野洲市(やすし)は滋賀県南部、琵琶湖の南岸に位置する市です。2004年10月1日 、野洲郡中主町と野洲町が合併して発足しました。南は湖南市、西は守山市、栗東市、東は近江八幡市、蒲生郡竜王町に隣接。市名は旧郡名「野洲郡」から。また、「ヤス」は沖積平野を意味する古代の自然地名が由来とする説もあります。東南部の三上山から妙光寺山、鏡山等によって形成する山地部と、山地から琵琶湖に向かって緩やかに広がる平坦地に分けられます。市域からは多数の銅鐸が出土し、「銅鐸のまち」として知られ、他にも古墳群や神社仏閣など豊富な歴史・文化遺産を擁しています。
キャッチフレーズは「豊かな自然と歴史に彩られ、人が奏でる ほほえみ・ときめきのまち」
淡海環境プラザ展示マンホール「中央に野洲川を配置し、東海道新幹線の野洲川橋梁と旧中主町の町の花として指定されていた「アヤメ」と旧野洲町のシンボルである三上山をそれぞれ上下の位置に配置しています。」
2004年10月1日制定の市章は「平仮名の「や」を図案化したもので、環を表した2つの曲線は、豊かな自然と歴史を意味し、躍動感あふれる生き生きとした「人」を表現したものである。」公式HPより
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旧野洲郡野洲町(やすちょう)は滋賀県の南部に位置した町です。栗東市、守山市、近江八幡市、野洲郡中主町、甲賀郡甲西町・石部町、蒲生郡竜王町に隣接。町域南西部を野洲川が、北東部を日野川がそれぞれ北流し、野洲川沿いの稲作地帯として発達。南部には「近江富士」と呼ばれる「三上山(標高432m)」があり、藤原秀郷による大ムカデ退治伝説が残ることから「ムカデ山」の異名も持ち、「古事記」や「延喜式」にも記述が残されています。「町の木:松」「町の花:コバノミツバツツジ」「町の鳥:ウグイス」を制定。
明治22年(1889)、町村制の施行により、野洲郡野洲村・三上村・篠原村・祇王村が発足。
1911年、野洲村が町制を施行、野洲郡野洲町となる。
1942年、三上村と合併し、(二代目)野洲郡野洲町が発足。
1955年、篠原村・祇王村と合併し、(三代目)野洲郡野洲町が発足。
2004年、野洲郡中主町と合併、野洲市となりました。
マンホールには町章を中心に、野洲市小篠原(桜生)の大岩山古墳群から出土した「大岩山銅鐸」の模様が描かれています。
淡海環境プラザ展示マンホール「野洲町の歴史を象徴する「銅鐸」に見られる紋様をデザインしたもので、外周の“鋸歯紋”は「外から内なる世界を守る」意味をもっています。中央の「町章」は、片仮名の「ヤ・ス」を図案化したもので、中央に野洲川を配置し、円は町政の円滑化を図り、 両翼に大きく飛躍せんとするものです。」
昭和30年(1955)4月1日制定の町章は「カタカナの「ヤ」「ス」を図案化し、中央部は野洲川を配し、周囲の円は町制の 円滑化を計り、両翼に大きく飛躍しようとするもの」合併協議会資料より。
マンホールのデザインに使われた「大岩山銅鐸」。明治14年に14個、昭和37年には東海道新幹線の土取り工事で9個の銅鐸が再び発見され、さらに別の地点では流水文銅鐸1個が出土していた事が後に分かりました。画像は「新童子川橋」高欄のレリーフ「三個の銅鐸」。
撮影日:2008年6月14日&2015年7月15日
おはようございます。
札幌もようやく春めいておりだんだん暖かく
なってきました。
今回のマンホールは野洲川、野洲川橋梁とアヤメに三上山と4つのデザインが
綺麗に配置されてますね!
中央下の(や)の文字の意味も知り
由来が理解できると文字も面白いですね😄😄
>だんちょう... への返信
ちいさなマンホールに詰め込まれた郷土の誇り
こういう所にも、その地に住む人々の思いが見えるようで嬉しいですね
今日は4月の22日ですから、10日以上ご無沙汰していたことになりますね。
貴方の大切なブログを、「場所」と呼ぶと叱られそうですが、ここへ来ると心が休まり、ほっとします。
お国自慢の工夫が凝らされたマンホールの面白さだけでなく、神社仏閣、狛犬様や、高い木立、周辺の山々の姿など、tibinekoさんの解説を読んでいますと、時の経つのを忘れます。
断捨離を決意しましたので、これからは「ねこ庭」に根を詰めて向かうことがなくなりそうです。
今晩はもう遅いので、明日からゆっくりと貴方の大切な場所で時間を過ごさせてください。
Tononeko殿に、よろしくお伝えください。
お分かりと思いますが、当分の間「ねこ庭」へのコメントはお控えくださいませ。