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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

東山温泉 in 福島県会津若松市東山湯本

2024年10月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

歴史を語る寺社仏閣、史跡・町並み等々・・・見所一杯の会津若松市、私たちは二日間にわたって市内の名所旧跡を訪ねました。さて、どこから紹介を?と思案した結果、まずは東北三楽郷の一つとして、山形の「かみのやま温泉」「湯野浜温泉」と共に古くから親しまれている「東山温泉」

冒頭の画像だけ見ると、どんなに山深い場所にあるのかと思われそうですが、これがまた、すこぶる近くて便利な場所に在るのです。見所の多い会津若松市内を効率よく回れるようにと言う事で、今回は「まちなか周遊バス ハイカラさん」を利用。

流石にお着物は着ていらっしゃいませんが😅、本当に、こんな感じの素敵な運転手さんでした。

公式HPによれば、「全国約2700ヶ所の温泉地で、東山温泉ほど中心市街地から近く、しかも山間の風情を漂わせているところはありません。会津若松市の中心から車で約10分の東山温泉は約1300年前に僧・行基が発見したという歴史のある温泉。新選組の土方歳三や伊藤博文、与謝野晶子などの著名人や文人に愛された温泉でもあります。」

と言う事で、各駅停車21分のバスの旅を無事終えて、東山温泉に到着。(実は私、乗り物酔いが酷くて、自分の車以外は苦手💦)

バスターミナルからほんの数分歩けば、そこはもう、せせらぎと緑深い山間の長閑な温泉街。

風情ある佇まいの建物は「源泉と望瀧の宿・原瀧」。そう、この景色!。観光案内のページで見た時から、ずっと憧れていたのです😀

看板の横に見える窓の、何ともいえないゆかしい風情・・月並みな言葉しか出てきませんが、何もかも、本当に素敵。

ねぇ、いつか本当にお泊りで温泉を楽しんで、この場所に立って二人一緒の記念写真を撮りたいね。

とは言えお泊りが出来ない温泉街の散策では、とりあえずのお楽しみは、手軽に温泉気分が味わえる「足湯」。目の前に流れる湯川を見ながら、のんびりと足湯を楽しむ・・う~~ん、なんて素敵な贅沢。

ところで・・足場が組まれて今ひとつ詳細ではありませんが、目の前の建物の壁絵・・あれって『土方歳三』さんですよね。何で土方さんが壁画に??

と思ったら、近くに「東山温泉発祥の源泉『土方歳三』戦傷湯治の岩風呂」看板。

ここ東山温泉は、土方さん以外にも『竹久夢二』『与謝野鉄幹・晶子夫妻』なども訪れており、特に夢二は、明治・大正・昭和の三度に渡って東山温泉に逗留しています。

【会津磐梯山は~宝の山よ~♪】でお馴染みの『小原庄助さん』。名字帯刀を許された郷頭で、立派な髭をたくわえた豪傑、そして大のお酒好き、温泉好き。その庄助さんもここ東山温泉の湯を楽しんだと云い伝えられています。

温泉と言えばお馴染みの「行基と三本足の八咫烏」。伝道の旅の途次、八咫烏に導かれた行基は、野猿が源泉で湯浴びをしているのを見つけた・・野猿はときに白鷺であったり鹿であったりと様々ですが、各地に同じような伝説が語り継がれています。

「詠観橋」を渡り、改めて振り返る「原瀧」の美しい佇まいに見送られ、私たちは名残惜しさを一杯に東山温泉を後に。ここからは徒歩で、途次途次の旧跡を訪ねて市内を目指します。

「伏見観音」「昭和26年に藤身ヶ滝(伏見ヶ滝)の悲恋の伝説のような悲しい事件が二度と行こらないようにと安産を祈願して建てられた観音様。右手に徳利、左手に盃を持っているところは、何とも酒処・会津らしい観音様です」現地案内より

「石場松植碑」

温泉街らしい「包丁塚」

訪問日:2015年6月29日

 


会津鶴ヶ城址~ in 福島県会津若松市

2024年10月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

昨日に続いての「会津鶴ヶ城址」。目一杯後ろに下がって全体を写してみましたが、石垣の上に聳えていない(ように見える)天守閣って、陸に上がったカッパみたい。 6月の青空・・と言うには雲が多すぎますが、この白さなら、間違っても雨になる事は無い筈。

行ったり来たり、お城の周りをこれだけウロウロしていれば、言わずとも「観光客」とわかるようで😅 武者姿の方からお声をかけて頂き、教えて頂いたポーズで記念写真📷 幾つになってもこういうのって単純に嬉しいものです。

広大な鶴ヶ城城址、せっせと歩いているつもりですが、振り返ってみれば、あれもこれもと見逃した場所が出てきます。まぁ、前もってリストがあったわけではないので、これはもう想定内と言う事で。昨日に続いての碑巡り諸々は、会津の民踊を全国的に普及させることに尽力した先駆者。山ノ内磐水翁 顕彰碑」。生誕120年を記念しての建立です。

「会津磐梯宝の山で 笹に黄金がなり下がる」、耳になじむこのフレーズ??と思ったのも道理。「玄如節」は、民踊「会津磐梯山」の原点となった歌。

当時の市長『横山武氏』の口癖であった「会津人の魂は天守閣だ」「会津が生き残るには観光しかない」。戊辰戦争の後に取り壊され、石垣や堀が史跡として残された城址。そこに天守閣を!その再建は決して容易な事ではありませんでした。賛成、反対・・種々の思惑と人々の想いを受けて、昭和40年(1965)9月17日、鶴ヶ城の天守閣は再建されました。横山武氏の胸像と共に、その経緯が碑に刻まれています。

外観復元された鶴ヶ城天守を背景に。

「伝·上杉謙信公仮廟所跡地」近くに鎮座される「笠間稲荷神社」。御祭神は赤い幟旗に書かれた『正一位笠間稲荷大明神』。

明治時代に笠間市の笠間稲荷神社から御霊を勧請したとあります。城址に二つの稲荷社が鎮座されるのは珍しい気もしますが、どうなんでしょう?

拝殿前の左右には、編み笠とほっかむりで仔狐さんを前足に縋らせる神狐さん。巻物を口に、宝珠に手を置く神狐さんの一対。仔狐さんは、頭からすっぽり赤い布にくるまれて「おくるみ」状態😅

さらに編み笠とほっかむりで米俵に手を置く神狐さん。仔狛を手元で遊ばせる神狐さんの一対。それにしても写真がこれだけという理由が今もって不明。・・よほど急く理由がこの時あったのでしょうか??

「旧会津中学校跡 (私立日新館)」、戊辰の役にて藩校:日新館も消滅。明治12年に初めて開校した福島県二番中学校は翌年に廃止され、明治17年に地方税支弁によって設立された若松中学校も明治19年の「一県一校の定め」により再度廃校。明治23年(1890)、会津復興には教育が不可欠であると、旧藩士たちが困窮にあえぎながらも浄財を出し合い、私立会津中学を開校しました。

復元天守も素敵ですが、やっぱりお濠に影を落とす城址が好みかな😊

「桜ヶ馬場跡」。「一カ月に及んだ籠城戦ののち鶴ヶ城は開城。慶応四年(1868)九月二十二日と二十三日、ここ桜ヶ馬場で人員調べがあり、男子は猪苗代送りとなりました。この時、山本八重は男装し、弟の山本三郎と称して人員検査を通過したのでした。八重の弟の三郎は、鳥羽伏見の戦いで銃撃を受け亡くなっていました。」現地案内より

まちなか周遊バスのバス停に向かう途中に飛び込んできた煉瓦造りの建物は、「會津葵シルクロード文明館」。地元産の慶山石、磐梯石、湊町赤井にあった民家の太い梁や古材、そして耐火レンガ3万個などを再生再利用し1992年4月にオープン。

城址からさほど遠くない会津若松市東栄町にある「会津酒造歴史館」。どれも後ろ髪引かれますが・・時間が足りません。

「会津鶴ヶ城址」散策を終え、次なる目的地「東山温泉」に向かいます。

訪問日:2015年6月29日


会津鶴ヶ城址~碑巡り in 福島県会津若松市

2024年10月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

会津若松市追手町、会津若松市のシンボル的存在として観光案内などの冊子には必ずと言ってよいほど登場する「鶴ヶ城」、別名「会津若松城」。内部は「若松城天守閣郷土博物館」として公開されています。

戊辰戦争の舞台となり一か月に及ぶ籠城にも持ちこたえた鶴ヶ城は、明治2年に会津藩に代わって発足した若松県の県庁となり、城の管理も県に委任されました。明治6年の廃城令により鶴ヶ城は存城処分となりましたが、若松県権令『沢簡徳』の取り壊し建言を受け、明治7年(1874)に天守をはじめとする建造物はすべて解体、石垣と堀だけが残されました。

城址の堀越しに見る「廊下橋」

城址へと至る真っ直ぐの道。

廊下橋の壁面に築かれている石垣は会津若松城で一番高い高石垣で、高さは20mもあり、上に行くに従って急こう配になっています。打ち込みハギの高石垣は加藤氏の時代に造られたものですが、長い年月を経てもその堅牢さは健在です。

「鶴ヶ城公園功労者 旧会津藩士:遠藤 敬止」碑。白虎隊士:遠藤 嘉竜二の兄。城跡を一括して保存するため、私財2,500円で払い下げを受け、旧藩主松平家に寄付しました。昭和2年(1972)に松平家から若松市へ譲り渡された鶴ヶ城跡は、城下町会津若松市のシンボルとして、市民を初め会津の人々の誇りとなっています。

「松平保定公御手植えの松」「松平勇雄:元福島県知事手植えの松」

城址に残された数々の碑・像、実際にはもっとあったのかもしれませんが、ここでは私たちが実際に見てきた碑を紹介します。まずは「司馬遼太郎文学碑」から・・・「容保が、京を戦場に死のう、といったとき、慟哭の声がまず廊下からあがった。この声はまたたくまに満堂に伝播し、みな面を蔽って泣いた。「君臣、相擁し、声を放って哭(な)けり」と、この情景を、劇的な表現で会津藩の古記録 は語っている-「王城の護衛者」より」。また裏面には、司馬遼太郎が会津に思いを寄せ、賊軍とされた「会津」の立場を後世の人々に改めて問い直した事の形跡を後世に残す為、文学碑を建てたという趣意が記されています。

仙台出身の詩人「土井晩翠先生」像。

【♪春高楼の~花の宴~・・~昔の光~今いずこ】。会津若松の鶴ヶ城をイメージして作詞したという「荒城の月」。存城処分となった鶴ヶ城はその後取り壊され城址のみが残されました。彼の詩は石垣のみとなった鶴ヶ城に捧げる鎮魂歌にも思えてきます。

「会津嶺(ね)に 葵のきずな重ねつゝ 万葉の庭に 花ほころびぬ」詠み人知らず

「山本八重・像」戊辰戦争に敗北し、鶴ヶ城を開城することになった真夜中の12時ごろ、八重は三の丸雑物庫の白壁に、月明りを頼りにかんざしで心情を刻みます。



【 明日の夜は  何国の誰か ながむらん  なれし御城に 残す月かげ 】

万葉歌碑【 会津嶺の  国をさ遠み 逢はなはば  偲ひにせもと 紐結ばさね 】「秩父宮妃勢津子殿下御筆」

万葉歌碑の左右に「松平保定公御手植えの松」「松平勇雄:元福島県知事手植えの松」

「秋月悌次郎詩碑」-行くに輿無く 帰るに家無し 國破れて 孤城雀鴉乱る・・・会津藩が降伏した後、秋月は僧侶に変装し、旧知の長州藩士奥平謙輔に藩の寛容な処分を訴えます。その帰途、束松峠に立ち、憂う気持ちを「北越潜行」の七言絶句に残しました。

参拝日:2015年6月29日

 


鶴ヶ城稲荷神社 in 福島県会津若松市追手町

2024年10月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

会津若松市追手町に鎮座される「鶴ヶ城稲荷神社」。御祭神は『宇迦魂命(うかのみたまのみこと)』

「至徳元年(1384)、蘆名直盛公が東黒川館の築城時に勧請。寛文6年(1666)年、保科正之公が三の丸から本丸に移築。明治に入り、鶴ヶ城が取り壊されたため、城内にあった稲荷神社の御神体を合祀安置し、鶴ヶ城稲荷神社と改称。その後、遠藤啓士が鶴ヶ城跡地を買い取り消滅が免れたため、鶴ヶ城の帯郭に再建されたが、御神体 (狐を乗せた神) は残っている。」

「築城の縄張りに苦心した芦名直盛が勧請先の田中稲荷神社に祈願したところ、霊夢を見て目覚めてみると降り積もった雪の中に狐の足跡があったことから、それをしるべとして築城の縄張りを決めたと伝えられている。」

重厚な石造りの明神鳥居をくぐると「編み笠とほっかむり」をした姿が特徴的な神狐さん一対。仔狛さんはお揃いのほっかむり。巻物を咥えた神狐さんは三宝に乗せられた宝珠に手を置いています。 背中に掛けられた手編みの肩掛けも良い感じ。

福島県に入って、初めて目にした不思議なお姿に軽くカルチャーショックを与えられた二人。何と表現すればいいんでしょう??神域を守護されるだけに相当以上に怖いお顔なのですが、それと編み笠の赤い紐との対比は予想の斜め上。

よほどの寒がりなのかほっかむりだけでは足りず、背中にも赤い布を巻いてもらった仔狐さん。頭に添える手の爪の鋭さ・・にも拘らず、編み笠の下の怖い顔はどこまでも親の慈悲に満ちて見えるのです。

石段参道途中より神域を守護される、編み笠とほっかむりの神狐さん一対。仔狐に手を添える神狐さん。巻物を咥え米俵に手を置く神狐さん。この米俵も初見。稲穂を咥えた神狐さんはよく見かけますが、米俵とは規模が大きいですね😊。

仔狐さんはたっぷりと丈の有る赤い布を首に巻いて、今どき風。

拝殿ちかくより神域を守護される、編み笠とほっかむりの神狐さん一対。宝珠に手を置く神狐さん。鍵に手を添える神狐さん。

拝殿幕には会津葵の紋

拝殿の上より神域を守護される神狐さん、赤いほっかむりに赤い肩掛け。それぞれに米俵と宝珠に手を置いています。

奉納石灯籠一対

竿部分に刻まれた狛犬さん、さり気なく神域の守護をされているようです。

参拝日:2015年6月29日


ご当地マンホールとマンホールカード in 福島県会津若松市

2024年10月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

会津若松市(あいづわかまつし)は福島県西部一帯を占める会津地方の中心都市で、市街地は会津盆地の南東部に位置します。天栄村、湯川村、郡山市、喜多方市、磐梯町、会津坂下町、下郷町、会津美里町、猪苗代町に隣接。市域の北部、西部、中心部周辺は会津盆地の南東部にあたり、市街地、商業地などのほか、水田地帯が。また、市の南部から北部に阿賀川が流れており、市域東部、南部からは湯川、溷川(不動川)、古川が。市の東部は猪苗代湖に面し、市の南部には山地が広がります。

会津の地名は、古事記の一文にある「崇神天皇の時代、諸国平定の任務を終え、越後からやってきた『大毘古命(おおひこのみこと)』と、常陸からやってきた『建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)』が出会った場所を「相津」と呼んだ」が、由来と云われます。「市の木:赤松」「市の花:たちあおい」「市の鳥:カッコウ」を制定。

キャッチフレーズは「きりりいにしえ・今輝いて未来発信」

明治22年(1889)、町村制の施行により、北会津郡若松町・町北村・湊村・一箕村・高野村・神指村・門田村・大戸村・東山村、大沼郡本郷町が発足。

明治32年(1899)、県内初の市制施行により若松市が発足。

1937年、北会津郡町北村の一部を編入。

1951年、北会津郡町北村を編入

1955年、北会津郡湊村、一箕村、高野村、神指村、門田村、大戸村、東山村を編入、市名を「会津若松市」に変更。大沼郡本郷町小谷を編入。

2004年、北会津郡北会津村を編入。

2005年、河沼郡河東町を編入、現在に至っています。

マンホールには「磐梯山」と「猪苗代湖」、「市の木:赤松」がデザインされています。(鶴ヶ城公園内に設置)

舗道のタイルに併せて、全体がオレンジ色に塗られています(野口英世青春通り設置)

昭和57年から使われている公共桝マンホール。「市の花:たちあおい」がデザインされてます。

明日はコアなファン向け規格マンホールと、一部の人に人気😅の、ご当地キャラを合わせて紹介します。

撮影日:2015年6月29日

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マンホールカード、頂きました

2016年8月1日、第2弾として全国40自治体で44種類(累計64自治体74種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「会津若松市」のマンホールカードは、「会津若松市役所建設部下水道課」でいただけます。

1989年に設置開始されたマンホールには「磐梯山」と「猪苗代湖」、「市の木:赤松」がデザインされています。

「会津若松市の木「アカマツ」の間から磐梯山と猪苗代湖を望む デザイン蓋です。磐梯山と猪苗代湖は、古くから会津のシンボルとして親しまれてきました。磐梯山は会津嶺(あいづね)の異称で「会津嶺の国を さ遠み逢はなはば偲ひにせもと紐結ばさね」の歌が万葉集に収められています。猪苗代湖は天鏡湖とも呼ばれ、全国トップクラスの水質を誇り、 日本一になったこともあります。アカマツは会津の気候風土に合い、「若松」が「若い松」と読み替えられることから、市の木に選定されました。 カラー版のマンホール蓋は、鶴ヶ城公園内に8か所設置されているだけで大変希少です。」

 


郡山市内あちこちウォッチ in 福島県郡山市

2024年10月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

郡山市麓山に建つ「福島県郡山合同庁舎」。鉄筋コンクリート造2階建て、陸屋根、中央塔屋付の建物は、昭和5年(1930)に旧郡山市役所として建てられ、昭和43年(1968)まで市役所として、その後は合同庁舎として利用されてきました。

設計は『宮田荘七郎』。基本的に左右対称のシンメトリーな構成で、玄関ポーチを含め中心部分に凝った意匠を施し、塔屋があることで印象深い建物となっています。

現在では少なくなった当時の役所建築として非常に貴重な存在ですが、2026年3月には新たな「福島県郡山合同庁舎」が完成予定とか。この文化遺産としても貴重な建物がどのような形で残されるのか・・それにしても、臆せずにもっと内部を見学しておけばよかったなと、何時ものごとくの後悔😥

郡山市の主だった立ち寄り地はあらかた紹介を終えました。あとは例によって「なんでも面白い」と私のデジカメが捉えた町の景色から😊 最初は郡山市の市章がそのまま建物の顔になった「市立中央図書館・日和田分館」

郡山市日和田町小堰にある東北本線「日和田駅:跨線橋」何故と聞かれても明確に応えられないのですが「跨線橋」のある風景が好きなんです。

花かつみ橋から見る「東北本線の線路」。これで電車とか来たら最高なんだけど、「時刻表?何それ?」の二人じゃ、よほどもの好きな女神さんが微笑まない限りあり得ない😅

古今和歌集に【みちのくの あさかのぬまの花かつみ かつみる人に 恋ひやわたらん】と歌われた事で、陸奥国の安積の沼の名物となった「花かつみ」。元禄2年5月1日(1689年6月17日)、芭蕉と曾良は安積山を訪れて「~あさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども更知人なし。沼を尋、人にとひ、かつみかつみと尋ねありきて、日は山の端にかゝり~」と奥の細道に記しています。花かつみ橋レリーフ「奥の細道を旅する芭蕉と曾良と花かつみ」

訪問日:2015年6月25日

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一口メモ

明治9年6月、明治天皇の東北巡幸のさい、「菖蒲に似て いとちいさき花」なるヒメシャガを「花かつみ」として天覧。以後、「ヒメシャガ」が「花かつみ」とされ、昭和49年に郡山市の花に制定されました。


郡山市郡山公会堂 in 福島県郡山市麓山

2024年10月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

郡山市麓山に建つ塔屋が美しい「郡山市郡山公会堂」

鉄筋コンクリート造2階建、銅板葺の建物は、郡山市制施行を記念して市中心部に建てられました。

連続半円アーチの柱廊と、窓台受。上げ下げ連窓などを丁寧にデザインした躯体の隅に、縦長ガラス面で垂直性を強調した塔屋。建設当時には塔屋に時計が埋め込まれていましたが、次第に時刻が狂うようになり、第二次世界大戦中に市民からの苦情で取り外され、代りに市章が埋め込まれていたそうです😅

1998年頃の改修で塔屋に再び時計が埋め込まれ、2002年、国の登録有形文化財に登録。2005年には改修工事が完了し、建設当時の御影石の外壁、ルネサンス様式の天井、ステンドグラスをはめ込んだ窓などが復元されました。

設計者は『矢橋 賢吉(やばし けんきち)』。明治建築界三大巨匠の一人とされた大蔵省営繕の妻木頼黄の右腕で、国会議事堂・旧総理大臣官邸・枢密院庁舎 (皇宮警察本部) などを手掛けた人物。

と珍しく、詳しく紹介した理由は、彼の先祖が平安時代初期から前期にかけて実在した『嵯峨天皇』の第12皇子『源融(みなもとのとおる)』まで遡れる事。ちなみに『源融』って誰?と思う方もいるでしょうが、何と!あの源氏物語の主人公「光源氏」のモデルと云われている人物なのです。まぁ、光源氏と矢橋氏とは全く無縁ですが😅

公会堂の敷地内にあった『内海久三』氏の「郡山市民の歌 ボクの街 郡山」。市政30周年を記念し、一般公募により昭和29年に制定。
【恋とは楽しく 悲しいものと  龍山の松風  ささやいた  泣くのはおよしと  弁天池で  優しく微笑む  お月さん  ああ思い出の  夢が住んでる  ボクの街 郡山】

ネオ・ルネサンス様式を基調とするモダンな外観には、開拓の意気込みが壮麗に表現され、郡山の飛躍的発展の象徴ともなりました。2017年、「郡山市郡山公会堂」は、日本遺産「未来を拓いた『一本の水路』」の構成文化財として追加認定を受けました。

訪問日:2015年6月25日


安積(あさか)歴史博物館 in 福島県郡山市開成

2024年10月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

郡山市開成、福島県立安積高等学校の敷地内に美しい姿を見せる「安積(あさか)歴史博物館」

明治17年(1884)9月11日、安積開拓の地に開校した福島県唯一の中学校「福島中学校」。明治22年(1889)3月、安積開拓の桑野村に移転し「福島県尋常中学校」と校名を変更。移転に際しては県会議員の建議が県会で可決された事、また農民が学校用地を寄付するなど、桑野村の協力が大きく関わっていました。

明治34年(1901)、「福島県立安積中学校」と校名改称。昭和23年(1948)4月1日、新学制により「福島県立安積高等学校」と改称し、昭和48年(1973) 3月まで校舎として使用。同年に県文化財に、昭和52年(1977) 6月、国の重要文化財に指定。

翌・昭和53年7月、明治時代に建築された当初の姿に復元するため文化庁の指導により半解体修理工事が行われ、昭和55年9月に終了。昭和59(1984)年9月、創立百周年記念式典が挙行され、安積中学校本館は、「安積歴史博物館」として一般公開される事になりました。

また、創立百周年記念事業実行委員会は、記念事業の一つとして、安積歴史博物館の正面に明治・大正・昭和を代表する「安積健児の像」を建立。

像の制作は、本校四五期卒業生である『佐藤静司氏』。明治・大正・昭和を象徴する学生の姿は、まさに「安積健児」ここに在り。

それにしても・・・楽しみにしている割には休館日のチェックが甘い。とは言え、福島県のほぼ半域を、それなりの長い日程で巡る車泊旅。どこに行ってもこの「残念でした」は付きまとうのですが・・ああそれでも、館内の見学、したかったな・・😭

「安積(あさか)歴史博物館」は、日本遺産「未来を拓いた『一本の水路』」構成要素として、国重要文化財の指定を受けています。

訪問日:2015年6月26日


郡山市開成館~安積開拓 in 福島県郡山市開成

2024年10月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

郡山市開成、開成大神宮の近くにある「郡山市開成館」。園内には明治時代初期に建てられた建物4棟が公開されており、当時の生活様式や、安積開拓と安積疏水についての資料等を展示。またこれらの建物は「未来を拓いた「一本の水路」-大久保利通“最期の夢”と開拓者の軌跡」の構成の一つとして、経済産業省認定:近代化産業遺産に認定されています。

博物館の名称となった「開成館」は、明治7年(1874)に区会所として建設された疑洋風建築の建物。安積開拓の核である「福島県開拓掛」の事務所が置かれていた場所です。

明治9年(1876)、6月16日に郡山へ到着した明治天皇御一行は、郡山学校で休憩した後、桑野村を訪れ、「開成館」に一泊。「開成館」では、山吉盛典中條政恒が参向して開墾事業等について奏上。また、開墾功労者として開成社員や戸長などが召し出され、右大臣:岩倉具視より褒詞を受けています。

開成館3階には当時の行在所が宮内庁の監修を受けて再現されています。当時の御座所の畳は近江表を用い、厠や浴室には杉板を使用。出入りする箇所には有り合せの襖が充てられていました。

県指定重要文化財「安積開拓官舎(旧立岩一郎邸)

安積開拓の中心的役割を果たした「福島県開拓掛」の職員用に建てられた官舎で、明治7年8月落成の「開成館」とほぼ同時期に建築。

明治12年(1879)、伊藤博文内務卿と松方正義勧農局長たちが安積疏水の起工式に来郡した時には、この部屋が宿舎となりました。松方はその時の感想を「茂松清風舎(松が茂り、清らかな風が入ってくる)」と書に残しています。

県開拓掛に着任した立岩一郎もここを宿舎としましたが、明治14年11月に官を辞した時、県から払い下げを受け、以来、立岩家によって守られ、昭和63年に郡山市に寄贈、開拓創業時の姿に復元されました。

明治11年(1878)、政府は国政事業として士族授産の為の安積開拓を決定し、全国各地から士族を移住させ、安積郡全域に広がる原野の開墾を開始。「安積開拓入植者住宅(旧坪内家)」。

鳥取開墾社」の副頭取・坪内元興の住宅で、明治政府が入植者の住宅用に補助金を交付して建築させた規格住宅の中でも上級クラスの建物で、明治政府の『黒田清隆』『三島通庸』などの高官が安積開拓の視察をした際の休憩所として利用しています。

郡山市指定重要文化財「安積開拓入植者住宅(旧小山家)」

明治15年に旧松山藩から安積町牛庭地区に入植した「愛媛松山開墾」15戸の1戸で、室崎久遠が明治政府から建築の補助を受けて建築。明治32年に室崎が転出した後は、同じ松山から入植していた小山宇太治が住んでいました。

「()国指定の名勝及び天然記念物:開成山櫻」開拓用の池の堤を強化するために植樹。今でも1,299本の桜が咲き乱れる県内有数の桜の名所として、季節には多くの人たちが訪れます。

訪問日:2015年6月26日


安積(あさか)開拓の歴史に触れる in 福島県郡山市

2024年10月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

会津若松市、郡山市、苗代町にまたがる断層湖「猪苗代湖(いなわしろこ)」。日本国内で4番目に広く、福島県のシンボルの一つとされ、湖水が澄んでいることから「天鏡湖(てんきょうこ)」とも呼ばれる猪苗代湖。

不毛の土地と云われた安積原野に水を流すため、猪苗代湖から流れる阿賀野川水系一級河川・日橋(にっぱし)川の上流に建設された「十六橋水門(じゅうろっきょうすいもん)」。近代日本の国営農業水利事業第1号といわれる安積(あさか)疎水はここから始まりました。

江戸時代、奥州街道の宿駅が置かれていた郡山。開成館に展示されていた当時の地図を見ると、宿場町の周囲には「不毛」と記された広大な原野が広がっており、それは、時に水争いも起こる程の慢性的な水不足によるものでした。(不毛の文字部分🔴表示)

「阿部茂兵衛像 」「戊辰戦争で郡山の町の大半は戦火で焼失。明治5年(1872)、福島県典事中條政恒は「開拓告論書」を出し、その政策を推し進め、物産方(金融業)阿部茂兵衛鴫原弥作、橋本清佐衛門を加えた4人で話し合い、開成山開拓(大槻原開拓)の意思を固めた。阿部茂兵衛を中心に富裕商人25人が集い、明治6年(1873)に「開成社」を設立。阿部茂兵衛を初代社長として開拓事業に尽力。開拓地までの道を作り、灌漑用水地(現五十鈴湖)を造成。心の拠り所として開成山大神宮を勧請、開拓事務所として開成館を建設。この開拓で、新村桑野村(現開成地区)が明治9年(1876)に誕生した。」現地案内より

福島県典事『中條正恒』「開拓の心 :―尺を開けば一尺の仕合あり、一寸を懇すれば一寸の幸あり」

「開成山大神宮」の正面鳥居の南側に建立された「入植者の碑・旧二本松藩士族 大槻原」。明治6年3月、福島県令の『安場保和』は二本松に出張し、安積開拓への移住を勧奨。それを受け、大槻原に28戸、対面原に11戸が移住。割り当てられた土地は久留米藩士族などの半分に過ぎなかったといいます。開拓村は後に「桑野村」となって独立。(全国9藩から郡山に移住した士族たちが安積原野を開拓した場所を示す「入植者の碑」は、市内10箇所に設置されています)

「中條政恒翁頌徳碑:元米沢藩士。明治5年(1872)福島県令安場保和に大槻原開墾の指導者として迎えられ、「開成社」の協力を得て明治9年に桑野村を誕生させた。この荒野開拓の成果が認められ、明治12年から国の事業として安積疏水の開削と、安積野開拓が進められ「安積開拓の父」と呼ばれた。」碑文は大久保利通の長男利武、彫像は北村西望作。

福島県は、旧二本松藩士の授産と養蚕による振興を目的として桑畑の造成を。開成社は、米の増産を目的とした溜池の築造と水田の造成を・・福島県の告諭書に集う開拓者たち。この開拓により、明治9年(1876)までに水田76ha、畑140ha、ため池54ha、宅地25ha、道路23haが造成。郡山市指定史跡「安積開拓発祥の地」碑と「明治天皇桑野行在跡碑」

「安積野開拓顕彰碑」。題字は『松平勇雄元福島県知事』。撰文は『高橋堯元郡山市長』。碑についての説明文には入植藩一覧も記されています。

刀を鋤に持ち替えて不毛の大地に挑む父と息子。傍らに寄り添う妻は乳飲み子を抱き幼子の手を引く・・レリーフは当時の入植者たちの姿を写し取った物でしょうか。

碑の台座に嵌めこまれた開拓者の故郷の玉石。それぞれの石の旧藩名は、当時の9つの自治体の酋長が銘記。棚倉藩・会津藩・二本松藩・鳥取藩・久留米藩・米沢藩・松山藩・「大槻南原・塩の原を担当した土佐藩」「対面原・青田原の開拓を担当した岡山藩」・・期せずして二人の故郷の石が並んでいる事に、不思議な縁を感じさせられました。

安積疎水の開削は、もともと日本海に注いでいる猪苗代湖の水を、奥羽山脈を掘り抜いて郡山周辺の安積野に導き、水不足の原野を沃野に変えようという、わが国初のプロジェクト。本格化したのは明治9年(1876)に福島に立ち寄った内務郷『大久保利通』が、福島県典事『中條正恒』の疎水計画を聴取したときから始まりました。 

「開拓者の群像」左から『中條政恒』『大久保利通』『ファン・ドールン』
「安積原野の開拓はこの地より創まる」ーかつて奥州路の小宿駅に過ぎなかった郡山は、明治の初期、この地の富商らが結成した開成社と、士族授産を目的とした明治政府直轄の大規模開拓により、太古以来の安積原野がことごとく開拓された。さらに明治十五年、有史以来初めて猪苗代湖水をこの原野に東注した安積疏水の完成は、今日の郡山市発展の原動力となった。 われらは、この地に開拓精神発揚のシンボルとして、「開拓者の群像」を設置し、先人に感謝しその偉業をたたえ、これを後世に伝えるものである。 1992年10月 郡山市」

明治15年の通水式で農商務大輔として出席した『品川弥二郎』が詠んだ【 岩が根を 砕きて落す 猪苗代の 水は黄金の種となる覧 】

訪問日:2016年6月26日