明日は12月14日、時代劇ファンならこの日が何の日かご存知の方も多いのではないでしょうか。そう、この日は「日本三大仇討ち」で知られる赤穂四十七士の討ち入りの日。ですがここは静岡県。これから紹介するのは「日本三大仇討ち」の一つ「曾我兄弟の仇討ち」に関する史跡です。
富士市久沢にある「鷹岳山・福泉寺」。今日では「曽我寺」の名で親しまれています。
建久4年(1193)、舞台は『源頼朝』が富士の裾野で催した大規模な巻狩り。その日、『曽我十郎祐成・五郎時致』の兄弟は、夜陰に乗じて父の仇である『工藤祐経』を討ち果たします。見事本懐を遂げるも、兄十郎はその場で討ち取られ、弟五郎は捕縛されて鎌倉へ護送される途中、鷹ヶ岡で首を刎ねられてしまいます。詮議の際、頼朝公は二人の覚悟に感涙し、助命を提案しますが叶わず・・
境内には曽我兄弟の墓があり、江戸時代から、東海道を往来する人々が寄り道をして参詣したと云われています。
いわゆる「判官びいき」の心情は、弱者を鞭打つ事を良しとしない日本人独自の感性。「溺れる犬は棒で叩け」なんて格言のある国と仲良くなんて・・絶対に!無理!!
曽我寺は、かつて凡夫(ぼんぷ)川右岸にありましたが洪水で流され、現在の場所に移ったと伝えられています。近年まで、兄弟が仇討ちを果たした5月28日に合わせ、供養祭が毎年盛大に行なわれていたとか。「曽我二士二百回忌」と刻まれた記念碑も、そうした一連の流れで建立されたものでしょう。
二人の墓所の横には、今まさに本懐を遂げるべく刃を振るう『曽我兄弟』の銅像。 討つもの、討たれるもの・・互いの立場に言い分はあるとしても、ここでは若い二人の必死さを褒め、手を合わせて祈るのが良し。
兄弟像のすぐ後にそびえる巨木は、富士市指定天然記念物:樹齢700年上のカヤの木。決死の兄弟を包み込む様に大きく枝を広げる姿に思わず鼻がツンと
近くには兄弟それぞれが思いを寄せ、愛し合った二人の女の辞世の歌碑。
【露とのみ 消えにし跡を来てみれば 尾花かすえに 秋風ぞ吹く】兄『曽我十郎祐成』相思の女:『虎御前』。
【捨つる身に なほ思ひ出となるものは 問ふにとはれぬ 情なりけり】弟『曽我五郎時致』相思の女:『化粧坂少将』
本堂へのお参りが前後しました。御朱印を頂きたかったのですが門を潜った時点で灯りは無く、とっくに時間切れだったようです。
貫に彫刻された獅子は、そう思ってみるからと分かっていても、決死の場に臨み、互いを見合う兄弟のよう。
境内には岡崎市から寄贈された、曽我兄弟の精神を現代に伝える三体の地蔵が建立されています。
右から、父の仇を打つの「一念」。中央「兄弟愛」は文字通り曽我兄弟の姿、そして「親を思う心」。見事本懐を遂げた二人の上に覆いかぶさるように見えるのは、わが子を褒める父親の姿でしょうか。
地蔵像の後方には『父:曽我太郎祐信』『母:満江』の供養碑。
曽我寺からさほど遠くない富士市厚原に鎮座される「曽我八幡宮」。御祭神は『応神天皇』。 相殿に『曽我十郎祐成・曽我五郎時致』。
神社所蔵「曽我八幡宮略縁起(木版)」によると、「仇討ちから4年後の建久8年(1197)、曽我兄弟の意思に感心した『源頼朝』が、家臣の『岡部権守泰綱』に命じて建てた」ものといわれています。
まだあどけない兄弟が指差すかなたには、あだ討ち以外の、どんな希望があったのでしょうか・・ 現代人の感覚でそれを語ることは、決して許される事ではないと知りつつ、その幼さが胸をうちます。
曽我兄弟の遺跡案内図には、五郎の首洗い井戸、玉渡神社、虎御前腰掛け石などが記されています。 またここからさほど遠くない富士宮市内にも、兄弟の墓所や「曽我八幡宮」が鎮座されます。
が、12月の日暮れは釣瓶もまっ逆さま(^^;)、時間切れでこれ以上は廻れません。
参拝日:2016年12月9日
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