と八の付く日は「五経(詩・書・礼・易・春秋)」「小学」、朔日(ついたち)には、農民も聴講することができる「朱文公学規(朱子学の基本の規約)」の講釈が行われました。

「飲室(いんしつ)」は教師と生徒たちが、湯茶を喫した休憩室。中央の炉炉端には「斯爐中炭火之外不許薪火」と彫り込まれ、火の使用に厳重な注意がはらわれていました。

「飲室門(いんしつもん)」は、日通いの生徒や、毎月朔日(ついたち)の朱文公学規講釈に出席する聴講者が出入りする通用門として使われていました。

「文庫(ぶんこ)」は閑谷学校の教科書・参考書をおさめた書庫で、中央の階段を上がった左右の床に八千点余が所蔵されていました。漆喰塗で固めた上を瓦葺きにした置屋根式で、前室には三重の土の戸を含む六層の戸が設けられています。

「黒字」で書いた建造物は全て国宝・重要文化財という「閑谷学校」。まだまだ紹介は終わりません。続きは「特別史跡・閑谷学校~其の二」で。

訪問日:2006年9月30日


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