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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

奥津温泉郷 in 岡山県鏡野町奥津

2022年03月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

かつての美作国に当たる場所に、『少彦名命』によって発見されたと伝えられる温泉があります。湯郷温泉、湯原温泉と共に「美作三湯」と呼ばれ、江戸時代は津山藩の湯治場として栄えてきた「奥津温泉」

吉井川に架かる奥津橋を中心に温泉街が形成されおり、昭和41年(1966)8月1日に国民保養温泉地に指定。1991年には国民保健温泉地に指定されました。

唐破風屋根の玄関が、いかにも温泉街の宿の趣を感じさせる「奥津荘」。わずかな時間の散策ですが、スタートはここから。と言っても表玄関を見ただけ。お泊りでもない私たちには、素敵な佇まいに見惚れるのが関の山😅

奥津荘にある「鍵湯」の名は、藩主:森忠政が一般の利用を禁じ、番人を置いて鍵をかけたことに由来します。鍵湯では浴槽の底から温泉水が自然湧出していると言う事で、もしも機会があれば是非とも入湯してみたいお湯です。

奥津橋の袂には「衣洗う奥津の親子」像が建立されています。幼い子供と一緒に足踏みしながら洗濯をする母。幼いながらも母の仕草をまねて足踏み洗濯をする子供。昔はこういった情景が普通に見られたのでしょう。

3月上旬~12月中旬の日曜、祝日、奥津橋のたもとで行われている足踏み洗濯は、かつて熊や狼を見張りながら川に湧き出る湯で洗濯していた名残とか。姉さんかぶりに赤い腰巻もかわいらしく、器用に足先で洗うしぐさはダンスをしているようにも見え、別名「洗濯ダンス」とも呼ばれています。

俳人:与謝野鉄幹はその様子を【 衣洗う 奥津のおとめ 河床の 清きに立ちて  踊るごと践む 】と詠んでいます。

河原には露天風呂が2つ有り、この露天風呂の片方が「洗濯湯」と呼ばれているもの。

気の早い鯉のぼりは、風を受ける事が出来ず、だらんと尾を下げたまま。

耳を済ませば、聞こえてくるのは吉井川の流れの音。音に誘われてじっと見ていると急に怖くなり、慌てて回れ右をしてしまうのは泳ぎが出来ない所為ばかりとも言い難い😅

白く泡立つ水の色は、深みと岩場が作り出す危険のサイン。まぁ・・基本的に自然の水は怖いと体が拒否反応を起こしています。

改めて橋の上まで戻って見下ろすと円形と楕円形の露天風呂に、川の流れがすぐ側まで迫っていて、やっぱり怖いという印象が否めません。

時間に急かされるようにもと来た道を引き返した私の目に留まった史跡の標柱「馬乗石」。傍らには「津山藩主・森・・・元禄七年・・二回にわたり・・」と記された駒札があるのですが、石に隠れてしまって、読めたのはごく断片。史跡とあるので、調べればわかると思ったのが間違いだったようです😓

温泉街と違ってずいぶんと賑やかな道の駅。もしかして足湯とか有るかもと期待していたのですが、空振りでした😅

訪問日:2012年4月23日

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鏡野町あちこちウォッチ in 岡山県鏡野町

2022年03月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

鏡野町庁舎近く。町内を流れる香々美川。9月の早朝に見る川の流れはこの上なく涼し気で、清らかに澄んで見えます。もっと、もっと昔の子供の頃なら、間違いなく川べりに下りて水遊びをしただろうな~😄

明日から彼岸の入り。まるで正確な暦を知っているかのように、この季節になると真っ赤な花を咲かせる「彼岸花」。昔はこの花の茎で良く首飾りを作ったものです。

鏡野町竹田、ペスタロッチ館の周囲を少しだけ散策してみました。特に何がという目当ては無かったのですが、主にマンホール収集のついでを兼ねて😅

大正・昭和前期の小説家『片岡鉄兵』像。恥ずかしながらこの人物の名は初見ですが、文学碑の文字は『川端康成』の筆によるもの。多分、知る人ぞ知る有名な文学者なんだろうと思います。

【 海と大空の中の一点のわたしを 孤独と思え 】

さて、ペスタロッチとはなんぞや??。鏡野町は、スイスの教育学者であるヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチの教育理念である”知・徳・体の調和的発達”に共感し、日本のペスタロッチタウンを標榜、まちづくりの目標に掲げているそうです。そうか・・人の名前だったのね。

ペスタロッチ館前広場に建立されたペスタロッチ像

同じ像が、鏡野町物産館:夢広場にも建立されています。初めて見た時「ガリバー像」かと思ったのですが、考えてみれば巨人でも小人でも無いのに、何故「ガリバー像」と思ったんでしょう?

庁舎近くにあった鏡野イラストマップ。これで見ると色々と楽しそうな場所もあるようですが、何分にも時間が足りない。なにしろ目的はマンホール収集と、マンホールカード収集😅。 誰かに言われる前に言っておくと、折角高速使って遠方に来ていながら・・本末転倒😓

訪問日:2019年9月18日

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笠(かさ)神社 in 岡山県笠岡市笠岡

2022年02月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

笠岡市笠岡に鎮座される「笠(かさ)神社」。笠岡の総氏神で御祭神は『応神天皇・天照皇大神』

【当社の創建は不詳であるが、鴨別命が功あって笠臣の姓を賜り、当社を勧請したとも伝えられている。後にカサメと変じて笠岡となる。 正応(1288)大嘗会和歌集大蔵卿隆博の詠んだ歌に「天の下かさめの山の草木まで春のめぐみの露ぞあまねき」とある。 往古、笠目山(応神山)に応神天皇が御巡幸の際に、狩をされ一陣の風に、天皇の被っていた笠が飛び麓の松の木にかかった。その松を「笠掛の松」と呼び、そこに八幡神社が建てられた。】岡山県神社庁より

参道途中より神域を守護されるのは文化一年(1804)建立の浪花タイプの狛犬さん一対。羽団扇のように開いた尾を背中に張り付けて今日も元気な笑顔😀

綺麗に整備された石段参道を進んだ先に〆鳥居

境内入り口より神域を守護されるのは明治31年(1898 )建立の広島タイプの狛犬さん一対。阿吽ともに玉乗り子抱きというのは、かなり珍しいと思います。

阿形さんの仔狛・・一体何に噛みついている??

今日は五月五日:子供の日という事で、手水舎にはシミも汚れも無い、美しい日の丸が揚げられています。

手水舎で、禊の水を吐くのは、龍ではなく「亀」。持ち上げた首がなんともいい感じ😀 で、何故、吐水亀なのかは不明。

唐破風の屋根が美しい拝殿

拝殿:蟇股の彫刻は天空を舞う鷹と、波間よりそれを見上げる龍。

拝殿前左右より神域を守護されるのは昭和39年(1964)月 建立の狛犬さん一対。製作者『豊田重市』。台座に刻まれた奉納文には「 旧狛犬者備前焼也今改石刻謹奉献爲昭和三十九年九月吉日(旧の狛犬は備前焼であったが今回奉納するにあたって石刻に改めた)」

拝殿から回ると本殿を直接見る事が出来るようになっており、私たちも謹んで本殿参拝をさせて頂きました。

お目当ては、こちらの備前焼の宮獅子さん一対。拝殿前に奉納された狛犬さんは、こちらの宮獅子さんがモデルとのこと。台座には天保10年と刻まれていますが、製作者の『木村貫一友敬・早川五平』の両氏は、大正末期以降に活躍した人物。という事で建立年は不明です。 

膝に片手を置いたポーズは、先の稲富宮の宮獅子さんと同じ。こうして後姿を並べてみると、製作者お二人の個性が随所に表現されており、見ていて楽しい一対。なんだか楽しい相談事ごとでもしているみたい😄 

本殿屋根の妻側にちょっと不思議なものを発見。画像が小さいのと遠いのとで確かな事は言えないのですが、焼き物で作られた力神と思われる像が二体見えます。調べたのですが詳細は不明・・。もっとアップにすればよかった・・

最期は帰り際に見かけた「吟道碑」

参拝日:2010年5月5日

コメント (2)
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稲富(いなとみ)稲荷神社 in 岡山県笠岡市笠岡

2022年02月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

笠岡市笠岡、古城山の中腹に鎮座される「稲富(いなとみ)稲荷神社」。御祭神は『宇迦御魂(うかのみたま)神』

由緒「本神社の創建は弘治元年正月、村上隆重が古城山に築城し、城内の鎮守として勧請した。元禄十三年の御検地水帳に古城山稲荷社地の一畝六歩と山林一町一反八畝十五歩が除地となっている。宝暦六年から文化十三年にわたり、社殿工作物の寄進が全国に及んでいる。当神社は領主、代官はもとより、地方人一般の信仰が厚く、社運が隆盛であった。」岡山神社庁HPより

山陽本線の線路と、県道60号線の高架に挟まれた鳥居を潜った先に規模の大きな神橋があり、本殿へと至る石段参道が見えています。

参道石段前左右より神域を守護されるのは、天保9年(1838)建立の備前宮獅子一対。阿形製作者『森五兵衛正統』。備前市に鎮座される「宇佐八幡宮」に奉納された巨大な備前宮獅子の作者として知られる名工です。

吽形製作者『長谷川茂助正吉』。阿形・吽形ともに片足を膝においた姿勢をとっており、この姿は県内でもごく数例しか例のない珍しい姿勢。

顔立ちと言い、その姿と言い、まるで剛毅の武士の風情。こうして上から見ると、退く事のできない戦場の駆け引きに臨む武将のようで、何か別の世界に引き込まれそうな錯覚を覚えます。

と・・そんな緊迫した空気を突き破るように、電車が通過😅。

稲富宮が鎮座される境内までの石段は153段・・・ここから先は私の足では無理と御亭主殿からストップがかかり、単独参拝となりました。


長い石段。突き当りに見える明かりまでの距離が、とてつもなく長く感じたとはご亭主殿の感想。二の鳥居、三の鳥居、〆柱を超えた先が境内。

長い石段を登ってきた参拝者を出迎えてくれるのは「御先狐」

「寄進 干鰯仲買中石壇」亀趺(きふ)、と・・私たちは思っていたのですが、同じ笠岡市内にある某神社にこれと全く同じ台座が有り、それには「虬(みづち)像」とあります。

「虬(みづち)」、「み=水」・「つ=の」・「ち=霊物」の意で、水中にすみ、蛇に似て、角や四足をそなえ、毒気を吐いて人を害すると云い、古代より人々から恐れられていたとか。さてこれがなのかなのか・・・・読者様の判断に委ねます。

「稲富宮」の名称はまさに字の通り「富が溢れ豊饒を祈る」信者の願望を表しています。笠岡市指定重要文化財でもある社殿に施された精緻で鮮やかな彫刻の数々。近郷には例がないと言われる鮮やかさも、求める富の象徴に思えます。

うっすらとした明りの本殿、扉の左右より稲荷のお使いである白狐神が神域を守護されています。

屋根の上に鎮座する御先狐は、なんとも愛嬌のある顔立ちで神域を静かに見守っています。長く伸びた尾の先の宝珠が微妙にツボ😄

「境内社:稲荷宮」「境内別社:花津女稲荷・五社稲荷・高倉稲荷」

稲荷宮の神狐

さて、ご亭主殿が参拝の間、私と義姉はこの手水舎の付近から離れずに待機。ちなみに手水舎の側面、懸魚から下には非常に綺麗に彩色された立派な彫刻が施されています。

玉垣も、奉納された二基の手水鉢にもそれぞれに寄進者の名前が刻まれており、往時の隆盛を垣間見る事が出来ます。

手水舎に向かい合うように奉納されていた「恵比寿社」。稲富宮と関連があるのか無関係なのか? 祠の内には、巨大な鯛を肩に担いで満面の笑みを浮かべる恵比寿様。絶対に御利益ありそう😆

参拝日:2010年5月5日

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徳民於賀(とみおか)神社 in 岡山県笠岡市富岡

2022年02月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

笠岡市富岡に鎮座される「徳民於賀(とみおか)神社」。通称「七面神社」とも称されます。

由緒「延宝二年の創建。富岡干拓地の鎮守として福山藩家老上田玄蕃が、七面大明神を勧請したといわれる。富岡新田ができてから、富岡村の誕生は、天和二年と記録されている。明治初年の神仏分離に際し神社書上帳に始めて徳民於賀神社の名が見える。しかし地元の人は七面大明神 或は七面様と呼称している。」岡山神社庁HPより

『七面大明神』とは法華経を守護する神で、『吉祥天』とも『弁財天』とも称されます。それとこの神社との関りが今一つ不明ですが・・・。それはさて置き、この物凄く急な参道石段・・どうしたものか

車を置いていくわけにもいかないし・・と、参拝を諦めかけていたのですが、どうやら別の参道が有り、そちらには駐車スペースがあるとの事、急遽そっちに向かいます。

先の参道鳥居には「徳民於賀神社」の鳥居額。こちらの石鳥居には「七面大明神」。鳥居の先に見える拝殿前の鳥居額には「徳民於賀神社」と刻まれています。

境内の入り口近くより神域を守護されるのは、文化7年(1810)建立の花崗岩製の狛犬さん一対。花崗岩は非常に硬く、ゆえにとがった角も耳も欠けることなく、楽しげな表情も往時のまま。阿形さんの豪快な笑い顔に応える吽形さん。なんと、まったりと笑っておられる事か。

屋根の上では生きの良い鯛が逆巻く波間から顔を出し・・

地上では、世代交代をした獅子が、何とも凄みを効かせて何者かを威嚇しています。獅子の後方に見えるのは・・福の神のようですが・・さてどうでしょう?

摂社。社名・御祭神共に不明

「地神」文字塔

「今から350年ほど前まで、富岡のあたりは遠浅の海であった。そこで、藩の財政を強化するため、海を埋め立てて田を造ることになった。しかし、工事は難航し、堤防は何度も壊れ、遂に人柱を立てることになった。誰にするか相談しているところに、神島天神へ参詣する父娘が通りかかった。村人はその娘に人柱になってくれるよう必死に頼んだ。娘の名はお七と言った。お七が人柱になってから、工事は見る見るうちに捗かどり、壊れていた堤防は波を寄せ付けなくなった。村人達はお七の霊を七面様として、干拓地の見える丘に祀った。」岡山の伝説より

どうやら法華経の「七面大明神」ではなく、お七さんの尊称としての「七面大明神」だったようです。それにしても・・実際にその場面を想像したら、物凄く得手勝手で非道な行為。一緒にいた父親は黙ってそれを許したのでしょうか?・・・それとも・・・・??伝説とは、いつでも時々に都合よく書き換えられていくものです。

参拝日:2010年5月5日

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道通(どうつう)神社~其の二 in 岡山県笠岡市横島

2022年02月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

昨日に続いての道通神社、本殿の右手に鎮座される摂社群の紹介から。

 摂社全体の神域を守護されるのは昭和53年(1978)建立の狛犬さん一対。
阿形さんは玉を、吽形さんは仔狛の上に前足を重ねています。

神輿殿

「摂社:遷之宮」

祠の左右より神域を守護されるのは、何とも不思議な質感の小さな狛犬さん一対。石なのか陶器なのか・・触ってみたい衝動を抑えるのに苦労しました😅

向かって右手に鎮座される「天満宮」御祭神は『菅原道真公』。左手、赤い屋根の社には「蛇神様・伊弉諾宮・摩利支天宮・十二神社・足王神社」が祀られます。

向かって左から「摂社:荒神社」「摂社:金刀比羅神社」

瀬戸内海に面した小さな漁村で生まれた私ですが、いわゆる蛇の憑き物「トウビョウ」なるものの存在、ここで初めて知りました。

『道通様』は、「トウビョウ」の祟りを鎮めるために祀られたものだそうで・・「神使いの山」には、信者から奉納された道通様の小さな家が並び、ヘビの好物として卵などが供えられています。蛇の憑物を鎮める蛇の神様・・それって毒を以て毒を制する的な??あ、決して道通様を毒と言ってるわけでは!!!

 瓦財の小さな祠が並ぶ情景を、漫画家の水木しげる氏は「蛇の家」として紹介しています。一度、挿絵を見たことがありますが、まさしくこんな情景でした。

「一体双頭の道通様」

実は私・・・正直なところ、蛇は大の苦手なのです。ですが・・・・・・・神様だし・・・とは言えやっぱり蛇は怖い。なので、この先本物の蛇に出会いませんようにお願いする事に🙏

道通様の小さな家の並びに、一対の不思議な石が奉納されています。これが全くの自然の造形であるならば、それはどんな凄い芸術家も敵わない、まさしく神秘の神業。

「摂社:稲荷社」

「摂社:八幡宮」

絵馬

「御神馬」道通神社の御神紋付き腹掛けが結ばれています。

手水舎の吐水龍・・・道通様よりも迫力あるなんて言ったら、叱られそうですね。 

参拝日:2010年5月5日

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道通(どうつう)神社~其の一 in 岡山県笠岡市横島

2022年02月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

岡山県笠岡市横島に鎮座される「道通(どうつう)神社」。御祭神は『猿田彦命・応神天皇』。標柱には「神威耀八絋(神の力は天下に輝き)」「皇化漲四海(その徳は四海に行渡る)」

『猿田彦命』は天孫降臨の際、天の八衢(やちまた)より天孫を導いた「道開きの神」。商売繁盛・出世海運・交通安全の神として多くの人々の信仰を集めています。

由緒「起源は永禄年間に御神霊を笠岡道通谷に祀り、近郷住民の崇敬社として栄たるも世は戦国時代となり、国中が戦乱の巷と化し住民は生業に従事するを能わず塗炭の苦しみにあい、誰も神事を行う者もなく、神祠も極度に荒廃し形骸を留められぬ程であった。その上この近郷一帯に悪病が蔓延し、災害が続き、穀物も実らず住民は苦しみ疲れ切っていた。その頃人々に「これは道通様の祟りだ」という噂が広まり、信仰する人々が集って相談し、当時信仰の島であった横島の地に御神体を奉じ社殿を造り祭事を行い崇敬した。その後は災害悪疫も後を絶ち、総ての苦境から脱することができた。 これは道通様の御加護に依るものと崇敬敬慕する人達により元和年間に拝殿を造営し、天和年間に本殿を修復。明治42年本殿を改築。昭和5年拝殿及び社務所を大改築し、今日に至る。」岡山神社庁HPより

一の〆鳥居より神域を守護されるのは、文政11年(1823)建立の扁平頭の狛犬さん一対。体に巻かれた注連縄を見せつけるように自慢げにポーズをとっています。

 南参道鳥居の内より神域を守護されるのは、昭和14年(1939)建立の狛犬さん一対。クシャっと押さえつけられたような平ったい顔ですが、口元から覗く牙は中々鋭く、迂闊に手を出すのは躊躇われます。

東参道一の〆鳥居前より神域を守護されるのは、嘉永3年(1850)建立の玉乗り狛犬さん一対。広島型とは全く違ったタイプの玉乗りさん。こういう素敵な狛犬さんに会えるから、神社参拝は楽しい😄 

「三面大黒」 さわれば誰でも福の神になれるそうです。

東参道二の〆鳥居、その奥に拝殿。

拝殿の貫彫刻は玉眼を持つ獅子と像。

拝殿前の左右には、刀を持つ『猿田彦命』と、槍を握る『猿田彦命』が立たれています。「これは天狗じゃが」と又甥(またおい)が言うので、この姿が『猿田彦命』なんだと教えておきました😄 神社の祭礼などで高下駄を履いて歩く赤い天狗面の神様・・『猿田彦命』のお姿です。

拝殿前より神域を守護されるのは、昭和7年(1932)建立の狛犬さん一対。何か良い事があったのを思い出しているのか、つい顔が緩んでしまう吽形さん。一体どんな良いことがあったのでしょう?阿形さん、その辺りの事情をご存知ですか?

神社なのですが香炉台の下には、お坊様らしき人物が座っています。果たしてこの人物の正体は??と騒いでいたら、ご亭主殿が近寄ってきてあっさり一言「布袋さんだよ」

広い境内にはまだまだ沢山の摂社が鎮座されており、そして社殿の真後ろには、この神社の由来でもある「道通様」が祀られています。

続きは明日の道通神社~其の二で。

参拝日:2010年5月5日

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玉野市内あちこちウォッチ in 岡山県玉野市

2022年02月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

岡山県下最大の海水浴場として知られる「渋川海水浴場」。白砂青松の海岸線は約1kmの長さを誇り、「日本の渚百選」「快水浴場百選」にも選ばれています。

また一年を通じてヨット、ウィンドサーフィンなどのマリンスポーツが楽しめる場所としても有名。

渋川海岸の近くには、全長約900メートルで、日本有数の長さを誇る藤棚。(私達が訪問した2008年には「藤棚の長さ日本一」の柱が立っていました)あでやかな藤棚に囲まれた渋川公園はおりしも渋川藤まつりの真っ最中。

この日は祭りにあわせてのフリーマーケット開催や、郷土の有志に寄る和太鼓の演奏もあり、思いがけず楽しい一時を過ごす事ができました。

他県出身の御亭主殿には縁のない話ですが、私たちの世代は、渋川と言うと何時だって「渋川青年の家」での合宿研修を思い出します。初めてのカッター経験、地引網・・他校の生徒たちとのフォークダンス等々・・モノクロ写真の中に残された幾つもの思い出が、懐かしく蘇って来ます。

たまたま目に付いたからと写しておいた狛犬さん一対。後で調べて「渋川八幡宮」の神獣さんだと知りました。万延元年(1860)9月建立で、高く尾を上げた姿はとても珍しく、画像がこれだけと言うのが何とも😓。

また海洋博物館の近くには『西行法師』像が建立されており、海岸に沿った遊歩道の脇には西行が詠んだ歌碑も有ります。

【おり立ちて 浦田に拾ふ海人(あま)の子は つみよりつみを 習ふなりけり】

渋川海岸を後にして帰路に向かう途中、山の上に聳え立つような煙突が見えてきました。後で調べた所によると、大正8年(1919)に建設された宇野第二発電所で利用されていた火力発電用の煙突だとのこと。

「お化け煙突」の名で親しまれてきた高さ66.5メートルの煙突・・どこかで見た覚えが・・ああ、「カンゾー先生」と言う映画の中で見たんだ!!もう一度じっくり見に行きたいと思っていましたが、2015年6月に解体されました。

訪問日:2008年5月4日

それから八年後の夏、玉野市築港に面白いオブジェがあると言うことでマンホール収集の後に立ち寄ってみました。「宇野のチヌ(淀川テクニック作)」と名づけられた作品・・様々な廃棄物の寄せ集めで作られた巨大な魚。説明には「宇野港周辺の沿岸や主に児島湖で集められた漂流物で制作されたオブジェで、第1回の「瀬戸内国際芸術祭2010」で生まれたもの。」とありました。

展示マンホールの為に立ち寄った児島浄化センターの帰り、元川に架かる「櫻屋幸吉橋」に目が止まりました。親柱には鳥の羽を背中につけて空を飛ぶ「鳥人幸吉」のレリーフ。帰宅後に調べたところ、人力による飛行を日本で初めて試みたといわれる「幸吉」の事と判明。備前国児島郡八浜(現:玉野市八浜町)で旅館を営ん でいた櫻屋清兵衛の次男として生まれた「幸吉」。空に憧れた彼の物語は、映画「鳥人」や「幸吉空を飛ぶ」と題した短編漫画にもなったそうです。

玉野市のアレコレ、最後は宇野港から船で30分ほどの沖合に浮かぶ無人島。 シルエットがクジラに見えることから、古くから地域の人たちにくじら島の愛称で親しまれてきたとか、言われてみれば確かに「くじら」😄。

訪問日:2016年8月17日

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柵原ふれあい鉱山公園 in 岡山県美咲町柵原

2022年02月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

岡山県で生まれ育った私にとって「柵原」とは「柵原鉱山」の事で、他に何かがあるなんて思った事も無かったのですが、考えてみればそんな筈無いんですよね😓 ちゃんと柵原町という自治体があって、そこに鉱山があるから「柵原鉱山」と呼ばれている訳で・・・あ・・でも確か、柵原鉱山があったから「柵原町」になったんだっけ。まぁ、どっちが先でも良いか😅

さて、夏の帰省で岡山の兄宅で寛いでいる私たち、義姉も勤め先のお店がお休みなので兄夫婦と姪と姪の子供、それに私たち二人の六人で、美咲町吉ケ原にある「柵原ふれあい鉱山公園」にやって来ました。1991年に廃止となった同和鉱業片上(かたかみ)鉄道の「旧吉ヶ原駅」が再利用されており、まずは赤いとんがり屋根の瀟洒な外観に胸キュン💗

大正12年(1923)1月、柵原鉱山で産出される硫化鉄鉱を吉井川の川舟(高瀬舟)に代わって片上港まで輸送する目的で建設され、片上~ 和気間が開業。次いで8月に和気 ~ 備前矢田 - 井ノ口間が開業。1931年2月に井ノ口 ~柵原間が開業した事で全線が開通。そうして60年間、町の玄関口として活躍してきた「旧吉ヶ原駅」。

片上鉄道は、かつて岡山県備前市の片上駅から久米郡柵原町の柵原駅までを結んでいた同和鉱業の鉄道路線で、1991年6月30日まで列車の運行がなされていました。帰省の度に通過してきた備前片上・・・機会が無くて一度も利用した事が無かった事を・・、今、この駅舎を見てとっても後悔😅

あ、そう言えば、旧吉ヶ原駅の駅長は2005年以来『コトラ』が務めております。会いたかったけれど、多分土日とかイベントの時以外は無理なんだろうな。その後、2012年5月まで駅長を勤めていたそうですが、2017年11月に死去。コトラ亡きあとは、『ホトフ』が二代目駅長猫としてお仕事に励んでいるとか。やっぱり『コトラ』に会いたかったな・・。

猫の駅長と言えば和歌山県の「タマ駅長」が有名ですが、実はこの『コトラ』が駅長猫の発祥なんですよ。

ともあれ、駅舎は自由に見学可能だし、当時のディーゼル機関車や気動車、貨車なども動態保存されており、節度をわきまえて自由に触れる事が出来るのですから、こんなに素敵な経験はそうそう出来るものではありません😄

私たちと兄の一家以外には誰もいない広い公園の中で、男性陣は大人も子供もおおはしゃぎ。大人は子供のように、子供は素直に好奇心を露にして、巨大な車体に直に触れて好奇心を満足させています。

もちろん、女性陣だって好奇心は一杯。普段なら決して見る事の出来ないもの、立ち入る事の出来ない場所で気ままにポーズをとり、気分はもうすっかり観光客😄

パンフレットには、本線で使用された車両12両と坑内軌道用車両3両が保存されており、うち10両が動態保存されているとか。しかも毎月第1日曜日には、動態保存されている車両の一部を使用した展示乗車会も行われているとの事。電車好きにはたまらない聖地😄 あ、その日だったら『コトラ』に会えたのかも。

公園内にはすでに現役を退いて久しいと思われる作業車も展示されています。巨大な角のようにも見える煙突を持つこの作業車にも多分名前があるのでしょうが・・

かっては綺麗な白の車体だったと思われる作業車。屋根の上にはパンタグラフが残されており、電気機関車だった事が察せられます。

「磁鉄鉱」の現物見本。鉱石図鑑によれば、重要な鉄の鉱石だそうで、かつて「たたら製鉄」の原料として盛んに利用されたそうです。

とっても不思議な立て看板を見つけました「危険 線路にかんぴょうを干さないで下さい  片上鉄道」・・・え~~~~~っと、つまり線路にかんぴょうを干す人がいるんですよね😱

その昔、柵原鉱山で産出される硫化鉄鉱を満載して運んだ高瀬舟。公園内に展示されている高瀬舟はもちろん復元されたものですが、これに鉄鉱石を積み込んで吉井川を下った時代も確実にあったのです。

小さい男の子は総じて、乗れるものなら何でも乗りたいようで、 どうやってその位置までよじ登ったんだろう??😅

公園内のメイン施設は、地上2階地下1階建の資料館。館内では昭和期の鉱山町の住宅や商店の町並みなどが実物大で展示されており、鉱山の歴史資料なども含めて往時の歴史をじっくりと学ぶことができます。

芝生の外れに見えるのは、かって鉱山で活躍した「竪坑(たてこう)櫓」。竪坑とは鉱員の昇降や、採掘された石炭の荷揚げ等の為に地上から掘られた垂直の穴の事。むろん、復元されたものなので、実際の物より高さも半分程度に圧縮し、ヘットシープの位置もずらしていると説明に記されていました。

展示車両に季節の花々、親しい人たちと一緒のお弁当タイム、楽しい時間は本当に特急列車並みの早さで過ぎていきます。旅の名残を惜しむべく、もう一度吉ヶ原駅のホームに立っていると・・

来るはずのない電車が入ってくる気配が感じられて、ただの思い込みが見せる一時の夢に、何故か懐かしい時代を思い出してしまうのです。

訪問日:2011年8月17日

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興譲館(こうじょうかん)校門と旧講堂 in 岡山県井原市

2022年02月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

井原市西江原町、井原市に行く機会があれば絶対に訪ねたいと思っていた岡山県指定史蹟「興譲館高等学校」。全国高校駅伝の強豪校として知られる興譲館高等学校は、嘉永6年(1853)に一橋家の有志により郷校「興譲館」として設立されました。初代館長を務めた漢学者の『阪谷朗廬(さかたにろうろ)』は、当時一橋家に仕官していた『渋沢栄一』とは親交が深く、開校当時から残る興譲館の校門には、栄一が揮毫した「興譲館」の扁額が掲げられています。

この校門は現在岡山県指定の史跡として保存されており、間近に渋沢栄一の書を楽しむことができます。また校門の右手にあるのは、阪谷朗廬お手植えと言われる「紅梅」で同じく岡山県史跡の指定です。

学校の建物なのでそれ以上中に踏み込むことは躊躇われて、記念に片足だけ踏み入れて良しとしましたが、こうやって見ると思いっきり不審人物😅

歴史の重さを感じさせる校門の向こうには、ウグイス色と白のコントラストが美しい木造の旧講堂が見えます。

下見板張りの建物は、今どきの鉄筋コンクリートの校舎と違って何とも言えない温かみを感じさせてくれます。本当はもっと細部まで見学したかったのですが・・上記の理由で自粛😅

部分的な画像だけになりましたが、それでも矢掛からここまで足を延ばした甲斐がありました。

訪問日:2009年9月20日

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